私のやるべきことは
思ってもみなかった宰相の息子の言葉に驚く。
宰相の息子はそんな私を優しく美しい顔で見ていた。
……そうか。
私はこの人の手を取ればいいのか。
宰相の息子は公爵家の長男だ。
王族とは縁戚関係にあり、王太子と懇意にしている。
公爵家の跡取りで、次期宰相との呼び声も高く、次代の王とも近い彼の方が、第二王子であるセド様よりも国内での勢力は上かもしれない。
『私と共に行きませんか?』
私と宰相の息子との間に接点はほとんどない。
なぜ彼がそんな風に私を気に掛けてくれるかはわからないけれど、彼の手を取れば記憶とは違う人生を送れるかもしれない。
もし、セド様に婚約破棄をされても、私の居場所がなくなることはない。
むしろ、居場所がなくなるのはヒロインや攻略対象者の人たちのほうだろう。
宰相の息子の力があれば、それぐらい簡単にできる。
だから、私は宰相の息子の手を取ればいい。
わずらわしいことを全部忘れて、彼と共に行けばいい。
けれど……。
『私なら、あなたを守ることができます』
宰相の息子の言葉は、なぜか私の胸をきゅうっと締めつけた。
それはとても苦しいのに、いやじゃなくて……。
その痛みに思い出すのは濃いブルーの目。
月が輝く夜空の下。
白いタイルを敷いたテラスの上で片膝をついて私を見上げてくれたあの目。
『私と共に歩んでくれませんか』
……その言葉が。
『私が貴方を守ります』
……本当に嬉しかったから。
記憶の中の濃いブルーの目はいつもまっすぐに私を見てくれていた。
その目をじっと見ると、いつも私に応えてくれた。
なのに……私は……。
一度ぎゅっと唇を噛んで、目を閉じる。
そして、目を開けて、こちらを見ている目を見つめ返した。
……そこにあるのは紫色の目。
……私をドキドキさせる色じゃない。
ふぅと息を吐いて、太い幹に手をかけた右手にぐっと力を入れる。
そして、えいっと枝から立ち上がると、風がざあぁと吹き抜けていった。
「……私はあなたとは行きません」
誘いを断った私に、紫色の目が大きくなる。
「私は力を使うのが怖かった。力を使って、知らないうちに誰かを傷つけ、恨まれるのが怖かったのです」
恨まれて……悪役になるのが怖かった。
「あなたと共に行けば、そんなことは気にせず生きていけるのかもしれません。けれど……」
紫色の目をまっすぐ見つめる。
その目に私の弱さが映らないよう、ぎゅっと口角を上げた。
――あなたの手は取らない。
「私はライラック・バルクリッドですから」
――やらなくてはいけないことがある。
こんなの、ただの虚勢だ。
けれど、精いっぱい笑みを浮かべる。
すると、宰相の息子はおかしそうに破顔した。
「……っあなたは本当に面白い」
今まで悲しそうな顔をして私を案じているようだったのに、それを一変させて、ははっと声を立てて笑い出す。
その変わりようにびっくりしていると、宰相の息子は口元に手を当てたまま私を楽しそうに見つめた。
「……夜のテラスを覚えていますか?」
夜のテラス。
そこにはいい思い出とそうではない思い出がある。
そして、宰相の息子が言っているのはいい思い出ではないほうだろう。
「伯爵家の次男と将軍の息子がもめていた夜。私と伯爵家の次男とが共謀して、将軍の息子を失脚させようとしていた夜のことです」
……それは私が宰相の息子という存在を知った日だ。
遠くから見ている水色の髪の男の子を見て、攻略対象者だと気づいた夜。
「あれはただの暇つぶしでした。――そこにあなたが現れた」
宰相の息子は美しい顔を破顔させたまま、懐かしそうにその日のことを語る。
「あなたの黒い瞳がきらきらと輝いて……。そして、まっすぐに背筋を伸ばしたまま、すべてを変えていきました」
私にとってはいい思い出ではない。
「あの日、あなたが凛とした目でテラスへ向かった時から、私はずっとあなたの目が忘れられなかった」
なのに、宰相の息子はまるで宝石箱の中身を見せるかのように嬉しそうで……。
「もう一度あの目が見たい。そう思いあなたを見ていました。すると、あなたが力を使わないこと。そして、それはどうやら他人を思いやってのことらしいと気づきました」
私はあの夜から攻略対象者には絶対に関わらないと決めた。
けれど、宰相の息子はその夜からずっと私のことを気にしていたのだろうか。
「あなたがダンスができなくなって、悲しめばいいと思いました。悲しんで、その中でまた立ち上がって欲しい。その度にあなたの目は輝くのだろう、と。だから、貴族の中に噂を流布しました。バルクリッドの娘が真剣の婚約者を探している。もしかしたら、既に相手がいても本気になるのではないか、と」
……私がダンスばかりをしていた頃。
一人でダンスをしていた夜のテラスに三人の令嬢がやってきた。
婚約者をとらないで、と言っていた彼女たち。
それは宰相の息子が立てた噂にどうしようもなく不安になって行動してしまったんだ……。
「そして、心優しいあなたは思い通りにダンスをやめてしまいました」
……そう。
大好きなダンスだけど……。
目の前で泣く令嬢を見れば、それを続けることができなかったから。
「しばらくは落ち込んだあなたを見ていました。けれど、あなたはすぐに前を向いたようで、また目がきらきらと輝いていました」
ダンスがしたくて……。
だけど、ダンスをして人を傷つけるのが怖くて……。
