深い霧
心理描写を疎かにしたくないんですけど、あまりこだわるとくどくなる罠
何かに顔を撫でられる感触で目が醒める。遮る物が何もない視界は重苦しい曇天に覆われえ、微かに聞こえる雨音を喧騒が塗りつぶしていた。徐々に五感がクリアになり、そして背中から不味い水が吸収されている感覚を皮切りにぼんやりとしていた意識が完全に覚醒した。
「あ、ユニエ、起きたんだね。体、大丈夫?」
横からのぞき込んできたリーシャの顔を見て、何があったのか思い出した。私は…そうだ、ルエスと闘っていて、それで…
ばね仕掛けの人形のように身を起こすと、目の前には軍人が慌ただしく動き回る光景があった、しかし戦闘時の騒乱や恐慌は無い。
「なあリーシャ、いったい何が…大丈夫か?」
リーシャの顔を改めて見ると煤けきった顔をしており、頰に一筋の切り傷が付いていた。何処かに掠ったような浅い筋が赤く滲んでいる。
「色々あったからね。ちょっと眠いかな。ユニエは?どこか痛かったりしない?」
消耗した様子を見ると、リーシャが眠いで片付けたのは強がりな気がする。
「本当にそれだけか?」
手を伸ばして埃のついた傷口を水で濯ぎ、指で濡れた所を拭う。血の味がしたが、何故か不味さは感じなかった。
やはり不思議な子だ。たびたび思い起こされる思いは、自分自身に対する疑問に転換する。街に来て以来酷い渇きを感じることはめったになくなり、今では水の心配よりこの赤毛に心を砕く時間が多い。精霊としてそれが特異な事だと、無知な私でも感じ始めている。
くすぐったそうに細められた目からチラリと覗く紅く妖しい輝きに魅せられながら、ぼんやりと考えてみる。
精霊として水を欲する気持ち以外が存在するのは人間だった名残か。しかし何故リーシャにだけこれほど強く惹かれるだろうか。私が異常なのか、リーシャが特別なのか…
ゆるゆると綺麗になった頰を撫でながら見つめていたら、褐色の手が伸びてきて私の白い手の甲を包んだ。
「大丈夫だよ。私だって少しは強くなったんだから。だから、大丈夫。ユニエこそ、どうなの?」
改めて質問されて思考が霧散する。まあルエスの事も気になっいるのだ、リーシャに何かあるわけではなかろう。
さてと、不具合はあるか?自分の体へと視線を移して確認するが、私にも外傷は無く体に違和感も無い。 奴ははどうやら手加減してくれていたようだな。いつかまた会った時には水をぶつけるだけで許してやるか。
ふむ、宙がえりでも披露すれば安心するだろ。
「私は大丈夫だ。ほれ、この通り…ぐわっ!」
いつものように浮き上がろうとするも虚脱感に襲われて落下してしまう。ポトリと軽い衝撃に痛痛みはなかったが体に上手く力が入らない。
「ああっ、無理しないで。魔力が荒らされたらしいから、安静にしてなきゃ。水を飲んでたらそのうち治るって言われたから。」
よく見ると自分がいるのはほんのり赤く色づいた水溜りの上だった。血だ、血が混じっている。綺麗な雨水が台無しだ。
そう思って再び空を見上げるが、雲っているくせに一滴も落ちてこない。どころか風も感じない。またアルか誰かが魔法でも使ったのか。
リーシャの血よりも不味いのは濃度が高いからか?分らんがまあ大人しくするか。
「で、結局何が起きたんだ?」
「帝国の特殊部隊のテロ、だって。前の市長の息子さんが何か吹き込まれて協力してたらしいよ。」
黒い毛並みが思い返される。クソガキとしか言わんから知る由も無かったが、成る程な、あいつも手のかかるのに引っかかった訳か。内のはその点年の割に大人びているしな。偶に積極的すぎる嫌いがあるが無気力よりはいいだろう、たぶん。
それにしてもやる事がテロの片棒を担ぐ事とは。リーシャの進路に口うるさく言うつもりはないが、流石にそんな事になれば私なら意地でも止め…られるだろうか。
