声をかけて来た人は
突然かけられた声に、驚いて振り返る。
腰かけた枝から背後を見れば、少し距離はあったが、旧校舎の二階を見下ろすことができた。
そこの窓が開いており、こちらを見上げている男の人がいる。
水色の髪は窓から入る風に優しく揺れて、細まった紫色の目は少しだけ笑っているように見えた。
……攻略対象者だ。
昔、プレーリーが将軍の息子であるローワン様に嫌がらせを受けていたテラス。
あの夜、遠くからこちらを見ていた宰相の息子だ。
年齢が二つ上だから、学園では接触することがなかった人。
水色の髪は長くなっており、右耳の下でゆるく結んでいる。
そして、涼やかな目元はあの時と同じように私を楽しそうに見つめていた。
「どうされたのですか?」
すぐに言葉を返せなかった私に、宰相の息子がもう一度声をかける。
私の警戒心を解くような優しく美しい笑顔だ。
「……気分転換です」
誤魔化してもよかったが、素直に言葉を返す。
「木に登りたくて」
宰相の息子はまさかそんな答えが返ってくるなんて思ってもみなかったのだろう。
紫色の目が少しだけ大きくなった。
「……では、騒動から逃れるため、あえてここにいるわけではないんですね」
「……騒動とは?」
宰相の息子の言葉にある覚えのない単語。
……騒動なんてあっただろうか。
一人で走ってここに来てしまったが、それは私の心の問題で学園自体は至極平和な昼休みだったはずだ。
不思議に思って聞き返すと、宰相の息子は少し困った様な顔をした。
そして気遣わしそうに私を見る。
「……フローラル・サシュ嬢が嫌がらせをされていることはご存じですか?」
……ヒロインが嫌がらせをされている?
驚いてひゅっと息を飲むと、宰相の息子は悲し気に紫色の目を細めた。
「フローラル・サシュ嬢は子爵家の令嬢ですが、交友関係が少し派手だったようですね。……身分が高く、人気のある異性の者たちと一緒にいるせいで、同性には好かれていなかったようです」
宰相の息子の言葉に胸から、さきほどとは違う音が響き始める。
胸の辺りをつかんだままだった左のてのひらからは、じわりと汗がにじんだ。
……確かに、ヒロインはいつも異性と一緒にいた。
同性の友人と一緒にいるところはあまり見なかったかもしれない。
でも、それだけだ。
ヒロインの周りにいるのは、いずれも将来を約束された異性。
ヒロインに嫌がらせをして、火の粉をかぶるようなことをする人などいないはず。
嫌がらせをしたって自分たちの利になることはないのだから。
「好かれていないといってもそれだけです。みな距離を取り、遠巻きに見ていただけ。わざわざ渦中に飛び込む者はいませんでした」
私の考えを読むように、宰相の息子が言葉を続けていく。
それはヒロインを嫌がらせする人などいない、ということだ。
なのに、紫色の目は私を安心させてくれる色はしていなくて……。
「けれど――あなたの友人方は違ったようですね」
その言葉に胸がギシと嫌な音を立てた。
「……私の友人」
宰相の息子の言葉にさきほど別れたばかりの二人の姿が浮かんだ。
いつもにこにこと笑ってくれるリーラ。
そして、面白い話をたくさんしてくれるペティ。
若葉色の髪と茶色の髪を持つ優しい二人。
「最初は声をかけて諭していただけのようです。けれど最近ではエスカレートしたようで、学用品を壊したり、背後から突き飛ばしたり……。かなり直接的に彼女を追い出しにかかっています」
……あの二人がそんなことを。
いつだって私を気遣ってくれていた二人が。
「あなたの顔を見ればわかりますが……嫌がらせのことはご存じなかったようですね」
胸がきりりと痛む。
「……でも、学園にいる他の者はどう思っているでしょうか」
てのひらの汗が増えて、指先が冷たくなっていく。
「フローラル・サシュ嬢を追い出したところであなたの友人方に利はありません。では……彼女を追い出して利があるのは誰でしょう」
宰相の息子が悲しそうに顔を歪ませる。
美しい顔でつむがれる言葉は、真実を語っているように思えた。
――ヒロインに嫌がらせをしたのは私だ、と。
