第6話:影落ちた帰り道
放課後の校庭は、初夏の斜陽がまだ眩しい。
日差しは強いのに、影だけはゆっくり伸び始めていた。
遠くの部活の掛け声が風に紛れ、グラウンドの砂がきらきらと光を跳ね返している。
俺は足早に校門を目指す。
胸の奥では、屋上での出来事の余韻が、まだ小さく疼いていた。
「……あ、待って!」
背中に届いた声に振り返る。
妃菜が俺の鞄を抱えたまま、息を切らして立っていた。
「え……いつの間に」
「ひーくん、歩くの速いんだもん」
頬を膨らませる妃菜。そのふくれっ面に空気が和らぎ、つい笑みがこぼれた。
俺の鞄は、教科書の多さからかなり重い。
妃菜に持たせているのは、やっぱり申し訳ない。
「持ってきてくれてありがと。それ……重いでしょ。預かるよ」
「私……ひーくんの抱えてる“重荷”を、少しでも一緒に背負いたいの」
「……鞄とは意味合いがズレてないか?」
「これでいいんですー!」
なんかマズいことを言ったのだろうか。
さっきより一層、不機嫌そうに頬を膨らませている。
機嫌を取るのが苦手な俺は、逃げるように歩き出す。
妃菜の足音が半拍ずつ近づいてくる──歩幅を合わせようとしているのがわかる。
「──今日もおじさん帰ってこないの?」
「あー……うん。今週、父さん出張行ってるからな──もう慣れた」
そう口にしながらも、胸の中が少しざわつく。
慣れた、なんてただの強がりだ。
「……そっか。ひーくん一人だと全然ご飯食べないでしょ」
「食べるって。棚にカップ麺あるし、少し歩けばコンビニもあるから」
「それがダメなんだよ……」
心から心配してくれているのが、声に滲んでいる。
「んー、よし!」
スマホを確認した妃菜が、ぱっと顔を上げた。
「今日の夜、何か用事ある?」
「用事?ないけど……」
「じゃあ私が作りに行くね!」
「え、まじ!?……でも、そんな手間かけるの悪いって」
刹那、妃菜の表情がピタッと止まり、すぐに元の笑顔を貼り付けた。
「悪くないよ。私が勝手にやるんだから」
きっぱりと言われて、俺は思わず言葉を詰まらせる。
「私は“したい”と思ったから提案してるの。ひーくんが遠慮するのはわかってたけど……ここまでとは思わなかったよ」
「そ、そこまで言わなくていいだろ……分かったよ。お願いします。ご飯──作ってください!」
呆れ半分なのに、胸のどこかが温かくなる。
その気持ちからは、無意識に目を逸らした。
「カツ丼──あっ、焼き魚もいいな!」
機嫌が直った妃菜は、鼻歌を混じえながら献立を考えている。
そんな平和な光景に、自然と頬が緩んだ。
帰り道、肉屋のコロッケを見つめてお腹を鳴らす妃菜に、思わず笑ってしまう。
赤面して軽く怒る彼女を見ていると、学校の嫌なことが全部どうでもよくなるような気がした。
◇
「すいませ〜ん。道を教えてもらってもいいですか〜?」
そう声をかけられたのは、夕食の食材を買い足した直後だった。
少女が道を聞いてきた。
年下を連想させる顔立ちに反して、長い髪は少し巻かれていて、大人っぽさも帯びていた。
「いいですよ。どこまでですか?」
「え〜っと──」
俺の説明を、少女はうんうんと頷きながら聞く。
「──ありがとうございます!最後に名前を聞いてもいいですか?」
「響……平野響です」
「そうなんだ〜じゃあ、ひーくんだ!じゃあね、ひーくん!」
少女は手を振り、教えた道を駆けていった。
気づけば、妃菜は無言だった。
いつもの笑顔はどこにもなく、曇天みたいに暗い目。
パキッ──卵が割れるような音がして、手に持っていたレジ袋が落下した。
「妃菜……?」
「──っ、なに?」
「怖いことでもあった?」
「ううん、ちょっと考え事してた」
作り物みたいな笑顔でレジ袋を拾う。
絶対に無理をしているのに、それを言わせてくれない雰囲気があった。
「今日はご馳走だから、早く帰ろっか」
「……うん、そうだね」
喉に何かが引っかかったような違和感を覚えながら、俺はそれ以上踏み込まなかった。
俺にだって、妃菜に知られたくない隠し事の一つや二つはある。
◇
妃菜の料理は優しくて、一口で幸せが染み込んだ。
けれど彼女は、キッチンに立っている時も、食卓を囲んでいる時も、どこか上の空だった。
「何を作るの?」
「……うん」
「美味しいよ」
「……うん」
何を言っても同じ返事。
肩に手を触れた瞬間、ようやく視線が合ったが、あの溌剌とした光はなかった。
「今日の復習したいから」と妃菜は早々に帰っていった。
静かに閉じた玄関の扉を、しばらく見つめてしまった。
考えていたのは、ずっと妃菜のこと。
そんなまま、深い沼に沈むように眠りについた。
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