神を手懐かせてみせよう(壱)
「お茶くらい運びますから、母上は座っていてください」
「あらまあ」
などというやり取りに目を疑うことがなくなった日曜日の朝。呪いの人形に茶を継がせていたころが嘘のようだ。千が淹れた茶を、カヲルはすっかり手慣れた様子で食卓に並べた。
「千速、大丈夫か? ずいぶん寝不足のようだが」
「問題ありません。師匠にいつも手伝わせてしまい申し訳ないです」
「カヲルくんたら、千速の居ない間の掃除もしてくれるし、神事はじいさんのお役目ほとんど奪ってるらしいわよ。ボケちゃうからあまり甘やかさないで欲しいわ〜」
しっかり腰が重くなった母が淹れたての茶をすする。
「啖呵を切ったくせに、未だ母上の傷を治せていません。少しはお役に立ちたい」
「あらやだ、気にしてたの? はなから期待してないわよ、手品じゃないんだから」
そうは言っても、もはや痛み止めも効いていない様子だ。
「これからキョウトへ戻るが、千はどうする」
「お供させていただきます」
明日は代休、修行が一日ずれたと思えばいい。母の怪我も心配だし、貺都で識神を喚んでみたいというのが本音だ。
日曜日の正午。
おだんごに結った髪には、いつの間にやらカヲルが取り返してくれた組紐が揺れている。
ふたりは自然と手をつなぎ合い、魔法円に足をつけた。
転移先はカヲルの邸ではなかった。
だだっ広い板間で主上ひとり、玉座に座している。
カヲルが首を垂れたので、千も倣ったがすぐに「やめてよ」と拒まれた。お決まりの挨拶なのか、カヲルも「はい、はい」と、当然のごとく胡座をかく。
「正殿じゃないか。なにかあったのか」
しっかりと閉じられた御簾の向こうが騒然としている。
「つい先ほどのことだ。大規模な地滑りがあった。御所裏の崖だ」
「まさか社が崩れたのか。母上、クウガは!」
「落ち着け。邸もふたりも無事だ。ただ被害のあった場所が目と鼻の先、次はないだろう。念のため夜御殿へ移ってもらっている」
「そうか。感謝する」
「礼はいらん。むしろクウガと直接話したことで、道が開けた」
主上は高御座から飛び降りると、ふたりと膝を合わせ、その狭間に半紙を広げた。
「クウガが描いた裂け目の地図だ。わかるか」
「裂け目のまわりに枝分かれしたヒビがある。そのひとつが、海に向かってのびている。これが今日の地滑りの原因か?」
「そうだ。ヒビは日に日に増えている」
「しかし地割れというよりは、まるで鏡を割ったような──、そうか!」
預けていた鏡の上に、半紙をのせる。裂け目だけではなく、周りに散った小さなヒビまで写したようにぴったりとはまった。
主上がカヲルに訊ねる。
「元凶は裂け目にある。今一度鏡を持って行けるか」
「俺はいいが、千は置いていくぞ」
「いや、元は不知火家にあったもの。次代当主というのであれば、なおさら彼女も行くべきだ」
「あそこは呪術が効かない。危険だ!」
「ならば五分おきに、喚びもどそう」
「五分でなにかあったら?」
「十分後に私が行く」
「御所は誰が護るんだよ」
千は、膝に置いてあったカヲルの手に己れの手を重ねた。
「私、行きます」
「千!」
「母が不注意で鏡を落としたことがすべての始まりです。私にも責任があります」
不注意の原因が己れであることはもちろん、言わない。言える雰囲気ではない。その代わりと言ってはなんだが、しっかりと最後まで見届けたい。
カヲルは千の顔をしっかりと見据え、やがて瞠目した。バレた?
