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大好きだった彼女に浮気され、地獄に落とすまで。  作者: くまたに


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20/22

第20話:蓋をした過去

 俺の母さんは、他の家とは少し違っていた──

 いや、今思えば「少し」なんて言葉じゃ、まったく足りない。

 その違和感に気づくまで、時間はかからなかった。


 物心がつく前から、俺は殴られていた。

 理由はいつも曖昧だった。

 言うことを聞かなかったから。泣いたから。邪魔だったから。

 理由があるようでない──

 ただ、そこに感情をぶつける()()が必要だっただけだ。


 父さんは仕事の都合で遠くの街にいた。

 だから俺は、小学校に上がるまで、こう思い込んでいた。

 母さんは子どもに手をあげるもの。

 父さんは、たまに帰ってきて優しくしてくれるもの。

 それが"普通"なんだと、疑いもしなかった。


 家の中では、常に緊張していた。足音がするだけで体が固まる。

 機嫌を損ねないよう、息を殺して過ごす毎日。

 殴られる瞬間よりもその前の沈黙の方が、ずっと怖かった。


「……痛い」


 声に出しても意味はない。むしろ、それが引き金になることもあった。

 母さんは殴りながら笑っていた。楽しそうに、満足そうに──。

 その表情を見るたび、胸の奥が冷たくなる。


(ああ、この人は、俺が痛がるのを見て安心してるんだ)


「私があなたに暴力を振るうのは、あなたのことを愛してるからよ」


 いつからか、それは口癖になった。

 その言葉を聞くたび、頭がぐちゃぐちゃになった。


(愛って、痛いものなのか。苦しいものなのか)


 もしそうなら、俺は一生愛なんていらないと思った。


 小学校に入学する一週間前。

 その日を境に、少しだけ変化があった。


 顔は、殴られなくなった。

 理由はすぐにわかった──人に見られるからだ。


 次の日も、その次の日も、顔だけは無事だった。

 そのことに、俺は情けないほど安堵していた。


 入学式の日。

 久しぶりに家の外へ出た。


「病気だから外に出ちゃだめ」


 そう言われ続けていたのに、学校には行けるらしい。

 その矛盾を考える余裕もなく、ただ、外の空気が眩しかった。


 入学式の一週間後。

 初めての体育の授業。


 走って、息が苦しくなって、汗をかいた。

 それなのに、不思議と楽しかった。

 着替えの時間──シャツをめくった瞬間、空気が変わった。


「……その傷、どうしたの?」


 何気ない問いだった。

 だから、何も考えずに答えた。


「母さんに叩かれただけだよ」


 その場が静まり返った理由は、わからなかった。

 先生に伝え、校長室に呼ばれ、父さんが来た。

 父さんは、何も言わずに俺を抱きしめた。

 その温もりだけで、全部が溢れた。


(ああ、守られるって、こういうことなんだ)


 二日後、両親は離婚した。

 それから父さんは、ずっと一人で俺を育ててくれた。

 不器用だけど優しくて、逃げなかった。

 だから俺は、父さんが大好きだ。


 そして母さんのことは、

 ずっと心の奥に、閉じ込めたままだった。



     ◇



 顔を上げると、恋春はもう耐えきれなかったように、目元を押さえていた。

 肩が小さく震えている。


「……っ、ひーくん……」


 涙が、ぽろぽろと机に落ちる。


「ごめん……聞かせちゃって」

「ちが、違う……!」


 恋春は強く首を振った。


「聞けてよかった……誰にも言えないまま、倒れるまで我慢してたんでしょ……」


 震える声──それでも、視線だけは逸らさなかった。


「……ひーくんは、悪くない」


 その一言が、胸の奥に刺さった。ずっと欲しかった言葉だった。

 恋春は涙を拭わずに、俺を見つめる。


「……今は私が聞いた。だからもう、一人じゃないから」


 そう言って、恋春は何も言わずに、ただ隣にいた。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。

 それでも俺は、しばらく立ち上がれなかった。

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