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盛信勘当の事

長島攻めについての訳はちょっと飛ばします。関家のことについて先に訳しておきます。()内は三ツ村健吉氏による注釈を引用しました。

元亀四年春、関安芸守盛信は信長卿の怒りにふれ日野の蒲生家に預けられてまった。先年に六角家に味方して一時期信長と敵対したり、また信孝のことを蔑ろにしていた。そのためにこんなことになってしまたのだ。


これによって亀山の新城(鈴鹿郡関町新所)以下は信孝に付いた。

関家の与力である采女、小岐須(鈴鹿市小岐須町字北条、盛信の弟盛光)、同じく長者の井上、高楠、岩間、穂積、葉若、松林、豊田、櫻井、佐野、中嶋、草川、井坂、田名瀬、山賀らは、ある者は信孝に仕え、またある者は浪人となった。


なかでも、葉若九郎左衛門尉(はわかくろうざえもんのじょう)は関家に仕え続け、日野で薪を拾い水を汲み、一人忠節を尽くした。世の人たちはこれを褒めたたえという。

谷口克広氏の『織田信長家臣人名辞典』によると「『勢州軍記』には、しばらく六角氏に通じて敵対したためとあるが、嘘ではないにしろ、でっち上げの理由である。真相は信孝への反発が原因なのであろう。」とのこと。うーん、真相はいかに。もしかしたらもっと複雑な事情があったのかもしれませんね。


関盛信は日野に預けられましたが、なぜか翌年八月に樋口直房を打ち取ったことを褒めた信長の朱印状が残っているそうです。(谷口克広氏前掲書より)このことから谷口氏は、盛信は行動が束縛されていたのではないようだとしています。


盛信が赦されて亀山に帰ってきたのは天正十年五月。信孝の四国征伐に従軍し、渡海する予定でしたが、本能寺の変が起きてしまいます。その後の盛信の人生については長くなりますのでまた今度。




次回は長嶋攻めの事……ではありません。すみません。長島一向一揆について勉強してるんですが、どうにもこうにもはかどらないんです。難しいし、私の気分の問題も(汗)

というわけで、次回は別のネタを。

ではまた('ω')ノ

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