第5話:絶望の縁で、背中に触れる温もり
鉄柵が軋むたび、心臓が自分の意思とは関係なく鳴っているのがわかる。
あとは──手を離せば。全部終わる。
それだけで、天国に行ける。
……いや、それはないな。
彼女の嘘に気づけず、周囲の期待まで裏切ってきた俺だ。
そんな人間が、天国なんて行けるわけない。
行くとしたら、きっと地獄だ。
「最後に見せてくれよ──どんなツラして逝くのか」
背後で、龍生の粘つく声が聞こえた。
雑音にしか聞こえないその声に、鉄柵を握る手が緩んだ。
最後に、ひとつだけ心残りがあるとしたら──父さんに『育ててくれてありがとう』と感謝を伝えたかった。
目を閉じる。
風の音だけが、真っ暗な世界を満たしていた。
足が浮く。
鉄柵が遠ざかる。
世界が逆さまにひっくり返った、その瞬間──
「おい! お前ら、何してんだッ!」
下から怒鳴り声。教師の声だ。
反射的に身体が強張るが、死を覚悟した俺には関係なかった。
そのとき、手首を掴まれた。
鋼鉄みたいな力で、皮膚が裂けそうになる。
見上げると、柵の向こうで龍生が歯を食いしばっていた。
「バカがッ……!離れたら殺すぞッ!」
腕がちぎれそうなほど痛い。
落ちたら死ぬ。でも、このまま掴まれてても、腕がもげそうだ。
龍生の顔は汗とよだれでぐしゃぐしゃだった。
身体を柵に押しつけ、全体重で俺を引き上げようとしている。
「うわあああッ!」
ガタン、と鉄柵が跳ね、俺の身体が屋上へ転がり戻った。
息ができない。
龍生も膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。
しばらく沈黙したあと、俺の胸には抑えきれない怒りだけが残っていた。
「──ッ! ……なんで引っ張るんだよッ!」
「死ぬなら他のとこで死ね」
仰向けの俺に、龍生が馬乗りになる。
胸ぐらを掴まれ、頭が地面から浮いた。
「なあ……俺は将来、大物になる──そう決まってるんだ。なのにお前みてぇなゴミのせいで、遠回りしなきゃなんねぇんだ──」
振り上げた拳が頬を殴り、血の味が広がる。
自分の情けなさが胸を締めつけた。
「そんなに俺が目障りなら、さっき助けなければよかったじゃん」
「さっきの怒鳴った教師に見られたんだよ!
お前を見殺しにしたら、俺が罪かぶんだろうが!」
「……知らねぇよ、そんなの」
もうどうでもよかった。
龍生は鬼みたいな顔のまま立ち上がり、階段へ向かっていく。
「俺は冬美を好きにできる。まだあの女が好きなら、この件は黙っておくことだな」
吐き捨てるように言い、暗闇に消えた。
横目で空を見上げながら、俺は手を太陽へ伸ばす。
「冬美に何かあったら耐えられねぇ……そんなん従うしかねぇじゃん……俺の覚悟返せよ、クソが……」
当然、手は太陽なんて掴めない。
眩しさが憎い。
両手で目元を覆った。
◇
怒鳴った教師が駆けつけ、事態は収束に向かう──はずだった。
「……いいか。俺たちは忙しい。いちいち構ってられん」
薄暗い相談室。
机の向かいに座るのは年配の体育教師。
足を小刻みに揺らし、露骨に苛立っている。
「お前と話すこの時間が無駄だ。金にもならん」
「……すいません」
「謝るくらいなら最初からやるな。続くなら退学しろ」
監督やコーチ以外の大人と深く関わったことはなかった。
ここまで腐ってるとは思っていなかった。
ハァッと、ため息を吹きかけられ、面談は終わる。
教室へ向かう。
さっきの教師のタバコ臭がブレザーに染みつき、不快だった。
帰るにしても、荷物は教室にある。
財布もその中。
妃菜に頼もうかと思ったが、スマホは画面が割れて電源すら入らない。
万事休すの状態。
そんなとき、人混みの中に一人の少女を見つけた。
ほんと……どうして俺が苦しい時に限って来てくれるんだ。
「……妃菜」
俺の声は無視され、妃菜は手を掴んだまま前へ進む。
