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遙かなる坂の上 〜日本帝国繁盛記〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ09-2「グレート・ウォー(2-2)」

 日本陸軍の最初の戦闘参加は「ソンム会戦」で、フランス軍の側面支援として戦線南部の最もドイツ軍への攻勢の弱い地域で補助的な役割が分担された。

 これはソンム会戦において、フランス軍が十分な兵力を準備出来なかった事への補完的措置で、また補助的役割を割り振られたのは日本軍がヨーロッパの戦場に到着したばかりなのと、日本軍の実戦力が未知数だったからだ。

 10年前にロシア軍と戦って勝ったとは言っても、それは10年前の話で最近の事ではないからだった。

 

 しかし、徐々に出番も回ってくる。

 何しろ日本軍の向こうにはドイツ軍も陣取っていた。

 

 1916年9月15日からのイギリス軍の攻勢に合わせ、日本軍2個軍のうち前線配備されていた4個師団が、ドイツ軍に対して攻撃を開始する。

 隣接するフランス軍が日本軍に細かい指示を行わなかった事もあり、現地日本軍の裁量で戦闘が行われた。

 日本陸軍にとって、一カ所で4個師団も用いた大規模な戦闘は日露戦争以来の事だった。

 

 この戦いで日本軍は、脳天気な前進や杓子定規に決められた強硬な突撃は行わず、様子見を含め慎重な戦闘に終始した。

 これはドイツ軍を吸引して側面支援を行うという作戦自体にも、それなりに合致した行動だった。

 事前の砲撃でも、杓子定規に砲撃時間と突撃時間を定めなかった。

 日本軍は先の戦争で、重砲を撃ちながら兵を前進させるという危険な戦闘も知っていたからだ。

 そして全ての日本軍将兵には、戦場の過酷さは旅順と同じかそれ以上だと思えと訓辞が行われたりもした。

 

 日本軍としては、日露戦争で機関銃や砲撃の戦訓を規模や密度こそ違え持っていたし、日本軍なりに今回の大戦の戦況を研究した結果の行動だった。

 

 だが、結果として英仏などから得た評価は、「まあ、こんなものだろう」というものだった。

 手堅く無難な行動ではあったが、戦線は押しも引きもしなかったからだ。

 また日本軍の犠牲が少なかった事も、かえって連合軍内での評価を下げさせる事になった。

 

 この時日本軍内にも、「日本軍ここにあり」という姿を見せるべきだという強硬意見もあったが、日露戦争の体験を持つ現地上層部の将校、将軍達はこれを強く否定。

 結果として、慎重な作戦を行ったという経緯になる。

 戦線全てが旅順のようになった戦場で、何の準備もせずに将兵を突撃させることは、過去に戦場を経験した軍人達にとって到底受け入れられ無かったのだ。

 そして旅順という言葉が現地日本軍に広がったため、対要塞戦向きの(戦闘)工兵が重視されて臨時に増強され、やたらと坑道爆破戦術を取ったりもしている。

 このため敵手のドイツ軍からは、「黄色いモグラ」と呼ばれたりもした。

 

 その後も日本軍は何度か戦闘に参戦したが、主に両側に布陣するフランス軍の支援として攻勢に参加したり、ドイツ軍の反撃に対する予備兵力や側面防御の戦闘を行った。

 ドイツ軍から、毒ガス攻撃の洗礼を受けたりもした。

 

 そして、連合軍の攻勢に際して主戦線や主攻勢を任されなかった(任せてもらえなかった)ため、現地日本軍が色を失った大損害でも、日本軍の損害比率は連合軍の中ではかなり低い数字だった。

 またドイツ側が、日本軍の正面に積極攻勢をかけることが殆どなかったため、守勢にあっても日本軍が大きな苦況に陥るような事も局所的以外には殆どなかった。

 

 そして約束通りの1個軍が前線に揃っても、日本軍にとっての大規模な戦闘が発生しないため、兵士達は塹壕で過ごす日々を送る事になる。

 1917年の日本軍は、主に2個軍団6個師団で前線を担当し、残り1個軍団3個師団が後方で待機するか、休暇任務状態に置かれた。

 運のいい者は、後方で観光まがいの各国軍との交流や視察などを行い、パリ見物すら行えた者もいた。

 また最初に派兵された兵士達のうち一割ほどは、ほとんど戦うことなく交代の兵士達と入れ替わったりもしている。

 

 なお、イギリス軍、フランス軍共に、定期的に大作戦を発動しては大打撃を受けていたのだが、それ故に国家や民族の面子もあって、安易に日本軍を引っ張り出せなかった。

 それでも1917年4月にフランス軍の前線一帯で戦争に反対する大規模な反乱が発生した時には、日本軍に総動員が命令されて、フランス軍に代わり一時的に多くの守備を担っていた。