「……わかりました。教えてくださってありがとうございます」
ふぅと小さく息をはき、汗をかいた左手を胸から外す。
強く握りしめていた胸元はしわになってしまっていた。
「そうですね。彼女を追い出して利があるのは私だけかもしれません」
声に出してしまえば、その事実はすんなりと馴染んだ。
そんな私に宰相の息子はゆっくりと落ち着かせるように言葉を発する。
「……彼女の行動をもっとも嫌がっていたのはあなたでしょうから」
その言葉にふっと小さく笑ってしまった。
……確かにその通りだ。
この世界でヒロインのことをもっとも嫌っているのは私だろう。
ピンクグレーのふわふわな髪も。
こげ茶色のまるい目も。
柔らかくてとけてしまいそうなその笑顔も。
――セド様の目をまっすぐに見る、その心も。
全部。
全部。
羨ましくて――。
「……私が直接手を下さないだけ。私が二人に命令をして、嫌がらせをしている」
――だって、私は主役にはなれないから。
「さすが、悪役令嬢ですね」
ポツリと呟いて、宰相の息子から視線を外す。
指先は相変わらず冷たい。
けれど、宰相の息子が語った真実を案外あっさりと受け入れることができた。
――世界は変わらない。
……知っている。
変わらない世界。
その世界に私がいる。
――自分なりにがんばった私がいる。
眼下に広がる、先ほどと変わらない景色。
陽は暖かく、風が優しく頬を撫でていった。
「それで、それが騒動に関係あるのですか?」
もう一度、宰相の息子のほうへと振り返り、言葉をかける。
ヒロインが嫌がらせをされている。
しているのはリーラとペティ。
そして、みんなは私が二人に命令したと思っている。
そのことが騒動にどう繋がるのか。
疑問を口にした私に宰相の息子は悲しそうに私を見返した。
「先ほど、あなたの友人方がフローラル・サシュ嬢のところへ行ったようです」
二人が、あの庭に……。
二人とは先ほど、昼食をとる前に別れた。
それは廊下の窓からセド様とヒロインが二人で話している姿を見て、私が心を乱してしまったからだ。
……二人を心配させたくなかった。
けれど、いつもとは違う私の行動に二人だって何か思うことがあったはず。
昼食に行っていると思っていたけれど、二人は私と別れた後、あの庭のベンチに向かったのだろうか。
「フローラル・サシュ嬢は嫌がらせを止めようとしていて、友人である異性の方々を呼んでいたようですよ」
……ヒロインが呼んだ異性の友人。
それはいつも一緒にいる攻略対象者たちだろう。
「今頃はあなたの友人方がフローラル・サシュ嬢とその友人の異性の方々と揉め事を起こしていることでしょう」
宰相の息子の言葉に、その光景がありありと想像できた。
嫌がらせをやめて欲しいと頼むヒロイン。
その周りには攻略対象者がいて、ヒロインを守ろうとするのだ。
……実際にこの目で見たわけではない。
なのに、その光景は鮮明に思い描けた。
――そう。私は知っているから。
それは十歳の時に思い出した記憶。
……ずっとずっと恐れていた、その瞬間。
私は嫌がらせをしない。
だから、大丈夫なのだと……。
そう思っていた。
……そう思いたかった。
「……私は知っています。あなたは嫌がらせをしていない」
黙り込んでしまった私に、宰相の息子が落ち着いた音で声をかけてくれる。
「あなたはここにいればいい」
優しく美しい顔で私に逃げ道をくれる。
「あなたの友人方があなたのことを話すかもしれないが、あなたは知らないと言えばいいだけです」
リーラとペティは攻略対象者に責められているのだろうか。
もし、攻略対象者に言い募られたら、私の名前を出さないと言えるだろうか。
「フローラル・サシュ嬢やその周りの人、そこであった出来事など気にする必要はありません」
……そう。全部気にしなければいい。
だって、私は何もしていない。
誰に責められようとも、私には関係のないことだ。
「私と共に行きませんか?」
宰相の息子が紫色の目を優しく細めた。
「私なら、あなたを守ることができます」






