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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ34「アメリカの誤算」

 第二次世界大戦が始まる前、アメリカは1929年秋の大恐慌以後長らく続いた不景気からようやく回復しようとしていた。

 これを「失われた十年」と呼ぶ事がある。

 そして二度目の大戦勃発頃でも、アメリカの生産能力から見ると産業分野によっては半分程度の生産しか行っていなかったと言われている。

 実際、最盛時と比べると精々7割程度のGDPだったので、余剰生産力が大量に存在したことは間違いない。

 それもこれも1920年代の野放図な設備投資と浪費の結果であり、アメリカは十年かけても恐慌の負債を支払い切れていなかった。

 

 そのためアメリカ政府は、自らが総力を挙げて行う、勝てる戦争を欲していた。

 一方でアメリカ市民の多くは、全ての資源と製品が自給できる自国に誇りと自信を持っており、別に対外進出も必要なく、防衛戦争以外の戦争は全く不要だと考えていた。

 モンロー主義も、別の解釈が行われるようにすらなっていた。

 

 しかし産業界、経済界は別だった。

 稼働しない工作機械など、金の卵を産み出すガチョウではなく、ただの負債なのだ。

 

 そして太平洋を挟んだ向こう側には、作り上げたばかりの生産施設を全力稼働させている国家があった。

 

 大日本帝国だ。

 


 日本は、1938年夏から一年間「支那事変」を行い、その後一年はヨーロッパで起きた戦争特需の恩恵に与った。

 そして1940年の秋頃から自らの新たな戦争準備に入り、第二次世界大戦に参加していった。

 しかし日本全体で使われたお金のうち20〜30%程度は、戦争参加から一年間は日本国内の一般的な民需向けに使われていた。

 つまり、本当の総力戦は行っていなかった事になる。

 それもこれも、戦場が本土から遠く、基本的に弱い相手に攻め込んでいたからだった。

 

 その上で日本政府は、年平均で1000億円(300億ドル)以上の戦費を投じることを決意し、膨大な金が日本の産業界、そして日本経済全体に怒濤のように流れ込んだ。

 

 戦後、詳細に行われた調査では、1940年に約980億円(約280億ドル・1ドル3.5円)だった日本のGDPは、1941年だけで年率170%近くも上昇した。

 戦争などの影響で為替レートは1ドル=4円程度に下落したが、信じられないほどの名目経済の成長が見られた。

 ドル換算で、約415億ドル。

 この年のアメリカのGDPが約1250億ドルなので、日本はアメリカの三分の一にまで経済力を拡大したことになる。

 しかもこの数字は、この年の日本がアメリカに次ぐ世界第二位の経済力を持つことを示していた。

 

 しかも日本経済の大幅な発展は、1920年代半ばからずっと続いており、その影響はアメリカ経済にも及んでいた。

 

 1920年代は、アメリカも好景気に沸いていたので、日米双方とも良好な経済関係と相互的な経済発展が促されていた。

 しかし大恐慌が訪れてブロック経済(保護貿易)時代に突入すると、両者の関係は加速度的に冷却化していった。

 

 その象徴にして最大の起点が、満州での軍事クーデターと満州帝国の成立だろう。

 この結果アメリカは、満州というフロンティアを追い出される形で失い、満州は完全に日本の経済植民地となった。

 保護貿易主義の世界にあっては、共有の財産など存在しないという象徴でもあった。

 

 そうして1930年代半ばになると、日本がアメリカから購入するのは、高純度ガソリンと一部の高精度工作機械ぐらいとなっていた。

 日本は石油は自力でほとんど賄っていたし、かつては大量に輸入していた屑鉄も全く必要としなくなっていた。

 自動車などの動力車も、気が付いたら日本でほとんどが生産されていた。

 精度や品質では依然としてアメリカが勝っていたが、コスト面でアメリカより有利なためアメリカが逆に輸入する製品も出てきたため、アメリカ政府が慌てて関税を引き上げた商品も一つや二つでは済まなかった。

