第7話:朝の訪問者
今週に入って、まだ二日──火曜日。
気怠さと昨日の出来事が頭の奥でじっと居座って、いつもの時間になってもベッドから起き上がれなかった。
机の上には、昨日投げ捨てて壊したスマホが転がっている。画面は割れたまま黒く沈黙している。
冬美から連絡が来ていても、もう確かめることすらできない。
──確かめたところで、何も戻らないのはわかっていたが、"何か"にかけたかった。
今日は学校……休もうかな。
その考えが固まりかけた頃だった。
ピンポーン──静けさを割るようにインターホンが鳴った。
「誰だよ、こんな朝っぱらから」
寝起きのせいか、普段なら気にもならないことに苛立つ。
半ば勢いで扉を開けた。
ガチャッ──。
そこに立っていたのは、手鏡を覗いて前髪を整える妃菜だった。
一瞬だけ視線が重なり、俺は慌てて逸らす。妃菜は頬を赤くして目を丸くしている。
「なんか用?」
「むぅ……用がないと来ちゃダメなの?」
「い、いや……そういう意味じゃなくて」
昨日のことが引っかかって、まともに顔が見られない。
「──ひーくんに、謝りたくて来たの」
小さく告げられた声に、胸が跳ねた。
「……なに?」
平静を装ったつもりだったが、喉はひどく乾いていた。
「昨日、素っ気ない態度しちゃってごめんッ!」
玄関に響いたその声はまっすぐだった。
深々と頭を下げる姿に、胸の中に溜まっていたモヤが少しずつ消えていく。
「大丈夫だよ。なんでああなったのか……教えてくれない? 言いたくなかったら言わなくていい」
妃菜の表情が一瞬こわばる。言い訳を探すみたいに視線が揺れた。
「……知り合いに似てたの。昨日の女の子が。小学校のとき、苦手だった子にそっくりで……」
「それで怖くなったってことか。大丈夫か?」
「う、うん。人違いだったと思うから……心配しないで」
まだぎこちないが、昨日みたいに閉じてはいない。
しばらく話したあと、今一番言われたくない言葉が来た。
「今日は……学校行かないの?」
「まあな。行っても嫌な思いするだけだし」
悪口を言われる光景が脳裏によみがえり、内側がざわつく。
「ごめんね……」
「いやなんで妃菜が謝るんだよ」
本当に。
謝られたら、余計に自分が情けなくなる。
「じゃ、俺は二度寝するから」
扉から手を離した瞬間──
「──やだ、行かないで」
妃菜の手が扉の隙間に差し込まれ、そのまま俺の胸へ飛び込んできた。
「なっ!?」
柔らかな髪が揺れ、ふわっと甘い匂いが広がる。
同時に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
そしてほんの一瞬──妃菜の指先が震えたように見えた。
懐かしさなのか、別の感情なのか判断できない微かな震えだった。
「何してんだよ……恥ずかしいから離れろって」
「小っちゃい頃は、いつもこうしてたじゃん」
「それは小学生の時だろ!」
「えへへ、そうかも」
胸板に顔を埋めたまま、スー、ハー、と落ち着かせるように呼吸をしている。
顔を上げた妃菜の表情は、水面から出たみたいに澄んでいた。
長いまつ毛、薄いメイク、やわらかそうな唇。
華奢な体で、守りたくなる。
「あっ……」
妃菜の小さな声に、心臓が跳ねた。
自分でも嫌になるほど、期待してしまう。
それでも俺の心は冬美に縛られたまま。
諦めきれない。ただ、それだけだった。
「なんだ、もっとくっついてたかったのか?」
「そ、そんなわけないし!ひーくんが休むって珍しいから、通学路が寂しいなって思っただけ!」
「たしかに。休むの久しぶりかも」
「でしょ」
「じゃあ今日は、頑張る自分へのご褒美ってことで」
冗談っぽく言うと、妃菜もぱっと花が咲いたみたいに笑った。
その笑顔だけで、胸の重さが少し軽くなった気がした。
「じゃあね!ひーくんの分まで頑張ってくるよ!」
「頑張れ。行ってらっしゃい」
「っ……うん!行ってきます!」
明るい笑顔が朝日みたいに玄関を照らす。
扉を閉め、背を預ける。
「うわぁぁぁ!……なんだよ、あの顔。冬美がいなかったら、絶対好きになってた」
頬に触れると、熱い。
でも胸にぽっかり空いた喪失感は埋まらない。
冬美の泣いた顔が、まだ頭から離れなかった。
自分の優柔不断さが、情けなくて仕方なかった。
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