いつもより歩く速度が速い。
「どこに行くんだ──」
反応はなく、問いは独り言として消える。
だが、その答えはすぐわかった──
「空き教室……ここに何の用が──」
パァンッ。
頬に鋭い痛み。
遅れて乾いた音。
「え……」
顔を上げると、妃菜は涙でぐしゃぐしゃだった。
なんで……妃菜が泣くんだよ。
「うぅ……ひっく……」
「大丈夫?」
「……」
胸の奥に、黒い本音がじわっと滲む。
──めんどくせぇ。
そんなふうに思った自分に嫌悪が湧く。
悪くないのは妃菜だ。悪いのは、逃げ続けた俺の弱さ。
ため息を噛み殺し、振り返って教室を出ようとした瞬間──
背中に柔らかい温もりが触れた。
「は、離せよ──」
恥ずかしいだろ。
今は誰もいないが、人が来たら……妃菜が俺の味方してるみたいに思われる。
「ばか」
腕を掴む妃菜の手が強くなる。
背中に当たる頭が小さく、思わず守りたくなる。
「ばか……ばかばか。ひーくんのばか……っ」
そうだ。俺は馬鹿だ。
一年愛した冬美には騙され、サッカーからも怪我を理由に逃げた。
大馬鹿者だ。
「……どうして自殺なんて、考えたの……?」
「は……?」
胸が詰まる。
どうして知ってる?
混乱が渦巻く。
俺が飛び降りようとした屋上は、妃菜のクラスがある棟。
見えるはずがない。
「これ……知り合いに見せてもらった……」
スマホに映るのは、落ちる寸前の俺。
別の棟から撮られていて、背後にいたはずの龍生は、綺麗に消されていた。
「た、確かに自殺を考えた。でも、もうやめたから。安心してくれ」
嘘じゃない。なんたって学校での自殺はやめたから。
俺は、誰もいない静かな場所で消えるつもりだった。
「嘘つかないで……私わかるよ?ひーくん、嘘つくとき、いつも頬をかくもん」
「──っ」
知らなかった癖を指摘される。
嘘が通じないなら……もう、いいよな。
「そうだよ」
「え……」
「たしかに俺は自殺を考えてるよ。でも、学校ではしない。……そういう約束だから」
「……っ、ひ、ひーくん……?」
妃菜は必死で俺を見つめていた。
胸が締めつけられ、息が詰まるほどの想いが滲み出ている。
──そのせいで、言葉の端に生まれた微かな違和感を見過ごしてしまった。
今の彼女にとっては、目の前の俺が無事でいることだけが全てだった。
「ひーくんが死ぬなら、私も死ぬ……。私を一人にしないで──ひーくんのいない世界なんて少しも価値がないよ……」
「それはない」
「あるもん……」
「それは無価値な俺を高く見積もりすぎだ」
妃菜は俺と違う。
友達もいるし、自分に好意を寄せてくれる人だっている。
人生、充実しまくりじゃねぇかよ……
「自分のことを卑下しすぎ……ひーくんが知らない、いいところをたくさん知ってるよ?」
「そんなんない」
「またネガティブなことを……」
背中越しにも、妃菜が呆れているのがわかる。
さっきまで聞こえていた、鼻水をすする音が聞こえなくなってることに気づく──よかった。それでいいんだ。
「誰よりも頑張り屋さん」
「なっ──」
「私が困ってる時、いつも助けてくれる」
「妃菜、さん……?」
「寝顔が可愛──ん!?」
胸の奥を優しくくすぐられるような、むず痒さ。
慌てて妃菜を止めた。
頬を引っ張られた妃菜の顔──笑わないほうが無理だ。
「ぷッ──」
「んー、んー!」
「ごめん、つい面白くて。自殺の件、保留にしておくよ」
「ほっぺ、ヒリヒリする……」
妃菜は自分の頬をさすりながら呟く。けれど、嫌な素振りは一切見せず、どこか嬉しそうだった。
「ごめんて」
「もうやめてよね」
「ん、わかった」
「信用する、からね……?」
上目遣いで見られ、今更に気づく──妃菜と密着してることを。
慌てて離れ、ボソッと言い捨てた。
「今日、一緒に帰ろ」
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