 

 そうした逆転現象の象徴が造船だった。

 


 1920年代までは、日本の海運の3割以上は外国の船が支えていた。

 外国とはイギリスとアメリカの事で、日本には大型の有力船舶が足りていなかった。

 

 しかし日本は着実に造船能力を高め、また建造コスト面の有利、燃料コスト面での有利を獲得すると、日本人が必要とする文物の殆ど全てを自力で運ぶようになり、日本以外の東アジア、太平洋地域の海運すら日本の海運会社が積極的に進出するようになっていた。

 北太平洋航路に就役する客船事業でも、1920年代以後アメリカは常に劣勢を強いられていた。

 日本が1933年にハワイ航路に投入した大型豪華客船は、大西洋航路の女王達に匹敵する5万トンの大台に乗り、アメリカは完全に敗北する事になる。

 

 アメリカの船舶量は、アジア方面で運行される分が年々減ってしまい、1930年代半ばには総船舶保有量で日本がアメリカを抜いて世界第二位に躍り出た。

 その優位は戦争が始まった1940年も続いており、アメリカの船舶保有量は1100万トン台だった。

 造船業界にも当然影響が及び、ただでさえ大恐慌以後壊滅的だったアメリカの造船業はさらに打撃を受け、日本の影響で廃業、閉鎖された造船所が何カ所もあった。

 具体的な数字を示すことはここでは避けるが、日本が海運力、造船力を発展させた全てが日本の為に使われている筈はないので、コスト面でアメリカが不利になり、競争に敗れた会社が現れたのは当然だろう。

 日本の影響で、アメリカ造船業界の15%〜20%が余計に縮小したと考えられている。

 

 なお、高給を取る上に簡単にストを起こすアメリカ造船業界に対して、経済、国威共に上昇機運の日本造船業界は、従業員が不平を言うこともほとんどなかったと言われる。

 

 それでも日本の躍進がアメリカ経済に与えた影響は限定的であり、アメリカがダントツで世界最大の経済大国であることに変わりはなかった。

 

 しかしそのアメリカ経済は、依然として不景気の中にあった。

 


 不景気が深刻なのは、供給を上回る需要が存在しないからである。

 そしてその需要を強引に作り出したのが、社会主義的政策である「ニューディール政策」だった。

 しかし第二期目に入ったルーズベルト政権は、役割が終わったと考えて一旦は「ニューディール政策」を緩めてしまう。

 しかしアメリカ経済は全然回復しておらず、公共投資を削減した事で再び大規模な不景気に突入しようとした。

 これが1937年に起きた「ルーズベルト恐慌」の極めて簡単な顛末である。

 慌てて翌年に「ニューディール政策」を戻したルーズベルト政権だったが、その後の経済政策に打つ手は無かった。

 

 当時ルーズベルト大統領の周りには、ニューディーラーと呼ばれる理想主義的で社会主義的な考えの人々が多く、彼らは政府の公共投資を重視し、その上で緊縮財政を求めていた。

 ついでに言えば、軍人を嫌う者が多かった。

 当のルーズベルト自身も、軍人が嫌いだったからだ。

 

 しかし、ブレーンとなったニューディーラーの政策が間違いであることは明白であり、ルーズベルト大統領はすぐにも一部政策を転換する。

 その一部となった一つが造船部門だった。

 

 造船と言っても、用途のない商船ではなく軍艦を作ることこそが、新たな大規模公共投資だった。

 

 1937年の海軍拡張計画が戦艦2隻、空母2隻、巡洋艦2隻という、日本と比べると貧弱な艦隊整備計画だったのは、主にこの当時の緊縮財政のせいだった。

 

 しかし「第二次ヴィンソン案」と呼ばれる1938年の海軍拡張法は、事実上の無条約期になってから最初の計画であると同時に、ルーズベルト政権が行った初の海軍を対象とした大規模公共投資だった。

