第3話:崩壊する日常
みんなが授業を受けている中、俺たち二人は屋上で肩を並べていた。
言葉はない。それでいい──それがいい。
妃菜は俺の欲している言葉を、いつも的確にくれる。
けれど、それに頼りすぎてしまう自分が嫌だった。
雑魚メンタルになりたくない。
先ほどから、妃菜のスマホが絶え間なく震えている。
本当にすごいよ……教室にいないだけで、こんなにも心配してくれる人がいるなんて。
対して俺のスマホは、ずっと無音のまま。
高校に入ってから唯一連絡先を交換した男子は、真面目な優等生で、授業中にスマホなんて触らないタイプだ。
「冬美と、ここで何があったか……聞かないのか?」
「ひーくんが言いたくないことを、私は無理やり聞かないよ」
「……そっか」
素っ気なく返してしまったが、彼女のたった一言で、心は不思議なほど満たされた。
陽の強さを肌で感じながら、ゆっくりと空を流れる雲を見上げる。
遠くで、踏切の音がかすかに鳴った。
「……ねぇ、ひーくん。泣くの、我慢しなくていいんだよ?」
そう言って差し出されたハンカチは、綺麗に折りたたまれており、妃菜らしさを感じる。
胸が熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなる。それでも──
「大丈夫……俺は強いんだ。さっさと次の恋でも探すよ」
「……」
口先だけでも、元気そうに振る舞いたかった。
もう、これ以上……妃菜に迷惑をかけたくないよ。
「そ、そうだ。昨日からたくさん世話になったから、何でも質問に答えるよ」
喉の奥が焼けるように苦い。
冬美のことなんて、少しも吹っ切れていない。
それでも、妃菜の前では弱音を吐きたくなかった。
彼女は、そんな俺の様子をじっと見つめて──やがて口を開く。
「……質問、か」
妃菜は少し考えてから、まっすぐ俺を見た。
「じゃあ、一つだけ。……どうして、サッカーやめちゃったの?」
その瞬間、息が詰まった。
まさかその質問がくるなんて、思ってなかった。
逃げるように笑って、曖昧に返す。
「別に……妃菜も知ってるだろ。怪我したからだよ」
「本当に、それだけ?」
視線が交わる。
優しさと痛みが混じったような目だった。
嘘をついたのは俺の方だと、すぐに気づいた。
「あの怪我、治ってからも一人でサッカーしてたよね。見てたからわかるよ。あんなに楽しそうに没頭してるひーくん、珍しいもん」
「──っ!」
記憶の中で、鈍い痛みがよみがえった。
その瞬間、あの日の出来事が、頭の中で鮮明によみがえった。
試合終了のホイッスル。
膝に走る鋭い痛み。
コートにうずくまるチームメイト、監督の怒鳴り声、何一つ届かなかった──あの日を。
◆
笛が鳴った。
ボールが宙を弾む。残り時間、あと一分。負けている──それだけが頭にあった。
汗が目に染みる。呼吸が荒い。声が掠れる。
前線に走る俺に、仲間のパスが飛んできた。
──いける。
確信した瞬間、全てが崩れた。
全力で踏み込んだ足が、敵のスパイクとぶつかる。鈍い音。
次の瞬間、視界が真っ白に弾けた。
膝が焼けるように痛い。芝生の匂いが刺す。立ち上がらなきゃ。
笛の音が遠くで鳴っているのに、身体が言うことを聞かない。
チームメイトが叫んでいる。監督が怒鳴っている。
でも、何も届かない。
ただ、フェンスの外──泣きながら名前を呼んでいた冬美の声だけが、今も頭の中から離れない。
◆
あの試合までは、誰かを引っ張れるような存在だったと、自分でも思う。
けれど今はどうだ──前髪は伸び、口元には髭が生えた。
……それからの日々は苦しかった。
俺を慕ってくれていた後輩には笑われ、同じフィールドを駆け回った仲間からは散々罵倒されたっけな。
