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用意してもらった部屋は、ちょっと薄暗いが居心地は良い。
木製の鎧戸を開けると、涼しい風が入り込んできた。
暑くも寒くもないので、今の季節はいつ頃なのだろう。草が青々しているので、初夏くらいだろうか。
家具はどれも樫製でどっしりしたものだが、側面に模様が彫りこまれ、草花の絵が描かれている。カーテンや天蓋の緞帳は黄緑色だ。いかにも若い女性向けといった雰囲気だ。
ベッドのマットがふかふかなので、この一週間、外で暮らしていた有紗には涙が出るほどありがたい。
本当はベッドに飛び込みたいが、一週間もさまよっていたのに、風呂にも入らずに寝転がる気はしない。今は触るだけにしておいた。
レグルスに頼んで、風呂の用意をしてもらっている。ここでは部屋の中で風呂に入るらしく、深い桶みたいなものに、召使いが沸かした湯を運んでくる。見ていると、何往復もしているので気の毒だ。二階まで運んでもらうのも申し訳ない。
有紗が手伝いたくてうずうずしていると、ヴァネッサが現われた。畳んだ衣類を持っている。とても楽しそうに輝くような笑みを浮かべ、テーブルに衣類を広げていく。
「アリサ、ひとまずミシェーラの服を貸します。見て、この青いドレス。綺麗な色でしょう? あなたに似合うと思うわ。もちろん、新しい服は早めに仕立てましょうね」
上機嫌で服の説明をしてくれるが、有紗にとってはコスプレなので、似合うと言われてもよく分からない。
長袖の白いワンピースの上に、青い上着を着るらしい。三角のえりで、デコルテがよく見える。
若い女性は頭をさらしてもいいが、それ以外はヴァネッサのようにヴェールなどで覆うそうだ。有紗は二十二だが、未婚だから髪はさらしていてもいいのだが、正体がバレては困るので、髪は隠すことに決まった。
髪を覆うのはウィンプルで、その上にヴェールを被る。キリスト教の尼僧みたいだ。
室内履きにサンダルのようなものを用意してもらってブーツを脱ぐと、風呂の準備が整った。召使いが出て行ったのを見届けてから、扉に鍵をかけ、衝立に隠れるようにして服を脱ぎ、さっそく湯に浸かる。
ヘチマでできたスポンジみたいなもので、体をこする。特に汚れが落ちる様子も無い。森の中で一週間も過ごせば汚れや垢がすごいことになりそうだから、やっぱり不思議だ。
一人残ったヴァネッサが、有紗の入浴を手伝ってくれた。手桶で湯をすくって頭からかけてくれる。有紗がよく知る固形石鹸はないようだが、水で揉みこむと泡が出る木の実があって、それで髪を洗った。
手桶ですくったお湯で泡を洗い流すと、最後に、別に置いておいた綺麗なお湯を頭からかぶって終わりだ。
初対面の人に裸を見られるのは恥ずかしいが、年上の落ち着いた女性であるヴァネッサなのでまだ良い。タオルも無いうようで、木綿の布で丁寧に拭いて、ヴァネッサに教えられるままこの国の服に着替える。
(でも、女性用下着に、パンツが無いなんて……)
足がスースーして落ち着かない。肌着はワンピース状のシュミーズだ。半ズボンみたいなものはあるが、月のものの時しか履かないそうだ。でないと、トイレがしづらいからだとか。
「この衣服は、私が責任もって洗濯係に頼んでおきます。それにしても、このブラジャーとパンツでしたっけ? 装飾が見事ね。似たものを作らせようかしら」
有紗の下着は綺麗に洗った後、ヴァネッサが仕立屋に見せに行くそうだ。
自分も似たようなものが欲しいとヴァネッサに頼まれたから、複雑な気持ちで了承した。「変わった服といい下着といい、元の世界でも姫君だったんでしょう」と笑うヴァネッサに、「それは上下セットで二千円の安物です」なんて言えなかった。それに、できるなら似たものを作ってもらい、有紗にも分けてもらいたいという下心があったのだ。
「さ、髪に香油を塗り込みましょうね。私の立場は低いけれど、陛下の寵愛は深いのよ。品は良いからきっと気に入るわ」
王の気遣いがあれば何かと贈り物が届くので、側妃でも生活は豊かになるのだとヴァネッサが教えてくれた。
ヴァネッサは楽しそうに有紗の髪を梳いて、丁寧に香油をすりこんでいく。部屋は薔薇の甘い香りでいっぱいになった。
風呂を終えたら、なんだか疲れた。
フードをかぶって、衝立の裏に隠れ、召使い達が風呂桶のお湯を桶で汲み出して運び出していくのを待った。その非効率さに、有紗は不憫になる。井戸が近い一階に風呂場があれば、彼女達も仕事が楽だろうに。
片付けの途中から、ヴァネッサはレグルスに呼ばれて部屋を出ていた。ロドルフも交えて、レグルスが有紗の事情を説明すると言っていたから、それだろう。
召使いがいなくなると、部屋に鍵をかけ、ベッドに腰かけてぼーっと部屋を眺める。
まだ髪が生乾きなので、寝転がる気になれない。
それに、喉が渇いている。
あれから少し時間がたって、隣で扉が開閉する音がした気がしたから、有紗はじっと内扉を見つめた。