リーシャの顔を見つめると、首を傾げて微笑んでくれる。
「どうしたの?」
「いや、宿に戻ったら体を洗わないとな。」
リーシャが演説を聞くために群衆へと紛れ込んだ時、駆け出すその背中を私は引き止められなかった。結果的に思いとどまらせるのに失敗したとしても、話し合いすらなければ私は何もできない。
気をつけねばな。リーシャが庇護を必要とする限り、私が守らねば。保護者として役割を全うせねば。
「良し。もう大丈夫だ。」
体の調子が元に戻ったのを感じて立ち上がる。飛ぶのは無理そうだが、歩くのはなんとかなる。
「ほれ。帰ろう。」
リーシャの手を取って歩き出す。
「こうしてると姉妹みたいだよね。」
「私がお姉さんだからな?」
「はいはい。」
少なくとも今はまだ、私はお前を見守る義務がある。
手を握って通りを歩いていると人通りが増えてきたが、みな熱心に話しているようだった。十中八九あの演説に関してだろう。直ぐ側を見やると案の定リーシャは興味をひかれているようだ。会話に耳を向けているが故に遅くなった足取りを急かす為に強く手を引くもなかなか早まらない。
小さな戦いに終止符が打たれたのは宿に着いてからだった。思った以上に時間が掛かったな、まったく。 しかしゆっくり歩いたお陰かだいぶ力が戻って来た。入り口の前で手を離して、いつものようにリーシャの左上に移動するが、いつもよりは少し側に寄る。
「ん?どうしたの?」
いつでも掴める距離に、前に出れる近さで。勝手に走り出さないように、いつだって見守れるように。
「こうしないとドアが潜れんだろう。」
口に出すにはやはり恥ずかしいがな。
「ふーん、そう?」
リーシャはニヨニヨと笑っている。何か勘違いされてるように思うが、親心子知らずだな、うむ。
いつもだったら何か言い返すところだが今回は何も言わないでおいてやる。別に墓穴を掘る羽目になるからではない。
しかし沈黙をどう受け取ったのか、ニヨニヨ笑いはそのままである。いいんだ、私が年上なのは厳然たる事実だ。この赤毛めは全く信じてないようだが。
そんなリーシャは階段を上がるにつれ何故か浮かれ気味になっていった。そしてとうとう部屋に入るスキップをしながら一目散にベットへ向かって行った。何が何だかわからんがそのまま行かせる訳にはいかん。しかしまさかこうも早くすぐそばに控えていたことが役に立とうとは。
今まさに寝床にダイブせんとしていたのを押しとどめる。
「体洗うぞ。服脱げ。」
「もう明日でいいよ…寝むーい!」
やはり何か変だ。疲れて脳がやられたか?いつも以上に手間がかかるリーシャを宥めすかして泥と汗を拭き取ってやる。髪も洗った後は手櫛で乾かしていると
「まだー?」
いつもより子供らしい口調が聞こえた。
「まだだ。ちゃんと乾かさないと寝癖が酷くなるんだぞ。」
初めて会った頃を思い出すな。もっとも今の様子の方が手が掛かりそうだが、これぐらいだと世話のやり甲斐がある。
「良し。もういいぞ」
「やっと寝れるー!」
何か変なスイッチ入っている。深夜テンションみたいなものか?果たしてこんなので寝れるのだろうか。
リーシャは下着姿で揚々と部屋を闊歩し、カーテンを閉めると
「おやすみ!」
「お、おやすみ。」
ベットへと一直線に飛び込み、爛々と輝いていた隻眼が閉じた。
大人しくなったと思ったのもつかの間、いつもだったら驚愕の早さで寝付くはずが今回はずっとモゾモゾしたりなんだりでなかなか落ち着かない様子だ。暇つぶしに水を捏ねるもそっちが気になって造形が疎かになる。
「ねえユニエ。まだ起きてる?」
不意に奇妙な質問が飛び出した。リーシャは顔をこちらに向けて確かめるように
「起きてるよね…」
再度呟いた。
「起きてるぞ。」
リーシャは私が寝ない事を知ってる筈だが?