ダンスができない私を侍女のエミリーが励ましてくれた。
がんばって婚約者を見つければ、また大好きなダンスができる、と。
そう信じて、もう一度がんばろうと思った。
「次はどんな風にしようか、と考えているうちに第二王子と婚約して……。第二王子と婚約したあなたはどこで見かけても、あの時のようなあなたではなかった」
……でも、進んだ道は第二王子と婚約する道だった。
記憶通りの出来事。
それを目の当たりにして、自分が信じていたものがすべて無駄だったのかもしれないと思った。
全ての出来事が自分を悪役令嬢にするためのものに思えて……。
――ダンスがしたい、と。
そう思った自分さえ、信じられなくて……。
「あなたの友人をそそのかしたのは私です」
紫色の目が楽しそうに細まっている。
罪を告白しているはずなのに、どこか無邪気に宰相の息子は笑った。
「フローリア・サシュ嬢にあなたが心を痛めている。このままにしていていいのですか? と」
宰相の息子の言葉に、私を気遣ってくれていた二人の顔が思い浮かぶ。
リーラとペティは宰相の息子の言葉を聞いて、なんとかしなくてはならないと思ったのだろう。
「……どうして、私にそれを?」
なぜ私にそんなことを教えてくれるのだろうか。
宰相の息子の真意を探ろうと、じっと紫色の目を見下ろす。
私にそれを教えて、彼に利はないと思う。
最初に声をかけてきた時のように、私に同情するふりをしていた方が都合がいいはずだ。
けれど、そんな私に宰相の息子は屈託なく笑った。
「今のあなたの目は美しい」
そして、うっとりと私を見る。
「あなたが私と歩んでくれるのならそれでもいいと思いました。どうせ力を使わないのであれば、私のそばに置いておけばいい、と」
紫色の目は本当に楽しそうに細まっていた。
「あなたが決意をする瞬間を見ることができた。その美しい目に対する私なりの礼です。……どうせ、あなたが行くのであればすべてが終わってしまいますから」
『すべてが終わる』
その言葉は決意したはずの心を簡単に揺らしてくる。
そう。私が宰相の息子の手を取らないということは、記憶通りに進むということだ。
悪役にならないように……。
脇役なんかになりたくないって過ごしてきた日々が終わってしまう。
……油断すれば、また、もういやだって気持ちに飲まれてしまいそうだ。
「……あなたの理由はわかりました」
だから、そんな弱さを打ち消すために、もう一度、精いっぱい笑った。
「あなたがあなたの人生を選んだのなら、それでいいです」
うん。
それでいい。
私の悲しんだ後の目が見たいなんて変な動機だと思う。
でも、それが宰相の息子が選んだ道。
誰かに決められた人生じゃない。
ちゃんと、自分で選んだ人生だと思うから。
「私も私の人生を選びます」
それだけ告げると、木を降りるために左足を下の枝に伸ばした。
そして、太い幹や枝に手をかけながら、なんとか地面へと降り立つ。
宰相の息子は私の気が散らないように、声をかけることをしなかったが、無事に下まで降りるとゆっくりと声をかけてきた。
「……あなたは私に怒りが湧かないのですか?」
木から降りた私は二階にいる宰相の息子を見上げる形になる。
「私がみなを扇動して、あなたを苦しめようとしたのですよ」
遠くなった紫色の目がそれでも私を離さないようにじっと見つめていた。
先ほどよりも距離があるから、彼に聞こえるように、しっかりと声を出す。
「あなたが行動に移してくれて良かったと思います。何も起こらなければ、私は何にも気づけなかったかもしれません」
そう。きっと、楽しくダンスをして。
でも、ただそれだけ。
今の私にはなれなかった。
「気づくことができて良かったと思うことがたくさんありますから」
プレーリーが嫌がらせをされていることに気づけた。
誰でもいいとダンスをすることが、女の子を悲しませることに気づけた。
ヒロインがリーラとペティに嫌がらせをされていることに気づけた。
――セド様から逃げ続けている自分に気づけた。
……私、ちゃんとセド様に向き合っていない。
ずっと怖くて、セド様から逃げていた。
「これからは直接言って下さると嬉しいです」
紫色の目をまっすぐ見つめる。
こんな風にセド様の目を見たい。
――もう、逃げたくない。
それが、最後になったとしても。
いつも私をドキドキさせてくれたあの濃いブルーの目を見たい。
「……サーフィス様。また、声をかけてください」
宰相の息子の名前を呼ぶ。
彼の名前はサーフィス・ネモフィラ。
ちゃんと知っている。
けれど、あえて呼んでいなかった。
……ずっと避けていたから。
攻略対象者とは関わりたくないって、この人を存在しないかのように扱っていたから。
「私も声をかけますね」
まさか、私が名前を知っているなんて思わなかっただろう。
驚いたように私を見つめる紫色の目に微笑みかける。
「では」
簡単に礼をして、駆けだそうと体の向きを変える。
すると、少し掠れた声が聞こえた。
「……本当に行くのですか?」
駆けだそうとした足を止め、ゆっくりと振り返る。
呆然としたようなその顔がおかしくて、あははと笑ってしまった。
「はい」
この先の未来を知っていても。
それが望まない未来だとしても。
「友達は助けなきゃ」
そばにいてくれた二人を。
リーラとペティを見捨てたりしない。
――そんな私でありたいから。