「……あのときも、今も。ひーくんは誰かに『もう一度頑張っていいよ』って言ってほしいだけなんじゃない?」
その言葉に、心の奥の何かが静かに揺れた。
思わず妃菜の顔を見上げると、彼女はいつの間にか立ち上がり、俺に向かって優しく手を差し伸べてくれた。
「さ、行こ。次の授業は私も全力でサポートするから!」
「と言っても俺ら席遠いだろ」
「だ、大丈夫!ずっと『がんばれー』って念を送っておくから!」
「なんだよそれ」
つい、可笑しくて自然と口の端が上がった。
絶望の淵、何もかも投げ出したい気持ちに押し潰されそうなのに、妃菜はいつだって俺の殻を破ってくれる。
◇
「この問題は答えが無いから『解なし』または『解はない』と答えるように」
ベテランの数学教師の話が、耳に入っては抜けていく。少しも頭に残らない。
信頼のおける妃菜が励ましてくれた。だから勇気を出した──けれど、俺の判断は間違っていたようだ。
「ね、見てよこれ」
「なになに──うわっ!"無欠の聖女様"じゃん。屋上にいるだけで絵になってるよね〜」
「ちがっ、そうじゃなくて。ここを見て」
「んー?うわぁっ、痛そう……私の推しの腕を易々と掴んでんじゃないよ、この狼め。絶対探し出してやる──誰だよコイツ」
“無欠の聖女様”。皮肉なもんだ。
誰も寄せつけない美貌と運動神経の良さを讃える呼び名だが、俺は知っている。
あの笑顔の裏にある欠けた部分なんて、誰も気づかない。
「聖女様の画像の……あれって、うちのクラスの平野じゃね?」
「──ほんとだ。こんな不摂生な奴、そうそういねぇからな」
教室の前の方からする声は、明らかに俺を見下しているようだ。
教師は黒板の前で説明を続け、授業中にコソコソと雑談する生徒に気付かないフリをする。
「アイツ、今日聖女様のストーカーしてたらしいよ」
「マジ?キモすぎでしょ」
「顔はキモいし、ストーカーをしてるとか……ほんと死ねばいいのに」
罵詈雑言が広がり、俺の胸を一言ごとに締め上げる。
黙れ──黙れ、黙れ、黙れ。
叫びたい。殴りたい。だが、言葉は内に飲み込まれていく。
急に抑えきれず、バシンッと机を叩いた。教室が一瞬、止まる。
俺を馬鹿にした連中は目を丸くし、やがて爆笑が返ってきた。
視界が暗転するようだった。何もかもが嫌になり、俺は教室を飛び出した。
廊下を抜け、階段を駆け上がる。屋上へ──。
階段を上り切った瞬間、肺が焼けるように痛かった。
それでも、止まる気にはなれなかった。
ポケットの中でスマホがヴーヴーと鳴る。うるさい通知音。切るつもりで画面を開くと──
「──ッ!」
画面を埋め尽くす大量のメッセージ、リプライ、タグ。どれも罵倒と嘲笑で満たされている。
鼓動が跳ね、指先が震える。耐えきれず、スマホを手から滑らせた。
トーク欄の文字は、地面の上で小さく震え続けている。
視界がぐらつき、脳が揺さぶられるような感覚に襲われた。
堪え切れず、俺は手にしたスマホを屋上から投げ捨てた。
そして──おぼつかない足で、屋上の柵に手をかけた。
溢れ出す涙は、空を舞って、地面に染み込む。
「しんどいわ……」
呟くように吐き出された声は、昼過ぎの騒音にかき消される。
もう、終わらせよう──。
俺は救世主を求めている──寛大な心、全てを愛そうとする優しい笑み。それを持ち合わせた人を。
妃菜は俺にとっての救世主だ。けれど毎度の如く足を引いてしまって申し訳ない。
だから、最後は一人で終わらせる。
名残惜しい人生を終止符を打つべく、柵の上に片足を乗せた。
高い、怖い……。
もう片方の足を乗せようとした。その時──後ろで男の声がした。
「おい、待てよ──」
夏を連想させる、爽やかな声。
その声を聞いた瞬間──俺は救われたような気がした。