 

 日本の軍拡に対応したものだとか、第二次世界大戦を見越した先見の明であるとか後世色々と言われているが、少なくともこの年のアメリカ政府は、世界情勢など見てはいなかった。

 見ていたのは、自国経済と政権の支持率だけだった。

 でなければ、《エセックス級》航空母艦2隻はともかく、《サウスダコタ級》戦艦を一度に8隻も建造しようとはしなかっただろう。

 

 いかに条約に則った艦艇を作るとはいえ、どの国からも警戒されるのが明らかなほどの軍拡であり、イギリスですら苦言したほどだった。

 事実日本は大きな国防上の脅威と受け止め、1939年度に新たな海軍拡張計画を開始する事になる。

 

 そして日本の軍拡、ヨーロッパ情勢への対応を本格化させるとした上で、1940年に相次いで「第三次ヴィンソン案」と「両洋艦隊法」、「スターク案」が相次いで可決されていく。

 「両洋艦隊法」はフランス降伏直後の1940年7月に成立し、翌年ぐらいから空いた造船所を使って大規模に開始されることになる。

 

 その規模は、「第一次ヴィンソン案」から数えると、大型艦だけで戦艦22隻、空母16隻、戦闘巡洋艦8隻にものぼり、計画だけで日本海軍が1937年度計画を達成した後の総数に匹敵する圧倒的な規模だった。

 

 しかし、余りにも巨大な計画は、流石のアメリカ造船業界にとっても許容量を超えていた。

 

 当時アメリカ全土には、一時廃業中を含めて軍民合わせて16箇所の大型艦用建造施設があり、また11箇所の船台で中型戦闘艦が建造可能だった。

 だが1940年末の段階で、大型艦用16基のうち半数の10基が1938年度計画で埋まっていた。

 船台上での建造は、建造開始から進水までの期間は比較的短いのだが、平時ということもあって流石に無理があった。

 

 しかも、うち8隻は建造に手間のかかる戦艦のため短期間で空く見込みもなく、残る6箇所の施設で次の計画を始めなくてはならなくなる。

 さらに、1937年計画の戦艦と空母それぞれ2隻も建造中だった。

 

 政府の一部と海軍では、建造施設そのものを大幅に増強する提案がなされたが、民間の造船会社は艦隊拡張後の事を考え、船台建造費用を全額政府が拠出したとしても応えることは出来ないと回答した。

 アメリカでは経済こそが全てて、平時だった当時のアメリカでは民間企業に無理強いする事が出来なかった。

 しかも軍工廠を拡張しようとしても、各工廠には大型船台を多数増築するほどの余剰地はなかったし、平時としては過ぎた艦隊拡張計画そのもののため財源も不足していた。

 結局、1940年と1941年に、造船施設の拡張計画は実現しなかった。

 このため、ようやく船台の空いた6箇所の施設で次の計画を始動させる。

 

 まずは「第三次ヴィンソン案」の《アイオワ級》戦艦4隻、《エセックス級》空母2隻の工事を進め、その後で建造の進んでいる船台4基が先に空くので、そこで同じ「第三次ヴィンソン案」の残り2隻の《エセックス級》空母と《アイオワ級》戦艦2隻を作る事になる。

 「スターク案」の6隻の大型戦艦と8隻の高速空母を作るのはその後だった。

 アメリカ海軍は、日本海軍の空母よりも戦艦を脅威と認識していた。

 

 また救援と支援が急がれるイギリス向けとして、護衛空母と呼ばれる小型低速の空母と、護衛空母より少し遅れて小型低速の対潜水艦用の護衛駆逐艦が大量に計画され始める。

 

 そして1946年内には、全ての戦艦が就役して計画が完成する予定だった。

 これさえ完成すれば、アメリカ海軍は並ぶ者のないほど強大化し、世界のどこに対しても挑戦が可能となる。

 

