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師匠が、師匠の責務を全うしません(参)

「陽が沈んだばかりだぞ。早すぎる」


 百鬼夜行だ。丑三つどきに現れるはずの夜行が、急ぐようにしてやってきたようだった。部屋に引きこもっていてもわかる、重苦しい瘴気に、千は総毛立つ。

 カヲルは火灯し皿の火を消すと、また違った灯りに火をつけ直した。金木犀のような甘ったるい香りが漂う。


「お香……?」

「母上の調香したものだ。妖に人の姿が見えなくなる。千、くれぐれも俺が戻ってくるまで、この部屋から出るな」

「私も行きたいです」 ひとりは無理!

「先に様子を見てくるだけだ」


 カヲルはミケを呼び戻さずに行ってしまった。障子の外は妖怪行脚。頭をかき乱す祭り囃子。ひとり残され、やがて気が狂うような恐怖が我が身を襲った。少しでいい。正気を保てる灯りが欲しい。お香は白い煙を燻らせるだけで、灯りというには乏しすぎる。そうだ、外には焚き火が焚かれている。店の行灯が、明々と道を照らしているのではないか。ほんの少し、一寸だけなら──。


 千が開けた窓の隙間は、わずか黒目ひとつぶん。

 愚かだった。

 窓の外は部屋より深く濃い闇が、あるだけだった。その奥で蠢、蠢とうごめく、黄泉の気配。誰が吹いているのか、耳をつん裂く笛の音。


 颯と閉め、とめていた息を吐く。

 なにもせず待つべきだった。千は悔いた。

 カヲルはなんて恐ろしいものと、対峙しているのだろう。


「コン、コン」


 呼吸が整う前に、反対側のふすまが鳴った。身がすくみ、すぐに声が出ない。


「コン、コン」


 この時なぜか、頭に『七匹のこやぎ』の物語がよぎった。「いいかい、誰が来ても、決してドアを開けてはならないよ」と言うやつだ。当然だ。母親はドアの鍵を持っているのだから。では、鍵のついていない、ふすまはどうだろう。


「コン、コン」

「……カヲル?」


 名前だけ、呼んだ。ここまでならまだ紙しばいでも三枚目、喰われるにははやい。少し間が開き、返事が返ってきた。


「外は大丈夫そうだ。お前も出てこい」


 カヲルの声だ。救いの声。腰をあげ、ふすまに近づく。言われた通り、外に出てしまえばこの恐怖から逃れられる。カヲルが言うのだから。「大丈夫、そう《・・》だ」と。



 物語では、開けたら食べられてしまうのに?


「師匠が開けてください」


 言ってすぐに後悔した。

 ふすまには鍵がないと、慎重になっていたのではないのか。無防備なくせに挑発してどうする。身構える前に、ふすまは開いた。


 敷居のむこうにいたのは、カヲルではなかった。


 うっそうと長い黒髪が、廊下と垂直にふくらんでいた。隙間には今にもこぼれおちそうな目玉が、ギョロリ。運悪く目線ピッタリの高さで動いていた。

 せめて相手の髪に息がかからぬようにと、両手で口をふさぐ。がむしゃらだ。苦しくて涙がでたが、今の千にできる、精一杯のことだった。

 お香の煙が狭間でたゆたう。

 その距離、わずかに三寸。


『おかしい。たしかに、人間のにおいがしたんだが』


 そう言うなり、長い髪の妖怪は髪をあやつり、ふすまを閉めた。畳に涙がぼたぼたと、こぼれ落ちる。くれぐれも衣摺れのないよう後ずさると、布団にもぐり、ようやく息をした。


「はあ、はあっ」

「なにしてるんだ」

「ヒィッ」


 すぐに布団をひきはがされ、次こそは食べられる! と覚悟をすればカヲルである。カヲルだよね!? 