 もっともこの時、ドイツ軍はフランス軍の異変に気付かず、フランス軍も比較的短期間で事態を沈静化して体制を立て直したため、日本軍に本格的な出番が回ってくる事はなかった。

 大事件と言えば大事件だが、事件もその程度だった。

 


 しかし1917年は、世界史上では激動の一年となる。

 

 まず2月に、ドイツが無制限潜水艦戦を宣言。

 これを受けてアメリカが、遂にドイツと国交を断交。

 翌3月12日には、ロシアで社会主義革命が勃発し、ロマノフ王朝が呆気なく打倒されてしまう。

 さらに翌月の4月6日にアメリカが遂に参戦。

 最後の大国が、大戦に参加する。

 

 その後夏には、ギリシャが連合軍側で参戦してセルビア南部のサロニカ戦線にも加わり、11月にはロシアで再び革命が起きて今度は共産主義政権が誕生する。

 

 そしてロシア革命によるロシアの戦線離脱とドイツ軍の西部戦線への移動を恐れた英仏が、日本にさらなる大軍派兵を強く要請。

 アメリカ参戦による自らの存在感低下を嫌った日本政府は、さらなる優遇措置を取り付けた上で派兵を承諾。

 それまでの犠牲が少なかった事も、追加派兵の追い風となった。

 

 そして戦時動員で編成された師団を中心にした1個軍9個師団を中心とする兵団が、半年ほどかけてヨーロッパに渡って現地日本軍の指揮下に入る。

 日本軍は基本的にまとまって運用される約束とされ、支援部隊を含めた2個軍による小規模な軍集団(遣欧総軍)を編成して西部戦線の南部に分厚い布陣で陣取った。

 

 派兵の総数は、パリやロンドンにいる武官や軍属を含めると70万人にも達し、パリのホテルを一つ借り上げて、日本軍遣欧総軍司令部が置かれた。

 日本軍後方の休養地(疎開で無人化していた村)の「ゲイシャ・オーベルジュ」は拡大されて、「吉原」と通称される日本人用の歓楽街まで臨時に作られたりもした。

 

 またこの頃には、日本陸軍の航空隊もかなりの規模で編成され、イギリス、フランスから供与されたり自国でライセンス生産した機体を装備し、自軍の上を守れる程度の戦力を保持するようになっていた。

 日本陸軍も、ようやく空の騎士ならぬ空の侍を持つことができたのだ。

 日本のパイロットは、フランスの「スパッド系」戦闘機よりもイギリスの「キャメル」戦闘機を愛用し、格闘戦を好む傾向がこの時既にできたとされる。

 

 また約束通り戦車の供与も受け、50両程度の戦車を保有した日本陸軍初の戦車大隊が編成された。

 砲兵戦力も、師団用の重砲や迫撃砲だけでなく、軍団レベルの野戦重砲も十分に持つようになった。

 半ば象徴的だが、フランス軍から供与された2門の列車砲も有したほどだった。

 

 日本本土との補給線も日を追うごとに充実し、前線で不足する日本由来の物資を供給するようになった。

 この時、主にフランスに紹介された日本古来の食品も数多い。

 それまでもヨーロッパで隠し味用の調味料として使われていた醤油が有名になったのも、この大戦以後の事である。

 また、軍需輸送の傍らで多くの物資や商品が英仏を中心に輸出され、日本に貴重な外貨をもたらした。

 あらゆる物資の不足するヨーロッパでは、持ってきた物は何でも飛ぶように売れた。

 食べ物なら尚更だった。

 日本の南方各地での砂糖サトウキビの増産が大幅に進んだのも、この大戦を契機としている。

 輸送船舶を扱う海援隊隊士の中には、日本と欧州の往来で、半ば商売をしていた者がいたほどだった。

 


 なお、この時期の日本軍では、派兵された将兵の士気を鼓舞するためという方便で、「戦時武功勲章」が制定された。

 とはいえ、ヨーロッパ諸国への対抗と見栄で、現地派遣軍の将兵達が強く要望して作られたようなものだった。

 

 勲章自体は、立てた武勲によって一等、二等に分かれた外見は質素なもので、恩給や式典などでの名誉は僅かしか与えられなかった。

 だが、戦争を知る人々にとっての一番の勲章として、その後評価されるようになっていく。

 この勲章は、戦後は「戦時」をとって正式化もされている。

 なお、勲章の意匠が日本刀二つを斜め十文字に結んだ形のため、欧米では「ジャパン・クロス」や「サムライ・クロス」とも呼ばれ、1930年代ぐらいからは軍への貢献度のみを判断材料とするという建前で、日本人以外にも授与されるようになる。