 しかし1941年内では絵に描いた餅ならぬ、書類上の数字でしかなかった。

 画餅なのはアメリカ軍全て同様で、陸軍も1940年秋までに議会を通過した選抜徴兵制の強化で100万人体制へと進んでいたが、兵器の開発と生産が十分ではなかった。

 しかも徴兵された兵士達も、かつてのドイツ同様に失業対策という側面すら見え隠れしていた。

 空軍(各航空隊)についても同様で、試作機では優秀な機体が色々と開発され、大量のパイロット養成計画は進んでいた。

 航空機そのものの生産も、1943年までには1万5000機が達成される筈だった。

 しかし全ては、途上の事だった。

 

 アメリカはいまだ平時であり、イギリスを多少物資面で手助けしていただけで、対岸の火事を見ているだけに過ぎなかった。

 国民の多くが、「今のアメリカ」が戦争に参加する理由がないとして参戦に否定的だったからだ。

 


 ならばと、アメリカ政府は、枢軸各国の挑発に出る。

 相手から攻撃されれば、アメリカ国民の戦意も昂揚すること間違いないからだ。

 形だけでもアメリカ本土が攻撃されれば、より効果的だった。

 

 かくしてアメリカの挑発は、ルーズベルト政権が三期目に入った1941年初から露骨になる。

 同年3月に成立した「レンドリース法」はその象徴であり、大西洋ではアイスランドにまでアメリカ艦船が出向き、ドイツ軍のUボートへの攻撃すら行った。

 しかしドイツは挑発には乗らず、イギリスの窮地は続いた。

 

 そこで日本への挑発が行われる。

 

 満州事変のせいか、アメリカは日本を酷く嫌っていた。

 特にフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本を明らかに憎んですらいた。

 今となっては理由は不明だが、日本が満州からアメリカを追い出した事よりも、日本と中華民国の対立と日本の擬似的な軍国化が原因ではないかと言われている。

 ポリオという障害を抱えたルーズベルトは、自らの劣等感のために軍人を酷く嫌っており、軍人が国家元首になるなど許容できなかったと言われているからだ。

 

 それならば、当時の世界中の為政者の殆どを嫌ってもおかしくないのだが、ルーズベルトは親華派の政治家だった事が、特に日本への風当たりを強めたとも考えられている。

 そして何より、日本は新興の有色人種国家だった。

 これは当時としては重要であり、成り上がりの有色人種を叩くのは、白人文明国の崇高な義務ですらあるという、幼稚ながら動かしがたい宗教的なまでの考えが、思考の根底にあったと見るべきかもしれない。

 


 話が逸れたが、日本に対しては支那事変中の1939年4月に「日米通商航海条約」の破棄を通告が行われ、そして日本側が努力して譲歩したにも関わらず、年内に実行に移された。

 

 支那事変が終息して日米間の交渉が開始されたが、アメリカは中華民国からの日本軍の撤兵が済むまでとか、満州国境からの軍備撤退要求などの難癖を付けて日本との関係修復を遅らせた。

 当然ながら、日本国内で反米世論が高まりを見せたが、それはアメリカ政府の思うつぼだった。

 日本政府は、外務省、兵部省が大きな努力を割いてアメリカとの関係改善の為に動いたが、ヨーロッパで起きた世界大戦と、日本が戦争を引き起こしたドイツとの間に同盟関係を結んでいる事から、実利面ではうまくは運ばなかった。

 

 だが1940年12月までの日本は中立国で、中華民国からも撤兵したので、アメリカも日本への風当たりは弱めざるを得なかった。

 戦争をしているドイツを責めず、戦争していない日本を責める事は流石に出来なかった。

 このため日本の大艦隊建設を国民に訴えてもみたが、アメリカも同じ事をしていると反対派の議員や国民からも言われた上に、アメリカ国民の間では太平洋の真ん中にハワイという永世中立国が存在する限り、日本とアメリカが戦争を起こすことは不可能だという考えが強かった。

