第20話:蓋をした過去
俺の母さんは、他の家とは少し違っていた──
いや、今思えば「少し」なんて言葉じゃ、まったく足りない。
その違和感に気づくまで、時間はかからなかった。
物心がつく前から、俺は殴られていた。
理由はいつも曖昧だった。
言うことを聞かなかったから。泣いたから。邪魔だったから。
理由があるようでない──
ただ、そこに感情をぶつける対象が必要だっただけだ。
父さんは仕事の都合で遠くの街にいた。
だから俺は、小学校に上がるまで、こう思い込んでいた。
母さんは子どもに手をあげるもの。
父さんは、たまに帰ってきて優しくしてくれるもの。
それが"普通"なんだと、疑いもしなかった。
家の中では、常に緊張していた。足音がするだけで体が固まる。
機嫌を損ねないよう、息を殺して過ごす毎日。
殴られる瞬間よりもその前の沈黙の方が、ずっと怖かった。
「……痛い」
声に出しても意味はない。むしろ、それが引き金になることもあった。
母さんは殴りながら笑っていた。楽しそうに、満足そうに──。
その表情を見るたび、胸の奥が冷たくなる。
(ああ、この人は、俺が痛がるのを見て安心してるんだ)
「私があなたに暴力を振るうのは、あなたのことを愛してるからよ」
いつからか、それは口癖になった。
その言葉を聞くたび、頭がぐちゃぐちゃになった。
(愛って、痛いものなのか。苦しいものなのか)
もしそうなら、俺は一生愛なんていらないと思った。
小学校に入学する一週間前。
その日を境に、少しだけ変化があった。
顔は、殴られなくなった。
理由はすぐにわかった──人に見られるからだ。
次の日も、その次の日も、顔だけは無事だった。
そのことに、俺は情けないほど安堵していた。
入学式の日。
久しぶりに家の外へ出た。
「病気だから外に出ちゃだめ」
そう言われ続けていたのに、学校には行けるらしい。
その矛盾を考える余裕もなく、ただ、外の空気が眩しかった。
入学式の一週間後。
初めての体育の授業。
走って、息が苦しくなって、汗をかいた。
それなのに、不思議と楽しかった。
着替えの時間──シャツをめくった瞬間、空気が変わった。
「……その傷、どうしたの?」
何気ない問いだった。
だから、何も考えずに答えた。
「母さんに叩かれただけだよ」
その場が静まり返った理由は、わからなかった。
先生に伝え、校長室に呼ばれ、父さんが来た。
父さんは、何も言わずに俺を抱きしめた。
その温もりだけで、全部が溢れた。
(ああ、守られるって、こういうことなんだ)
二日後、両親は離婚した。
それから父さんは、ずっと一人で俺を育ててくれた。
不器用だけど優しくて、逃げなかった。
だから俺は、父さんが大好きだ。
そして母さんのことは、
ずっと心の奥に、閉じ込めたままだった。
◇
顔を上げると、恋春はもう耐えきれなかったように、目元を押さえていた。
肩が小さく震えている。
「……っ、ひーくん……」
涙が、ぽろぽろと机に落ちる。
「ごめん……聞かせちゃって」
「ちが、違う……!」
恋春は強く首を振った。
「聞けてよかった……誰にも言えないまま、倒れるまで我慢してたんでしょ……」
震える声──それでも、視線だけは逸らさなかった。
「……ひーくんは、悪くない」
その一言が、胸の奥に刺さった。ずっと欲しかった言葉だった。
恋春は涙を拭わずに、俺を見つめる。
「……今は私が聞いた。だからもう、一人じゃないから」
そう言って、恋春は何も言わずに、ただ隣にいた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
それでも俺は、しばらく立ち上がれなかった。
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