「千、お前……さては、出ようとしたな」

「してないいい、カヲルが、来いってえええ、でも、わたし、ちゃんと出なかったもんんん」

「よしよし、えらかったな」

「ふぇえええええ」

「残念だが、思っていたよりひどい有り様だ」


 カヲルは千の頭をヨシヨシしながら茶屋の状況を語った。


「おそらく大妖が後ろで手を引いている。かつてより生業としていたかのように、決め事をつくって妖を誘っていた。その証拠に入ってくる妖は、同じ模様の提灯を持っている。

 あちらの社会にも、明るみにできない恋沙汰があるのだろうな。この部屋以外、満室だ」

「満室!」 


 胸の動悸がおさまらない。ラブホの前を通りかかった男子校生のそれではない。例えるなら、うっかり入ってしまったラブホで自分以外の客が全員ゾンビのウイルスに感染したときに発揮する動悸であり、つまりとっくに許容値を超えている。


「いやああ、もう一歩も動きたくないい」

「心配は無用だ、千。俺に身体を預けておれば、それでいい」

「師匠……!」


 千は背中まで腕をまわし、鎖かたびらのようにしがみついた。逃すものか。


「チチ、正面からのぎゅうはまずい」

「このままジッとしていても女将さんを助けられないことくらい、わかっています。少し落ち着いたら歩きますから、今度こそ置いていかないでください」

「俺はもう、立てる気がしない」

「なんで!?」

「だが安心しろ。待っていたらいずれ、あちらから入ってくる」


 そんな都合の良いことが──、あった。

 ふすまが、パーンッと開いた。


「あんた、こんなところでなにを。それにその娘は」


 女将だ。涙を浮かべ恨めしそうにくちびるを噛んでいる。明るい彼女の表情は反転したように、憎悪で染まっていた。

 女将への興味はそこで途絶えた。千の思考はすべて背後に立つ怪物へ奪われた。


 なんども言うが部屋の広さは、三畳半。

 その部屋の敷居をまたぐ足には水かきがあり、畳を傷つける鋭利な爪がのびていた。手の爪は、より磨がれた刃物のよう。すでに獲物のネズミが突き刺さっている。可愛らしい顔にはしっかりと、ケチャップ──ではなく、血のりがついていた。

 千は、この怪物の名を知っている。オオカワウソだ。つぶらな眼はもう完全にカワウソ。可愛さと愛しさと怖さの混在に早くも混乱する。


『急に店のなかを走って、どうした。この部屋になにかあるのか』


 そう言うなりカワウソは、ネズミを噛みちぎった。期待を裏切らない、肉食の牙をぎらつかせ、壁に血飛沫の花を咲かせる。


「きゃあああ!」


 悲鳴を上げたのは女将だった。女将は腰を抜かし、カヲルの背中にはりついた。


『なにか怖いものでも見たのか? ……なにか、様子がおかしいな』


 カワウソはネズミの肉を咀嚼しながらも、やわらかく問いかけた。長年連れ添った伴侶のようだ。小骨をふきだすと、大きく息を吸った。


『……臭うな。妖術か』

「気づいたか。お前さんよりずっと強い幻覚さ」


 カヲルは着物の袂を仰いでみせた。金木犀とは違った、清麗とした百合の香り。


「あんた……!」


 女将さんがカヲルの背中で泣きむせぶ。カヲルはその肩を優しく引き離すと、千へ預けた。


「刃があたらぬよう、隅へ」


 ひざまずいたまま左手を鞘にかける。


「着物に燻らせた香は、持ち主に擬態させる。女将さんには今、俺が旦那そのものに見えている。カワウソくん、君もまた同じように化けていたようだが、悪いね。こちらに分があったようだ」