 それにそもそも、アメリカ市民はアジア情勢や日本に関心が薄かった。

 

 しかし、イギリスの行動が状況を変える。

 

 イギリスは、日本を枢軸から引き離すための交渉の手段として、資源輸出の締め付けが強めた。

 ロンドンに自由政府を構える国々もならい、アメリカも同調。

 さらに英米が協力して、中南米を中心に日本との貿易自粛の圧力も強化された。

 

 しかし日本は外交上の原則を重視し、自存自衛のための戦争を決意せざるを得なくなり、イギリス、オランダに宣戦布告するに至る。

 


 そして日本が戦争を開始すると、アメリカは自らの中立法を理由にして、日本に対する多くの品目に対する貿易停止を通告。

 

 だが、日本は半ばアメリカを無視した。

 アメリカが中立国のままなら、取りあえず無視出来るからだ。

 

 そして日本は快進撃を続け、三ヶ月ごとに東南アジア、オセアニアと続けて席巻。

 一年後にはインドに大軍を展開させ、参戦から一年半でペルシャ湾にまでその手を広げた。

 この間日本は、アメリカをほとんど存在しないかのように振る舞った。

 アメリカが日本への輸出を停止した高純度ガソリンについては、日本は人造ガソリンの大量精製やインドネシア占領で補った。

 それ以外では、日本がアメリカからどうしても必要な資源や製品もほとんどなかった。

 だから日本は、取りあえずではあったがアメリカを無視することが出来たのだ。

 このためアメリカは中南米を完全に日本から切り離すような強引な外交を展開するが、アジア、オセアニアを制圧した日本で不足する天然資源は殆ど無くなっていた。

 逆にアメリカでは、生ゴム、錫、キニーネなど限られた品の供給が不足するようになった。

 特に東南アジア地域で独占的に生産されていた生ゴムが手に入らなくなったため自動車生産などに影響が出て、アメリカ政府はデュポン社に慌てて合成ゴムの高性能化と大量生産を指示する事になる。

 錫の不足も数年後には深刻化すると見られていた。

 

 それでもアメリカは、日本がオーストラリアに侵攻すると、植民地ではなく文明国への一方的攻撃は許し難いとして、日本資産の凍結を決定。

 対抗上、日本もアメリカ資産の凍結を実施。

 両者の関係は、外交断絶一歩手前にまで悪化する。

 


 そして枢軸国を外交的に追いつめつつ参戦の準備を進めるアメリカだったが、現状はアメリカの期待を裏切り続けていた。

 

 アメリカが日本を追いつめる好機と考えた「支那事変」は、日本の圧倒的軍事力の前に中華民国が敗れ去り、アメリカが具体的行動に出る前に片づいてしまった。

 しかもルーズベルトがアジアの民主主義の希望にして奇跡だと考えていた汪兆銘は、日本との妥協の道を選んでしまう。

 この時ルーズベルトは、酷く落胆して数日寝込んだとも言われている。

 

 しかし一週間もしないうちに「第二次世界大戦」が勃発。

 

 ドイツが戦争を始めた当初は、アメリカ中枢は向こうから千載一遇の機会が訪れようとしていると考えた。

 しかし開戦から半年後に始まったドイツの攻勢により、フランスが呆気なく瓦解。

 イギリスも窮地に陥った。

 ここでアメリカは、高純度ガソリンなどをイギリスに提供するなど、初めて戦争に荷担する行動に出る。

 イギリス本土は、アメリカがヨーロッパに乗り込むために必要な大切な橋頭堡だからだ。

 

 そして1941年3月には「レンドリース法」が成立し、同年8月にはイギリスとの間に「大西洋憲章」を発表して、アメリカの参戦に向けた下準備は十分に整ったと言えた。

 

