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夢が叶って胸いっぱい、来週はお暇いただきたい(弍)


 朱雀はカヲルの位置を把握しているようだった。翼は飛び上がるために二、三羽ばたかせただけで、その後は道のない空を直線に、ただ滑空していた。乗り心地はひかえめにいって、シュプリーム。眺めはスペクタクル。

 漁場はまだ昼間だというのに、夜景のように輝いていた。

 暗い雨雲の下、港は火の海だ。

 カヲルはそのなかで、踊るように馬で駆けていた。頭上から声をかける。


「師匠……!」

「千! クウガも乗ってるのか!」

「みて! 兄上!」

 

 クウガは、千の前でしっかりと胸に包みこまれている。


「いいなぁー」

「師匠?」 朱雀が降下のため一寸頭を下げたが、カヲルはそれをとめた。


「そのまま飛び続けろ。地上では蜘蛛の子が何千と飛び散ってる。触れると発火するぞ」

「蜘蛛の子?」

「クウガがやったのは、母蜘蛛だ。港の漁師を食っていたのは出産のためだった。しっかりと養分を蓄えて元気なもんだよ。こりゃあ駆除には朝までかかりそうだ」


 簡単に言うが、小指の先ほどの火の粉が軒先にぶつかると、隅まで広がり扉まで焼き倒した。女郎蜘蛛の子は、およそ五千。燃え移ることで成長する厄介な妖怪だ。

 千は、北の方から預かった小包を思い出した。


「そうだ師匠、北の方にいただいたものが! 受け取ってください」


 衿もとから引き抜き、カヲルの頭上へ落とす。

 近くに飛ぶ火の粉が寸の間、動きをとめた。


「匂いぶくろ? ──なんてもん、よこすんだよ」


 カヲルの嫌そうな返答はすぐに理解できた。小包の中身は女郎蜘蛛の体液と人間の贓物の一部を燻した匂い袋だ。蜘蛛の子が産まれて間もなく、くらう離乳食。

 瞬く間に火の粉がすだく。カヲルを中心点にして、強い灯りが弧を描いた。見下ろしていると、まるで目の玉のよう。

 不安心がつきあがってくる。


「蜘蛛がどんどん集まってる。師匠、食べられてしまうのでは」

「兄上は水神の加護があるから、火傷ひとつ負わないよ」 そうは言っても、クウガの声音は心許ない。

「でも身動きもできないのでは? 集まりすぎて、周りはもう真っ暗ですよ」

「真っ暗? みんな集まってるから……そうか! 朱雀、未の方角の火の粉を散らして! 道を作るから、兄上は馬を走らせて!」

「いいとこ、連れてってくれんだろうな」


 朱雀が右翼をひとふり、南へ風をおくると滑空路のように道がひらけた。既に手綱を力一杯にふるっていたカヲルの馬は、朱雀の翼の先を目掛け疾駆する。

 火の粉は風で少し消し飛んだが、息を吹き返しまた馬を追った。浜辺へ出た馬はついに、地に這う流れ星のように火の粉を引き連れ、ひたすらに走り抜けた。


「クウガ、この先岩場だぞ!」

「岩を削って作った、生け簀がある」

「刻は落ち潮か。よく地図を読んでいたな。でかした!」


 カヲルは何を思ったか手綱から両手を放し、腰を探った。


「どうしたの? 刀はないのに……!」

「兄上が長けているのは、剣術だけじゃないよ」


 抜いたのは龍笛。

 平衡を保ちながら指を添え、秋の潮風を吸った。




 その音色は荒波にもかき消せず、空をつきぬけた。



 朱雀の背中がふるえる。うるんだ大きな眼をカヲルに捧げているのが、千にもわかった。


「兄上の雅楽。大好きなんだ、みんな」

「みんな?」

「朱雀と特にあの、氷の女神がね。兄上の異能は、あらゆる女神の恩恵を受けられること。ほんとうは笛なんて吹かなくったって、願いを叶えてくれるんだけどね。兄上はその能力に気づいてないから、合図みたいに、ああして吹くんだ」


 笛の音がやみ、カヲルを見下ろすと肩に羽衣がかかっている。目を細めれば薄っすらと、羽衣のなかに女の影が映った。

 岩場は目の前だ。


「悪いな。頼んだ」


 カヲルは腕を振りかぶり匂い袋を遠くへ投げると、馬の足をとめた。カヲルの楯を失った匂い袋は、火の粉をまとい大きな灯りとなっていく。しかしながら下降の一途を辿ることなく、羽衣にからめとられ先へ進んだ。ちょうど生け簀の上でとどまると、火の粉はもう、まんまるの篝火のように、ひとつの集合体となって浮かんだ。あぶれた火の粉はない。


 羽衣が煙のごとく、消える。

 匂い袋は支えを失い、生け簀へ沈んだ。

 逃げ馳せようと形を崩す火の粉ごと、生け簀の水が凍り、やがて岩場と同化した。氷面に白々とした雪が積もる──。


 季節はずれの雪が、港一帯の火を消しとめた。






 


