第8話:元カノと、宣戦布告
玄関を離れた瞬間、足が震えた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
危なかった……バレなくてよかった。
ひーくんの体温。胸に顔を埋めた時の匂い。
どちらも私を落ち着かせてくれるけど、同時に罪悪感で胸がいっぱいになる。
さっきの「昨日の子が苦手だった知り合いに似てた」なんて、全部嘘。
私が今の高校を選んだのも、"あの子を避けるため"が理由。あと、高校でもひーくんと一緒に登校したかったのもある。
それくらい、あの子とは距離を置きたかった。
「……もう、あの事件には巻き込まれたくない」
言った瞬間、胸の奥が冷たくなる。
ひーくんにも、学校の誰にも話していない。思い出しただけで、呼吸が乱れる“あの日”のこと。
でも、今はまだ──話せない。
「最低だ。私……」
小さく呟きながら歩き出す。
視界がぼやけるのは、寝起きのせいじゃない。なんなら実は一睡もできなかった。
ひーくん、優しすぎるよ……
罪悪感で毎回傷ついてたら、どれだけ隠せるかわからない。
ピコンッ──。
スマホが鳴る。涙を拭い、気持ちに区切りをつける。
チャットに届いた一通のメッセージを見て、目から光が失われた。
『今日、会えるか?』
嫌だ……ほんとは会いたくない。
でも、断れば一生後悔する──最大のチャンスだから。
『うん』とだけ返して、素早くスマホの電源を落とす。
投げ入れるように鞄の中に埋めた。
ひーくん、辛い思いをするのは今だけ。だから──
「絶対に、死なないでね……」
震える声を漏らし、早足で学校に向かう。
◇
丸一日寝たら、気分は少し楽になり、清々しい朝を迎えた。
"悩み"がないわけじゃないが、"死にたい"と思う気持ちは薄れた。
また、学校に通える。
「行ってきます」
支度を終えると鞄を肩にかけ、家を出た。
まだ父さんは帰っておらず、玄関に放った言葉に返事はない。
「あっ──おはよ」
鍵を閉めた瞬間、隣から聞き慣れた声が飛んできた。
──妃菜だ。同じマンションの隣の部屋、ちょうど家を出たところで微かに眠たそう。
「どうして連絡しても、返信してくれないの!?めっちゃ心配したんだから!」
「それなんだけど、実は──」
口ごもりながら、昨日壊したスマホのことを思い出す。
心臓が少し跳ね、言い訳が喉に詰まる。
「──スマホを投げて壊したァ!?嘘でしょ、私の心配はどうなるのよ!」
「ごめん。とにかく、今は大丈夫だから」
「もー、もう壊したらダメだよ?」
「うん、わかった。色々とごめん」
俺は少し笑って、肩をすくめる。
でも、胸の奥は少し重く、あの瞬間の罪悪感が蘇る。
「まあいいや。それよりも、早く行かないと遅刻するよ!」
「そうだな」
肩を並べてマンションを出た。まだ8時を回っていないにも関わらず、ブレザーが暑苦しい季節になってきた。
「もう夏だねー」
「たしかに。夏か……暑いの苦手だから嫌いなんだよな」
「えー!夏が嫌いな人なんているの!?」
「目の前にいるよ」
「嘘でしょ……海に、花火、夏祭りに──楽しいことしかないじゃん!」
妃菜は目を丸くして驚く。
夏なんて、陽キャのためにあるものであって、陰キャからしたら地獄なんだよ。心の中で不満を漏らす。
この考えは、何があっても覆らない──そう確信している。
「そっか……夏の楽しさを知らない、ね──だったら、私が教えてあげるよ!楽しさも、楽しみ方もぜーんぶ!」
「学校の友達と楽しまなくて大丈夫なのか?」
「学校で話す人で、一緒に遊んだりするのは、一人くらいしかいないよ?だから大丈夫!」
そうだったのか。妃菜はたくさん友達がいるものだと思ってた。案外俺と変わらないのかもな。
俺は友達を作れないのに対して、妃菜は作らないという、大きな壁があることに気づいたのは、少し経った後だった。
◇
校門をくぐった瞬間、ざわつく声と人の流れが一気に押し寄せてくる。
千人規模のマンモス校だけあって、朝の昇降口は今日も混雑していた。
「うわ……今日も多いな」
「ね、早く教室行こ。あっ──あれ」
妃菜が小さく俺の袖を引く。
「ん?」
視線の先。
昇降口の柱の陰、少し離れた場所で──冬美が男子生徒と並んで立っていた。
以前、屋上で話しかけてきた男だ。
ふたりだけの空気。
周りの喧騒が、その一角だけ遠くなるように感じた。
そんな時、背後からとろけるような声が聞こえてくる。
「龍生くん、今日もかっこいい……誰よ、あの女。私の龍生くんの隣を歩かないで」
「龍生?誰それ」
「え、知らないの!?今年サッカー部入った後輩だよ!イケメンだし、気さくで優しいんだよ!」
「その言い方だと──話したことあるの?」
「えへへ、ちょっとね!」
……龍生。あの男がそうか。
そんな奴と勝負した覚えはない。
それより、冬美がいるのに他の女に気軽に声かけてんのか?