「そうか。……お前も、行くか」
「わ、私は師匠の弟子です。どこまでも師匠にお供します」
「無断で休むような女が、説得力のない」
「ちょっとぬけてる、かわいい弟子じゃないですか」
「自分で言うな」
ふたりは笑い合った。肩肘を張らなくていいのだ。
どんなときも。
「行こうか。ふたりで」
「はい」
尻もちをつかぬよう、今度はしっかりとカヲルにしがみつき魔法円を踏んだ。
腹にしずむ滝の音。
しがみついていた身体の傾きを不自然に思い、視線を上げるとカヲルが滝にのまれかけていた。
「あぶない!」
「すまん、ふらついた」
幸い、身体の重心を洞窟へ傾けるだけで落下は免れた。カヲルは背中を濡らした程度だ。
「待って。魔法円が……滝の水で消えてる」
地滑りの影響で魔法円の位置がきわまで移動していた。墨が水飛沫で少しずつ消えており、転移を最後に壊れてしまったのだ。
「ミカドの助けは入れさせないということか。用意周到なことで」
「カヲル……?」
暗くてよくわからないが、顔色が悪い気がする。白い肌が陶器というより、クラゲのように透けてみえる。他人の寝不足を心配する余裕などないはずだ。
千は息をのんだ。
たしかに寝不足ではあるが、午前中から身体の状態に変化はない。
「カヲル、まさか転移するたびに、私のぶんも負荷かけてた?」
「千がくっついてくるからだろー」
「そんな理由で!」
カヲルは土曜日も日本と貺都を往復している。千が禁じられているほど、霊力が削られる行為だ。一晩で治るとは思えない。更に今日はふたりぶんの転移を二回。考えただけでゾッとする。
「寝たら、治るんだろ」
「ねんねのじかんには、まだはやいですけど。……ここは、変わらず夜みたいですね」
洞窟は相変わらず『無』に等しい。今の千ならばささやかに理解できた。音も光もない世界。裂け目を前に足がすくんだ。滑り落ちた日を思い出すだけで、あぶら汗が浮く。
「まさか下に降りませんよね?」
「俺もそれだけは避けたい。のぞき込んだりするなよ」
「わかってますよ」
「のぞき込む、か」
カヲルは鏡を両手に持ち、自身を映した。
「眉目秀麗」
「それなんの呪文ですか」
「容姿端麗」
「イケメンわかりましたから、ちょっと私にも見せ──」
千は眉をひそめた。
暗がりに映るカヲルの顔に痣のようなものが見える。見覚えのある漢字だ。干支の文字。
「へび?」
「この鏡に映せば、千にもみえるのか」
「なんですか、これ」
『死に痣だ。私がつけた』
鏡の奥から声がする。
「なるほど。鏡のなかにいたのか。ならば鏡に裂け目を見せれば、出てくるかな」
カヲルは己れを映していた鏡を裂け目へ向けた。ただ深い闇だった裂け目の底から、無が噴きあがってくる。心がひれ伏す圧倒的な無だ。
千に恐れはない。今はそれどころじゃなかった。
「巳の刻って、……何時」
「とっくに回ってる」
カヲルは太刀を腰からはずすと、千のほうへ滑らせた。
「預ける」
「どうして」
「その刀は神を切れない」
「この、どこが神様よ」
「不知火神社の祭神だよ。なぜか鏡に封じ込まれていた。いや、鏡そのものが本殿というべきか」
千は笑ってしまった。長年拝んでいた相手がアレとか冗談やめて欲しい。目の前の黒いかたまりは、誰がどうみたって悪の根源。魔王、ラスボスだ。
カヲルはあっけらかんと、祭神へ言い放った。
「さて、こうして拝謁が叶ったのです。貴方さまの怒りを鎮めるには、我々はなにをどうすればよいか。畏くも教えていただけませんかね」
『私に怒りなどない。貴様は気に食わんがな。これほどの傷を元に戻せというのだ、わかるだろう』
「唾つけられちゃ、覚悟もするわ」
千は太刀を握っていた。できることはそれだけだった。いつもそうだ。自分でも思っていた。今日も見守るだけだと。
その思いがいかに他人任せで愚かしいことか、目をもって知ることとなった。