『久方ぶりじゃのう。存分に妾を使役しおって。対価は高くつくぞ』

「お気に召すままに」


 羽衣に口づけをして、空へ見送るカヲルの横顔ときたら。

 浜辺へ降りたった千の発した言葉はそう。


「チャッラァ」

「はぁ────!? 千に、見られてたの!? やだ! 穴があったら、入りたい!」


 浜辺にごろごろ転がるカヲルを羽根の先でひと撫でして、朱雀もまた空へ還っていった。

 クウガが指をさす。


「どうせ入るなら、お風呂に行こうよ」


 クウガが示した生け簀の向こう側には、漁師が作った、魚臭さを消すための湯殿がある。


「なんだ。クウガが自ら、めずらしいな」

「さすがに疲れたからね」


 カヲルと千の手をひき、湯もとへ急がせる。


「もうヘトヘトだよ」

「そうだ。お前は無茶をしすぎだ。千もいるというのに。それに御所御用達の識神を気安く喚ぶなと、いつも言っているだろう」

「気安く喚んでないし、兄上だって喚んだじゃん」

「やむを得ずだ。あとで報告する」

「真面目くさいなあ。御所の依頼なんだから、使役しても問題ないはずでしょう。兄上は気にしすぎなんだよ」

「なんだとー!」

「じゃあぼく、お姉ちゃんと入るから」


 クウガが千の腰に抱きついた。

 かわいい。

 千は思わず、たんぽぽのようなその髪に頬ずりをした。すると重量感のある胸に、顔がうずまる。


「クウガァ────!」


 怒髪天を突いたカヲルは、千からクウガを引き離すと、


「チチも! ハシタナイカラ!」


 と言って、千の衿もとをギュッとしめた。匂い袋を取り出した際に乱し、それからずっと谷間をあらわにしていたのを、本人は気づいていない。

 当然、その辱めは怒りとなって、カヲルへ向けられた。


「チチじゃ、な────い!」


 神の加護なしに、大の男を背負い投げできる娘は、貺都にもなかなかいない。これを機にクウガは千を一目置くようになった。それから海の藻屑となったカヲルを置き去りに、ふたりは湯で身体を温めるのだった。




 墨を落とし、フランス人形のような美しさのクウガを盛大に愛でたあと、邸の北と西へ分かれ、帳台へと向かうとすでに空は夕闇。分厚い雲は過ぎ去って、月が顔を出していた。

 母屋から笛の音が聞こえる。

 邪魔をしないよう歩いていたつもりが、渡殿を横切る際に音色が止まった。


「千、もう寝るのか」

「はい」

「少し話そう」


 空から少し澱んだ気配を感じる。カヲルは彼女らへ目配せをしてから、板間に笛を置いた。千はその横に膝を揃えた。笛を間近に見ると、年季が入っていて胸がざわめく。どれだけ練習をすれば漆がはげるのか。


「千も笛をたしなむのか?」

「いいえ。小学校で習ったリコーダーくらいですね」

「そうか。ところで心配して」

「なにをです?」

「海に投げ出された俺は、あれから珊瑚で腕を切った。そりゃあもう、サメを呼ぶ流血だった」

「無事だったのですね。残念です」


 湯殿を出て、クウガと先に帰ろうと馬にまたがったら、背後から「置いていかないでー」という叫び声がしたし、その身体からはしっかり湯気がたっていたので気にしていない。

 カヲルは憮然としていたが、やがて千と向き合い、首を垂れた。


「今日はすまなかった。母上を診にいくと言ったのに、豪語で終わってしまった」

「とんでもない! 街ひとつと、お母さんの打撲では比べようないですよ」


 それに、カヲルが相談に乗ってくれたことで、少し心が軽くなった。


「師匠は今日に限らず常に、危険に身を投じているのですね」

「否定したいんだが、ここ最近は様子がおかしいな。どうも地震があってから、強い妖が山からおりてきている。女郎蜘蛛も、本来ならば山で出産するはずだ。わざわざ港までおりてくるとは」

 

 千は不謹慎にも、淡々と話し続けるカヲルの顔に見惚れていた。

 いつもふざけないで、そうしてればいいのに。

 思慮するその横顔は、天然記念物に登録すべき造形をしている。

 神も見染める譯だ。

 遠慮なしに、ジトとみつめる。


「んだよ、キスするぞ」

「師匠のキスは軽いですもんね」

「俺はチャラくない!」


 どの口が言うのか、呆れつつ腰を上げる。


「もう行くのか」

「ミケと戯れようかと」

「あー。その……、悪いが、今日はミケはいないぞ」

「えー。そんなあ」 一週間で一度の楽しみが。

「今宵は夜通しの宴。お猫さまは敬遠される」

「それはそれは、ご苦労様です」

「千もな。耳うるさいかもしれないが、ご勘弁を」


 笛を手に取る。その横顔が笛を口づける前に、千は母屋をあとにした。



 カヲルの笛の音は、離れた帳台のなかまで聞こえた。

 千はめずらしく寝つけなかった。決して笛のせいではないと、思いながら目をつむった。瞼のなかでは、浜辺を駆けるカヲルの姿が浮かぶ。朱雀の背の温もりを思い返したいのに。

 千の心はぐちゃぐちゃだ。

 今日はじめて、カヲルの本領を見た気がした。そして自分はその舞台上にいない。あくまでオーディエンスなのだと、空の上で悟った。

 毎週、土曜日に用意された妖怪退治は弟子への課題だった。物騒だなぁなどと呑気に構えていたが、カヲルがわざわざ安全なものを選んでいたのだ。ぬらりひょんひとりを前に、腰が抜けていた自分がひどく恥ずかしい。

 弟子と言うのか。わずらわしい客の間違いでは。

 笛の抑揚を耳で感じるたびに、胸がしめつけられる。息を整えると鼻の奥で微かに薔薇の香りを思い出す。


 あの堂々たる居住まい。皇族の姫君であり、カヲルの正室なのだろう。

 妻と女神の愛を一身に受け止める彼へ、己れは一体、漫画以外のなにを捧げられるのか。答えをだせぬまま、夜は更けていった。

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