 

 また一方では、日本本土と戦場が遠く離れているため、戦時昇進の裁量権が現地司令部にかなり与えられ、さらに年数や試験以外での戦時昇進という日本らしくない制度も、「戦時」という言葉を付けた上で整備された。

 全ては、遠方での長期戦の中で将兵の士気を維持するためだった。

 それほど世界大戦は、日本軍将兵にとって精神的重荷でもあった。

 最初に大損害を受けた時、前線での士気低下が大きな問題となったため取り入れられたあくまで臨時の制度だった。

 

 もっとも、戦時昇進の背景の一つには、外国軍と行動を共にする際に階級を合わせるという側面と、先に派兵された海援隊が人材不足からどんどん隊士を昇進させているという背景もあった。

 それ以外にも、大量の兵士を急に増やしたので、大戦前までの兵役勤務者は異常に早く戦時昇進させ、不足しがちな下級将校、下士官を補わねばならなかったのも現地昇進の大きな理由だった。

 

 また戦時昇進が日本軍で容認された背景には、急速に肥大化した軍隊内では、多少水増ししても下級将校、下士官が大きく不足した上に、さらに戦闘での消耗を補うという目的があった。

 何しろ従軍者の4人に1人が死傷しているので、不足するのは当然といえば当然だった。

 

 ちなみに、戦争が終わって動員が解除されるとき、除隊するしないに関わらず全ての兵士は恒久的な一階級特進が行われた。

 これを「万歳昇進」や「大戦昇進」と呼ぶ。

 そして戦前からの軍役者だと、通常昇進、戦時昇進、万歳昇進を合わせて3年ほどの間に5階級も昇進した者も出た。

 仮に新品少尉だったとしても、終戦には大佐になっていた事になる。

 無論戦時昇進の多くは元に戻されるし、年次以外で昇進した者は戦後の昇進に苦労する事になるが、明治日本が作り上げた官僚による組織社会に大きな一石を投じたのは確かだった。

 


 なお日本軍が主に配備されたのは、ランスからヴェルダンの中間当たりになる。

 主戦線(西部戦線)の南翼に当たり、最重要ではないが極端に軽んじられる地域でもなかった。

 また日本軍をフランス軍が挟み込むようにそれぞれ重要地域に陣取っており、基本的にはフランス軍の密度を増すために配置されたという向きが強かった。

 

 しかし、日本軍が一定の重要度がある戦線を任されたのは、日本政府が政治的意図で尽力したわけではない。

 初期の頃は単にフランス軍の移動に合わせたもので、その後は一定の戦闘力があることが認められたという現実的側面が影響していた。

 またある程度まとまった戦力のため、それなりに使いやすかったという面もある。

 

 とはいえ基本的に日本軍はヨーロッパでは外様な上に有色人種国家の軍隊のため、主な任務は西部戦線の維持だった。

 連合軍の攻勢に際しては、殆どの場合、補助的な役割しか与えられなかった。

 これはフランス人、イギリス人など白人が、有色人種に対して自尊心や面子を重視したからだと言われているし、実際面でもそうした状況が多かった。

 

 陸軍によってほとんど現地で編成された日本軍の航空隊も、「頭の上」を守る以外でドイツ空軍との空中戦を行うことはどちらかと言えば珍しく、英仏から意図的に戦場から避けられ続けた。

 

 また日本軍が英仏から軽んじられた背景の一つに、植民地問題があった。

 有色人種が活躍しすぎると、植民地人が元気づく可能性があるからだ。

 派兵しろと求めたくせに、身勝手と言えば身勝手な話である。

 

 一方日本軍の前に置かれたドイツ軍だが、基本的に日本軍は積極的な攻勢に出ることが少ないか、圧力が弱いのが常なのを見越した兵力配置を行い、戦力ほどドイツ軍を吸収できていなかった。

 とはいえ、周辺部でフランス軍が活発に行動すると、日本軍も相応に砲弾を浴びせて前進してくるので無視する事もできなかった。

 一定の数と戦闘力を持つため、英仏軍以外のようにあしらう事もできず、ドイツ軍にとっては中途半端に脅威であるため、あまり扱いやすい敵でもなかった。

 ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世などは、例の「黄禍論」を振りかざしたこともあると言われる。

 


 大戦と共に世界が激動する中、1918年へと入っていく。

 