 しかし1940年12月に日本が参戦すると、事態はアメリカにとってさらに悪化する。

 日本がまるで防備されていない東南アジアを席巻するのは予測済みだったが、勢いのままオセアニア地域が数ヶ月で陥落。

 東アジア・太平洋のほぼ全域から、イギリスの勢力が駆逐されてしまう。

 しかも日本は、そのままの勢いでイギリスの力の根元であるインドへと攻め込み、イギリスにとって非常に不利なインド攻防戦を行い、約半年で広大なインドを占領した。

 

 しかも日本は、占領した地域に次々に民族自治政府を作り、それらの地域では一年もすると独立宣言が出されていくようになる。

 加えて「大東亜宣言」と呼ばれる戦争方針を示し、連合軍、植民地国家に対しての政治的対抗も画策した。

 この結果、安易にアジア地域に攻め込めば、攻め込んだ側が侵略者とされる恐れが出てきてしまう。

 

 日本が参戦したとき喜んだルーズベルトも、その一年後には日本のあまりも華々しい快進撃に色を失ったと言われる。

 

 イギリスが日本から受けた打撃も大きく、インド戦が終わった頃のイギリスの精神状態は、まるでフランスが敗北した頃のような有様だった。

 物理的にも、正面戦力のうち陸軍の一割、空軍の三割がインドで失われた。

 海軍の損害は特に大きく、ドイツから受けた打撃を合わせると既に事実上の壊滅状態だった。

 海運力も大幅に低下し、もはや単独ではブリテン本土への物資の流れを、最低限ですら維持できかねる状態だった。

 当然だが、インドでの動員も物資の徴発も不可能となった。

 

 そしてアメリカにとって都合が悪いのは、枢軸全体とイギリス、アメリカを合わせた海軍力の比較だと、枢軸側の方が有利に傾いている事だった。

 イギリス海軍の特に大型艦艇群は、既にそれほど減少していた。

 

 このためアメリカは、イギリスへの側面援護とドイツへの警戒を兼ねて大西洋艦隊を手抜きにすることが出来なかった。

 幸い日本はインド洋に海軍主力を投入しているから出来る状況だが、日本がインド洋のほぼ全域を支配する1942年春以後は、太平洋艦隊も急ぎ増強しなければならなかった。

 アメリカ海軍では、1942年内に日本から総攻撃を受けた場合、アメリカ西海岸の全域が戦場となることを覚悟していた。

 

 この事はルーズベルトなどにも報告されており、アメリカは当面の参戦に危険を感じ、自らの体制作りを急ぐことになる。

 


 だが戦争は1941年6月にさらに変転。

 

 今度はドイツがソ連に攻め込んだ。

 これでイギリスは一息付けるはずだったが、それは日本のインド侵攻で相殺。

 世界最大規模の陸軍を有しているソビエト連邦は、同年12月に首都モスクワを失い早くも半身不随に陥った。

 

 この時点でアメリカ中枢の一部は、イギリスとソ連を救うため一日も早くアメリカが戦争に加わるための行動が取るべきだと考えた。

 だが、枢軸国の全てがアメリカを無視し、アメリカ市民が戦争を否定している以上どうにもならなかった。

 レンドリースも、まずはイギリスに注ぎ込まねばならず、現状の海上輸送体制ではソ連に注ぎ込む余裕はまだなかった。

 それに、ソ連に直接物資を送り込めるルートは、北極海を空路で渡ればよい航空機を除けば、北大西洋航路しかなかった。

 しかも同ルートは危険も大きいので、送る事の出来る物資の量も限られていた。

 加えて、物資を運ぶ船がイギリスには不足しているため、ソ連まで行くのはアメリカの船という事になり、冷たい海とドイツ軍の「熱烈な歓迎」が予測される海に対して、安易に船を進めるわけにもいかなかった。