(レグルス、隣にいるのかな)
喉が渇いたから血をくれるように頼んでみようか。それとも、もう少し我慢したほうがいいだろうか。
有紗は悩みながら、内扉の前を行ったり来たりする。
血を飲むのに慣れてしまったら、それこそ人間をやめたみたいでこたえる。だが喉は渇く。
「うーん」
決心がつかなくてうなっていると、向こうからノックされた。
「アリサ、僕に何かご用ですか?」
有紗が言わない限り、レグルスからは内扉を開けないという約束を守ってくれているようだ。
有紗は内扉をそっと開けた。少しだけ開いた隙間から、向こうを見る。
「なんで分かったの?」
「そんなに行ったり来たりしていたら、足音と気配で分かりますよ」
おかしそうに、レグルスは薄らと笑う。彼の笑いかたは、本当にささやかだ。だが有紗はその笑みを見ると、夜空に流れ星を見つけたみたいに、ちょっと気持ちが浮上する。もっと見てみたくなる。
「喉が渇いたんですか?」
「う……、よく分かるね」
「風呂に入れば、誰でも喉が渇きます」
「そっか」
「ええ。だから、とても正常なことなので、怖がらなくていいんですよ」
まさに有紗の不安を言い当てられて、有紗はじわっと涙を浮かべる。無言のまま、小さく頷いた。
遠慮は吹き飛んで、えいっと扉を引く。
扉のすぐ外にいたレグルスのこはくの目が、分かりやすく丸くなった。
「アリサ、その服……」
「これ? ミシェーラちゃんのものを貸してもらったんだよ。似合ってる?」
有紗としては、コスプレ気分だ。スカートを摘まんでひらひらさせてみる。レグルスはぼんやりしていて答えない。
「レグルス? 大丈夫?」
もしかして疲れが出たのだろうか。有紗が顔の前で手を振ってみると、レグルスはハッと我に返った。
「すみません……あんまり綺麗なので、見とれてしまって」
「社交辞令でもうれしいわ。ありがとう」
すごいな、王子教育。
そんな言葉がするりと出てくるので、有紗は照れ笑いを浮かべる。
「あの不思議な服も、姫君の衣装のようでしたね。刺繍が見事で素敵でした。ですが、我が国の服を着ているところを見られるのは、また格別です。月もかすんで姿を隠しそうで……うっ」
臆面もなく褒めるものだから、有紗は思わずレグルスの口を両手で塞いだ。有紗は赤くなっているだろう顔を横へ向ける。
「それ以上は言わないで。は、恥ずかしいから」
レグルスが頷いたので、有紗は手を離す。彼はにこにこしている。
「何?」
「いえ、可愛らしいなあと」
「もうっ、褒めなくていいってば」
照れのあまり怒りながら、有紗は強引に話題を変える。
「ええと、それでっ」
「はい」
「血を……飲ませて欲しいなあって」
「いいですよ。ええと、手首をザックリいけばいいんですか?」
「ちょっ、包丁で大根を切るみたいに言わないでよっ。指先にチョンくらいでいいと思う。たぶん」
「ダイコン?」
レグルスは首を傾げながら、チェストの引き出しからナイフを持ってきた。
そのまま切ろうとするので、有紗はレグルスを止めて、先に刃先を洗ってもらった。それからレグルスが左手の人差し指の腹に、ナイフを押しつける。意外とザックリ切れて、血が出てきた。
「チョンでいいって言ったのに!」
「針のほうが良かったでしょうか。はい、どうぞ」
「あなた、ほんっとうに落ち着いてるよね! 私は助かるけど!」
全くためらわないレグルスに、有紗のほうが慌ててしまう。血が零れ落ちそうなので、思わず差し出された指を手でつかむ。ふわっと甘い香りがした。その途端、頭にかすみがかかったようになり、うっとりする。
「おいしそう……」
そのままふらふらと指に口を近付けようとして、ふとレグルスがこちらをじっと見ているのに気付いた。なんだかいたたまれなくなって、有紗は叫ぶ。
「あっち向いてて!」
「……はい」
どうしてちょっと残念そうなのだろう。心の中で不思議に思う。
レグルスが横を向いたのを確認すると、有紗は恐る恐る指先に口を寄せた。ペロリと傷口をなめると、喉の渇きがスーッといえていく。
その傷が治ったのを確認すると、有紗はレグルスの手を離す。
急に、怖くなってきた。あの黒いもやはまだいいのだ。でも、血は嫌だ。血をなめて渇きがいえる事実に、自分が人間でなくなったことを突き付けられる。
「アリサ……?」
有紗が静かなので、レグルスがこちらに顔を向ける。有紗の涙を、レグルスはそっとぬぐった。
「本当は血なんて飲みたくない」
「ええ、分かっています」
「神子って言われても、うれしくないの」
「……はい」
頭をやんわりと撫でてくれる手を、有紗は目を閉じて受け入れる。目からは涙がぽろぽろ落ちていく。
――こんなふうに泣いたら、また喉が渇いて、血を飲みたくなるのに。
そう思うが、抑えがきかない。
有紗は自分からレグルスに抱きついた。
森でパニックになっていた時、温かく受け止めてくれた記憶がよみがえる。ここにいれば、きっと安心だ。
有紗が落ち着くまで、レグルスは静かに寄り添ってくれていた。




