第4話:宙に揺れる覚悟
「ここでお前が死んだら、多くの人に迷惑がかかるだろ──そんなこともわからないのか?」
心のどこかで、ずっと待っていた。
自分を救ってくれる誰かの声を。
けれど、その背に届いた声は、救いなんかじゃなかった。
「お前が死んだら掃除が大変だろ」
……違う。
こいつは救世主なんかじゃない。ただの野次馬だ。
振り返ると、そこには同学年の男が立っていた。
ネクタイをゆるく締め、学年ごとに色の違うスリッパが足元を飾っている。
整った顔立ちなのに、目だけが笑っていなかった。
「お前が冬美のストーカーか。昔の威勢はもうないのか──“盤上の支配者”」
「──ッ!」
「黙ってないで、なんか言えよ」
「もうその名前は……俺とは関係ない。サッカーはやめたんだ」
“盤上の支配者”。
その異名は、中学サッカー界で一躍有名になった頃についたものだ。
的確なパス、鋭い判断、そして試合を俯瞰する視点──まるでチェス盤の駒を操り、仲間を導く灯台だった。
でも今は、誰にも見つけてもらえないまま、闇に沈んでいる。
観客は息を呑み、仲間は尊敬の眼差しを向けた。
あの頃、確かに輝いていた。
承認欲求も満たされて、何も怖くなかった。
……少なくとも、あの試合までは。
「お前のミスがなければ、全国大会に行けたかもな」
「あれは……俺のせいじゃない。あっちが無理にぶつかってきたんだ」
「だっせぇな。チームを負けさせた上に言い訳か。お前なんかに夢を砕かれたやつらが、今もどんな気持ちでいるか想像できるか?」
一向に、こいつが何を言いたいのか掴めなかった。
だが、俺の過去をそこまで知っているということは──きっと同じフィールドに立っていたやつだ。
けれど、サッカーをやめる前から俺は他人に興味がなかった。
敵チームの選手の顔なんて、覚えているはずがない。
「──俺としては、戦う敵がいなくなって嬉しい限りだがな。このまま生きることからも退くのもいいかもな」
返す言葉が見つからない。
実際自殺を考えている。だが、このまま死んだら、アイツに一生笑われることになるかもしれない。
「黙れ──!」
言えた──俺は嗤われるだけの人間じゃない。戦えるんだ。
胸の奥に、微かな火が灯った──そう自覚した矢先のことだった。
「口の強いことで。俺は冬美の彼氏だぞ?もっと敬えよ。勘違いストーカークン?」
「は──」
言い返すよりも、言葉の意味を理解する方が早かった。
目の前が真っ暗になる。
自分の動揺をそのまま表現したように、視界がグラりと揺れる。
──今、俺、呼吸できてるか?
肺が息を求めて上下に動こうが、無意味に感じる。
告白した日、初デートの日──こっそり、一緒に弁当を食べた日。
俺の"記憶"というフォルダの中にいる冬美は、いつも笑っている。
『私、最初から響に興味なんてないし』
さっき、俺に向けられて放たれた言葉──それはどんな鋭利な刃物より危険で、俺の心を深く傷つけた。
『うわあああぁぁぁぁぁん!』
最後の試合の日、誰よりも泣いていた冬美。
だけど、今ならわかる──あれは嘘で塗り飾った、仮初の涙だと。
悲しみも、哀れみもない。
「あの時……笑ってたんだろうな」
意図せずとも口から漏れた。同時に、涙が溢れ出る。
やっとだ……。ようやく、出せずにいた最後の勇気が湧いてきた。
地面についていた、もう片方の足がついに宙に浮く──そして、柵の上に両足がついた。
「本気で飛び降りる気か?」
「……」
沈黙が、肯定の代わりになる。
風が鳴り、手元の鉄柵がわずかに軋んだ。
息を吸うだけで、喉が焼けるように痛い。
世界が、ゆっくりと軋みながら傾いていく。
俺は、もう逃げられないところまで来てしまった。
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