 1917年の冬、ドイツは岐路に立たされていた。

 戦争経済の破綻による自滅、アメリカの大軍到来による圧死、ロシア離脱で得た余剰兵力を用いた最後の攻勢を成功させて少しでも有利な講和を結ぶ事、以上がドイツ側が考えたすぐ先の未来だった。

 そして何をするにせよ、1918年以内に戦争を終わらせなければ、ドイツそのものが破綻する事は確定していた。

 

 そしてドイツ軍首脳部は、大規模な攻勢による戦局の打開という賭けに出ることを選択する。

 この決断によって起きた戦闘が、「カイザー・シュラハト」と呼ばれる戦闘になる。

 

 この作戦立案段階でドイツ軍は、第一撃目をイギリス軍とフランス軍の継ぎ目を狙うか、フランス軍と日本軍の継ぎ目を狙うかで議論があった。

 本国からの兵力補充が難しい日本軍を撃破すれば、その後の作戦展開が楽になると言うのが、日本軍を主攻撃対象に選ぶ場合の主な理由だった。

 英仏軍の継ぎ目を狙う目的は、英仏軍の継ぎ目は最近フランス軍からイギリス軍に担当が代わったばかりで陣地が不十分であり、両軍の連携の不備を付けるという点にあった。

 この点日本軍への事実上の正面攻撃は、長い間日本軍が同じ場所に布陣し続け、深い縦深で半要塞化されている陣地のため、少なくとも初動において攻撃の選択肢として選びにくいという面が重視された。

 また日本軍は、主に小規模戦闘だが、ドイツ軍が編み出した浸透突破戦術に似た戦法を防御戦闘などで仕掛けてきていた。

 ドイツ軍がこれから主戦法で行おうとしている戦術に対抗され無駄に時間を取る可能性が危惧され、日本軍の側は最終的に主攻勢に選ばれなかった。

 


 そうしてドイツ軍最後の大攻勢が始まる。

 

 ドイツ軍の戦法、戦う相手の選択肢は正しく、不意を付かれた形の連合軍は、ドイツ軍の大攻勢の前に大幅な後退を余儀なくされた。

 大戦開始頃の快進撃のような状況だった。

 しかし自動車の発達がまだ未熟だった当時、無数の砲撃で穴だらけになった前線での補給が難しいため、ドイツ軍は主に補給能力の不足から、成功しつつある攻勢を途中で終了させざるを得なかった。

 この点は、開戦初期の頃から、あまり大きな変化はなかった。

 

 なお、この時のドイツ軍の攻勢は一度ではなく、西部戦線各所で何度も行われている。

 原因の多くは、前線への補給不足による進撃停滞が短時間の間に起きるからだった。

 

 攻勢は大きく分けて3月、4月、5月、7月と行われ、日本軍に本格的な出番が回ってくるのは、5月末に開始された攻勢に際してだった。

 この時ドイツ軍は、初期の頃に集中攻撃したイギリス軍の壊滅を諦め、牽制の意味を込めて別方面のフランス軍を攻撃した。

 

 18個師団揃えた日本軍のお陰で密度の増したフランス軍だったが、浸透突破攻撃という新戦術には脆く、1個軍が壊滅的打撃を受けて大幅な後退を余儀なくされる。

 その段階で自らの予備兵力の乏しくなったフランス軍司令部は、近くに布陣していた前線の日本軍全体(12個師団)が前に押し出してドイツ軍を牽制し、さらに日本軍の後方に置かれていた予備の1個軍団の増援を要請した。

 合わせれば15個師団となるので、ドイツ軍に十分圧力がかけられると想定された。

 

 ほぼ同時に、既に一定数の兵力を戦線の後方に展開するようになっていたアメリカ軍に対しても、フランス軍は増援要請を行う。

 この時アメリカ軍は、自らの兵力を分割して逐次投入される事を警戒したため行動が遅れ、既にフランス軍の「我が儘」に慣れていた日本軍の方が、先に軍を動かしてドイツ軍への反撃を開始する。

 そして日本軍が比較的早期の段階で全面的に動いたことで、フランス軍によるアメリカへの要請も順位が低くなり、アメリカ軍はさらに出遅れる事になる。

 

 このためアメリカ軍は、その後英仏軍から長らく「臆病者」や「戦争見物人」と非難される不名誉を浴びることになった。

 

 なお、この頃には、完全に第一次世界大戦型の陸軍となっていた日本軍に対して、まだ戦闘経験のないアメリカ軍との間には歴然とした差が出ていた。

 鉄兜にカーキ色の合理的な野戦服に身を包んだ日本兵が、可能な限り遮蔽を利用し複数の重火器を多用して慎重に戦ったのに対して、後から出てきたアメリカ軍はドイツ軍の重機関銃に向けて正面から突撃し、大戦初期に見られたような凄惨で一方的な光景を再現していた。