『なにを! 隠れていないで姿を現せ』

「残念ながら、この部屋に焚いた甘い香りは、人の気配を消してしまうんでね」

『……これか!』


 カワウソは風を起こしながら、腕を大きく振った。カワウソの爪が火灯し皿にかかるーー、寸でのところ、落ちた。

 カワウソの腕だ。


『ぐあああああ!』


 カヲルは太刀についた血を払うと、もう一度しっかりと構えた。


「カワウソよ。今落としたのは利き腕か」

『貴様、陰陽師か……!』

「利き腕かと、聞いている」

『……そうだ。利き腕だ。最期に話をさせてくれ……! 頼む!』

「よかった。ほら、置いていくなよ」

 

 カヲルは刀を納めると自ら落とした腕を、カワウソの顔面めがけ、放り投げた。牙で受け止めたカワウソはもう、喋れない。口惜しげに女将のほうへ視線を投げかけるが、女将は食べられる前のネズミのように震えるばかり。


「悪いが情状酌量の余地はない。異種交配は重罪、カワウソは利き腕一本と百年の謹慎処分。お迎えだ」


 お迎えとは。

 せまる圧迫感に千は袴の裾をひっこめた。

 一秒たたずして、バケツをひっくり返したような墨が部屋へと流れ込む。足もとまで延びた墨は目で追いきれぬまま、波のようにひいていった。残されたのは錆び臭い血の跡だけで、カワウソの姿は毛の一本も残さず、消えている。


「終わったよ」


 カヲルは脱いだ着物を女将の肩へかけた。


「すまない。返り血がついてしまった」

「お客さん、……あの人は、どこへ?」

「しっかりしろ。あんたの旦那はもうずっと前に亡くなってるんだろう」

「そう、死んだよ。でも夜行の日に、帰ってきてくれるんだ。黄泉の国から、わたしに逢いに来てくれる。今夜だって、そう。さっきまで一緒にだんごを食べてたんだ」


 カワウソが食べていたのはネズミだった。

 女将の喉からヒュウと、隙間風のような音が鳴った。


「旦那じゃない。今までもずっと。カワウソが旦那に化けていたんだ」

「カワウソ、あの人が」


 カヲルの目が瞠いた。碧い瞳が夜目にもこぼれ落ちそうだ。女将さんを見やれば、


 

 電池の切れた人形のように生気を失っていた。

 カヲルの声色に絶望がうつろう。


「……俺が、会ったから。あんたと行き合ったから、痣が出たのか」


 女将の手のなかのだんごの串が、方角を変えた。先に動いたのは頭だった。女将はお辞儀する形で、串に突っ込んでいった。


「危ない!」

「……っ」


 串はカヲルの手で弾かれ、音もなく畳に落ちた。女将さんの目は虚ろなまま、鬼哭啾々と顔を歪ませ、カヲルを見た。


「知りたくなかったのに」

「すまない。なにも知らなければ。気づかなければ、あんたは死のうと思わなかったのに。やはり俺の異能は、救いの手なんかじゃない。……呪われた力だったんだ」


 悲劇に流れる音楽がかからないか、耳をすましたが、聴こえてくるのは小気味いい笛太鼓。

 千は震えるこぶしをきつく締め、口を開いた。


「あのー、感傷に浸るの、待ってもらっていいですか。虫唾が走るので」


 終始傍観していた千は怒髪天にあった。寸胴鍋のなかでぐつぐつと煮えるシチューが、噴きこぼれる、そんな感覚さえ抱いた。


「──底抜けの、馬鹿か」


 ふたりとも、「え? どっち?」みたいな顔をしてくる。どっちもどっちだ馬鹿野郎。


「カヲル、あんたはこじらせすぎ。なぁにが俺に会ったから、だ。自惚れるんじゃないよ。女将さん、このまま放っておいたらカワウソにいいようにされて、魂食い尽くされておしまいだったんじゃないの? カヲルは、きちんと責務を全うし女将さんを助けた。それだけだ」

「それだけ!?」

「それと、あんた」


 女将へ向き直る。


「竹串で自殺? 笑わせないでよ、死ねるわけないでしょうが。自分がいたたまれなくなったからって、他人を巻き込むな」

「辛辣すぎない!?」

「人間本当に死にたいなら、ひとりになってから死ぬよ。でもその前に助けて欲しかった。違う?