本当にクズ野郎じゃねぇか。
できれば、腹に一発蹴りを入れてやりたい。
けど──人目に付くし、何よりサッカーで身につけた技術を、そんなことに使いたくない。
「──最っ低」
「妃菜?」
俺の言葉を無視して、妃菜はズカズカと龍生へ歩いていった。
「ちょっと──!」
……あーあ、やっちまった。
怒った妃菜は誰にも止められない。
「龍生……あなた、菊池さんがいるのに、他の人にも手を出してるの? 最低」
「おいおい、そんなに声荒げんなよ。せっかくの可愛い顔が台無しだよ?」
「気持ち悪い。そうやって女の子を甘い言葉で騙して……菊池さんは嫌じゃないの?」
妃菜の問いに、冬美は少しも迷わず答えた。
「ええ、もちろん」
そして俺を見つけた瞬間、龍生の腕にぎゅっと抱きつく。
「私、最初から龍生くんしか愛してないもの。彼が私だけ見てること、知ってるから」
見えない刃が胸に刺さる。
今日も休んでおけばよかった──本気でそう思った、その時。
「何それ……」
妃菜の手から鞄が落ちた。
顔を真っ赤にし、右手を握りしめて振り上げる。
「私が今までどんな気持ちで──!」
マズい。このままじゃ妃菜がいじめの的になる。
冬美の隣に行くのは痛すぎる。でも──妃菜が傷つく方がもっと嫌だ。
「妃菜──頭を冷やせ」
腕を引いてなだめる。
さっきまで荒かった息が、少しずつ落ち着いていく。
「あれ?誰かと思えば、響じゃん」
冬美がワザとらしく笑う。
「や、やあ……」
「ねえ龍生、聞いた? "やあ"だって。一年間付き合ってた女なのに、よそよそしくない?」
クスクスと嘲笑う声。
付き合ってた頃も、何度もこんな風に笑われた。
あの時は、"好きだから笑ってくれてる"と本気で信じてた。
ああ……そうだよな。
俺の知ってる冬美は、最初から作り物の"冬美"だったんだ。
こんな仕打ちでも嫌いになれない──
やっぱり俺は、どうしようもない馬鹿だ。
「あはは……」
力なく笑うしかできなかった。
情けない。自分が嫌になる。
「私に捨てられたら、そっちのアホそうな子とつるむのね」
「なんだと──」
好きでも、ムカつくことはある。
昔からそうだ。
「訂正しろよ」
「は?なんで。私は本当のことを言っただけ。見たら分かるでしょ、アホそう」
「──黙れ!」
「びっくりさせないでよ。響はちょっと賢いのかもしれないけど、私の嘘コクに顔赤くしてるようじゃ、どっちもどっちじゃない?」
胸の奥がつぶれるように痛い。
嗚咽を飲み込みながら、必死に立っていた。
「次のテスト──俺と妃菜で冬美に勝つ。そしたら、さっきの言葉を取り消せよ」
「無理無理。私だって響ほどじゃないけど勉強できるよ?」
「もちろん知ってる」
「あっそ。じゃあ私が勝ったら──高校卒業するまで、二人はずっと奴隷ね」
……一瞬、冬美の隣にいる言い訳ができると思ってしまった自分が、心底嫌になる。
俺は良くても、妃菜が嫌に決まってる。
「妃菜、行こ」
「うん。ひーくん……私、あの子だけは絶対許さない。負けないから」
"菊池冬美"。
世界で一番愛した女の子。
大好きで──大嫌いだ。
面白かったら★評価いただけると嬉しいです!