 大損害によってアメリカは参戦できるかもしれないが、不用意に大損害を受ける行動は、現政権の支持率低下にも繋がるからだ。

 

 ならばと、太平洋やペルシャからソ連を支援するルートが検討されたが、日本と満州帝国が間にあり、ソ連領太平洋岸の都市にはソ連中枢とつながる鉄道がなかった。

 かつてロシア領だったウラジオストクなども、20年ほど前から満州のものだった。

 ペルシャを経由するルートは、翌年春には日本が完全に閉ざしていた。

 イギリス軍の姿も消えている。

 

 

 枢軸への挑発は強化されたが、1941年10月末に大西洋上で輸送船団を護衛していたアメリカの駆逐艦がドイツのUボートと見られる潜水艦に沈められたが、かつてのルシタニア号のようにアメリカ国民が憤る事もなかった。

 

 太平洋でもシアトルに太平洋艦隊を集結させ、アジアでは現地のダグラス・マッカーサー将軍の要請に沿う形でフィリピンの軍事力を増強したが、日本はほとんど無視していた。

 フィリピンからは、アメリカ軍機による露骨な偵察や小規模船舶による挑発すら行われたが、日本は証拠を揃えた上で諸外国に情報をばらまき、アメリカ政府に卑怯者という揶揄を込めた抗議をしてきただけだった。

 

 ドイツも日本も、自分たちの戦争が終わるまでアメリカを無視し続ける方針を堅持するのは、戦略上も外交上もほぼ確実と考えられた。

 

 あとアメリカに出来ることは、難癖を付けてそれをアメリカ国民に対して都合の良い部分だけを誇張して伝え、自ら宣戦布告する形で強引に参戦するしか道はなかった。

 

 そこまで決断する間に、時は1942年を迎えようとしていた。

 


 そしてこの段階で、どのように参戦し、どの戦線を重視するかの最終検討が行われる。

 

 アメリカの外交戦略上の基本は、日本を挑発して裏口からの参戦を果たし、ヨーロッパをドイツの脅威から解放するというものだった。

 日本の方が、ドイツよりも弱く、尚かつよりも挑発に乗りやすいと判断しての事だった。

 

 そして日本が有色人種国家なので、叩く際の心理的障壁も少なく、日本人をインディアンの延長と見せることでアメリカ国民の戦意も煽りやすいと考えられた。

 

 検討案の中には、ハワイ王国など日本人移民が多く、実質的には日本の傀儡国家だとして、開戦第一撃で電撃的にハワイを占領して橋頭堡を確保。

 その前後に電撃的に日本本土に直進して、インドの日本軍主力が戻る前に星条旗を東京に立ててしまえと言う乱暴な意見もあった。

 また、ソ連領内から日本が大事にしている油田を爆撃して、開戦の号砲としたら良いという意見も出たりした。

 

 しかし、アメリカの民意を必要とするアメリカ政府にとって、日本に先に手を出させなければ意味はなく、そのための算段が行われる事が決定する。

 

 対日開戦用作戦の秘匿暗号名を「JB355」といった。

 

 この決定には、当時遺伝子レベルと言われるまでに信じられていた白人優位の考え方と、そこからくる「成り上がり」の日本人という有色人種に対する強い嫉妬と嫌悪、さらには恨みとも言える感情が横たわっていた。

 

 このため日本の国力や経済力をまともに評価せず、軍事力や兵器に関しても異常なほど低く評価していた。

 イギリスが一方的に日本に叩かれたのも、日本が相手を圧倒する数を揃えた為と、戦ったのがイギリスなどの植民地軍だからと考えられていた。

 

 故にアメリカの基本的な戦争計画では、2年で日本を降伏に追いやり、その後全ての力をドイツに投入し、世界の覇権をアメリカの手に握るというかなり安易なものであった。

 


 しかし戦争は、予期せぬ所から始まってしまう。

 


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