 そりゃあ、身体を預けていた相手がカワウソだったなんてショックだろうけど、かわいそうなのはどっちかって言うとカワウソのほうだからね」

「えぇ!?」


 ふたりで同じリアクションしないでくれる。


「だって女将さん、知ってたでしょう。相手は旦那じゃないって。百鬼夜行の夜だもん。旦那さんの姿で来てくれるカワウソに甘えてただけだよ」

「違う……、私は、あの人だと、本当に」

「本当に、なに? 女将さん、着物貸してくれるとき言ってたよ。旦那が遺したものだって。旦那さんの死を、ちゃんと受け入れてたじゃない。それを知らんぷりして、カワウソの好意を利用してたのは女将さん、あんたのほうだ」


 千は鼻を鳴らした。

 怖しかった外の祭囃子が、今はやんや、やんやと喜劇のエンディングに聞こえる。

 女将のぽかんとした顔に、カヲルは目を疑った。

 

「痣が……、消えてる」

「ふんっ、当たり前でしょ。女将さんは旦那とカワウソへの贖罪に、妖お宿を続けたらいい。だって女将さんのお団子、



 すっごく美味しかったもん」


 

 三畳半の狭い部屋に、激しい女の泣き声が轟く。慟哭にして、うっすらと安らぎをはらんだ、そんな涙だった。泣き咽ぶ彼女の背中をなで、なぐさめる千に、カヲルのささやきは届かない。


「やっぱり、千だった。……本当に、最高の女だよ、お前は」





 ややあって、ふらふらと立ち上がる女将にカヲルが付き添い出て行った。女将に光りものを渡していたように見えたが、なんだったろうか。

 千は思考を止めた。恐怖に蝕まれた脳の疲労が激しい。


「百鬼夜行、終わるまで帰れないのかな……」

「夜明けまで、あと六時間はある。長い夜になりそうだな」

 嬉しそうに肩を弾ませ、カヲルが部屋へ戻ってきた。

「師匠、下衣だけでは寒くないですか」

「寒い。あっためて」


 ゴミを見るような眼差しを向けるが、通じない。遠慮もなしに覆い被さってくる。冷えきっているはずのカヲルの肌は熱を帯び、汗をかいていた。


「……もう、二度と来ないかと思った」

「私はここにいますよ」

「休むなら休むと言え」

「ごめんなさい。迷ったのですが、漫画以外の対価が思いつかなくて」

「対価など、望んでいない。そりゃあ漫画は読みたいけど」


 畳に優しく倒す。


「その身ひとつで、嬉しいんだよ俺は」


 頬に添えられた手が、火傷しそうに熱い。


「千……すまない」

「だから、なぜ謝るんですか」

「えー、だって初夜が出合い茶屋って。さざ波の聞こえる御帳台のほうが雰囲気あってよくない?」

「では我慢してください」

「無理だろー! だってここ、出合い茶屋だぞ。大丈夫、朝まで人も妖も来ないから」


 先ほど女将につかませていたのは追加料金である。千は近づいてくる口を避けて部屋を見渡した。百歩譲って出合い茶屋。ふすまと布団を彩る血飛沫。ネズミの骨。甘い香で隠しきれない腑の臭い。

 万が一の事態である。

 千はニュースキャスター顔負けの滑舌のよさで呪文を詠唱した。シュパッと桜色の少年が出で立つ。


「シオン。この変態が追いつけない遠くへ、なおかつ朝まで入れない場所まで私を運んで」

「え? 千?」

『カヲルが追いつけない。難しいですが、やってみましょう』

「シオン!? わかってるよね?」

『彼処に決めました』


 桜の精は「このクソごみクズが!」みたいな顔でカヲルを一瞥すると、春風のように千をさらっていった。

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