疑問に思っていると予期せぬ言葉が続いた。
「今日だけでいいの、一緒に寝てくれない?」
さっきまでとは打って変わって、いや今までにない程にしおらしいトーンで添い寝を要求された。表情もどこか弱々しいな。ま、まさか今になって具合が悪くなったとかか?切り傷から破傷風になったとかか?
オロオロとしているとそれを困惑と受け取ったのか、
『ダメ?』
切なげな声で言われ、体が吸い寄せられるようにベットへ漂って行く。あっ、服を脱がなくては。
ギリギリで水を再吸収し、リーシャの隣に着地する。
「何かあったのか?」
すり寄ってくるリーシャの頭を撫でながら聞いてみる。ヤバい、今の私はすごい保護者感があるぞ。先ほどと言い今と言い、最近なかったお姉さんらしさが全開に振るえて満足である。
「今日ね、人が切られたのを見たの。知ってる人で、多分、死んじゃった。」
赤い唇から零れ落ちた言葉に心が冷えた。
「さっきまでは忙しくて意識せずに済んだんだけど、目を瞑ったら思い出しちゃって…なんだか、悲しいの。」
「…そうか。大変だったな。」
相槌を打つしかできなかった。
私が気絶してる間にそんな事があったとはな。歯がゆいやら情けないやら。私がしっかり見ていれば、リーシャに辛い想いをさせずに済んだだろうに。
保護者だのお姉さんだの威張っていたが、私はそんな大層なものじゃない。まだまだ何もかも足りてない。
悲しい、か。知り合いが死んだら、どうだろうか。人間だった頃は悲しかった覚えがある。だがそれは遠くの景色のように霞んでいる。共感できない現実が狂おしいほどもどかしい。
僅かな感傷を噛み締めていると、撫でている頭が震えている事に気が付いた。
「あとね、それに…」
リーシャはそこまで言ったところで押し黙ってしまった。
「どうした?」
続きを促すが
「ううん、なんでも無い…」
そのまま押し黙ってしまった。微かな身震いは悲しいと言うより寧ろ怯えに見える。人の生死を目の当たりにしたのが怖かったのだろうか。しかし野盗と戦った時は恐怖はなかったと思うが、違うのは私がいなかった事だろうか。一人でいたから心細かったのか。
胸中を推し量る事も出来ず、掛けるべき言葉が見当たらん。
まあ難しく考えても仕方ない。言葉が無理なら行動だ。
「とにかく寝ろ。望み通り側にいてやる。」
モゾモゾと同じベットに入る。大人用のサイズだからか、子供二人でもあまり狭くは無い。幼女の姿が物理的に役立った初めての瞬間だな。
「うん、ありがと。おやすみ。」
「おやすみ。」
寝れば多少は心の整理もつく、筈だ。
掛け布団の下、そっと手を握る。そして間も無くしてリーシャは眠った。
いつも通りの寝顔を前に、黒猫とクソガキの姿が思い浮かんだ。リーシャが私に弱さ見せてくれるのは後どれくらいだろうか。頼ってくれるのは何才までだろうか。
森を出たのは雨を降らせる方法を見つけるためだったが、その目標への熱意は少し遠ざかっている。ルエスと色々話した所為で、リーシャに対して自分がどうあるべきかに興味関心が移っていった気がする。
最初は私の雨を降らせる方法を探す事にリーシャを付き合わせていたが、今ではリーシャそのものが目的化しつつある。私がリーシャを振り回すのではなく、リーシャが私を振り回している。
この子が大人になった時、守る必要も面倒をみる事もなくなった時、私はどうするのだろうか。
無性に誰かに相談したくなった。
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《広場》
「あっ。」
「どうしました、中尉?」
「いえ、リーシャちゃんに携帯食料渡したんだけど、間違って戦闘用精神高揚剤入りの渡しちゃったのよね。大丈夫かしら。」
「まあ毒ではないですし、確か効き目も強くなかったと思います。」
「そうだったわね。ま、今度会った時謝るわ。」