 

 しかもアメリカ軍は、英仏が既に日本に対して多数の武器供与や戦費援助をしていたため、日本と同様の供与を受けることが出来なかった。

 アメリカからの兵員輸送の代替も低調とならざるを得なかった。

 英仏としては、したくても出来なかったのだ。

 このため重装備のかなりをアメリカ国内で用意して運ばねばならず、派兵に余計な手間と時間がかかると共に、アメリカ軍自身の近代化も遅れることとなる。

 そして近代的装備の不足するアメリカ軍の損害も、必然的に大きくなった。

 

 なお、この大戦でのアメリカは、ドイツ軍の最後の攻勢が開始された1918年3月までに60万、12個師団を送り込み、最終的に35個師団、約160万の兵士をヨーロッパに派兵した。

 このうち曲がりなりにも前線に立った将兵の数は、全体の約半数程度となる。

 この将兵の中には、当時中堅将校だったマッカーサーやパットンがいる。

 ただし実戦参加は5月末から半年にも満たない間で、その上夏以後はドイツ軍はすっかり元気を無くしていたため、ただ前線に立っただけという将兵が半数以上だった。

 

 それでもアメリカ軍という元気な増援の存在は、ドイツ軍を押しとどめる大きな力となった。

 日本軍の頑強でねばり強い反撃とアメリカ軍の本格的投入を受けて、パリへの道が閉ざされた事を知ったドイツ軍は、その後因縁深いマルヌ近辺での戦闘を展開。

 少しでも戦術的な有利を作るべく、敵野戦軍の撃破に力を入れる。

 これにより「第二次マルヌの戦い」が始まり、逆に連合軍の反撃が始まる事になる。

 結果としてドイツ軍の「カイザー・シュラハト」も終わりを告げ、以後ドイツ軍は二度と攻勢に出ることはできなかった。

 

 なお、「カイザー・シュラハト」の間に、ヨーロッパ全土では毒性の極めて強いインフルエンザである「スペイン風邪」の猛威が押し寄せていた。

 酷い時期は両軍了解のもとで自然休戦状態になるほどで、いい加減毒ガスにも慣れた日本軍にも大流行して、他国軍と同様の惨禍に見舞われている。

 日本本土での損害は世界的に見て少なかったが、ヨーロッパに派兵されていた日本兵達は前線での劣悪な衛生環境も重なって、他国とほぼ同じ比率の病死者を出すことになる。

 日本兵の傷病兵のかなりも、このスペイン風邪によるものだった。

 


 そして、戦争そのものは「カイザー・シュラハト」の失敗によって、最後の節目を過ぎようとしていた。

 同盟軍各国の総力戦能力は既に限界を超えており、国家の崩壊点に達しようとしていた。

 長らく、バルカン半島南部のサロニカに閉じこめられていた海援隊の陸戦部隊も、秋には増強された他国の兵士達共に大きく北に向けて前進し、同盟軍の崩壊に大きく貢献することになる。

 ベオグラードに最初に入った連合軍の中にも、海援隊の姿があった。

 そして日本兵の中で最大級の前進を果たしたのが海援隊となったため、海援隊は日本国民からも最も人気が出ることになる。

 

 その少し前の8月には、ドイツ軍がイギリス軍の機械化部隊を全面に押し立てた攻勢で大敗を喫して、士気を大きく低下させてしまう。

 

 この時の戦闘は、戦車を中心にした機械化戦闘が効果的に行われたという軍事上のエポックメイキングな出来事だったが、戦略面での影響はもっと大きかった。

 ドイツ人達、同盟国の兵士、国民達が、自分たちの負けを自覚した戦いとなったからだ。

 

 これ以後同盟軍の戦線は、サロニカ戦線を例に見るように次々に全面崩壊していった。

 それに応じて、同盟軍各国が戦争を投げ出して国家として降伏を選択。

 同盟軍の盟主であるドイツ帝国も、キール軍港での水兵達の反乱を切っ掛けとして降伏の道を歩む。

 

 そして11月に皇帝が亡命して敗戦を受け入れ、4年以上に及んだグレート・ウォーは連合軍の勝利で終幕を迎える。

 


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― 新着の感想 ―
[一言] HoIシリーズのAARでも日本が欧州戦線に深入りする作品がありますが(カラーの人ことガムラン将軍の「欧州戦線異聞録」など)、やはり現実的に欧州戦線に日本が派兵したらこの世界線に近い感じになり…
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