第19話:遠い過去の傷
クラスは俺に、少しも優しくなかった。
少し期待していたが──入院したくらいでは、何も変わらないらしい。
「アイツが救急車の音の原因か」
「冬美に手ぇ出したクズだろ」
教室の外は、傍観者で溢れかえっていた。
直接何かを言われるわけじゃない。ただ、視線と噂だけが飛び交っている。
もちろん、心配してくれている人もいる。
遠くから安心したような、少し申し訳なさそうな目を向けてくる人もいた。
けれど誰も近寄ろうとはしない。
──イジメの対象に含まれる可能性を考えれば、正しい判断だ。
頭では理解している。それでも、胸の奥は少しだけ冷えた。
『私がついてるよ』
スマホが小さく震える。
妃菜からのメッセージだった。
顔を上げると、彼女は自分の席からこちらを見ていて、目が合った瞬間、控えめに手を振ってくれた。
俺も小さく振り返す。
それだけで、肩に入っていた力が、少し抜けた気がした。
「みんなおっはよ〜ッ!──って、ひーくん復活してるじゃん!!」
勢いよく教室に入ってきた恋春が、一直線に俺のところまで来る。
そのまま両手を掴まれた。
「大丈夫!?顔色は……うん、まあまあ?」
「雑だな……」
苦笑すると、恋春は満足そうに頷いた。
「よし!じゃあ今日は看病係、私ね!」
「勝手に決めるな」
そんなやり取りをしていると、周囲の視線が少しだけ和らいだ。
恋春は、そういう空気を作るのが上手い。
(陰口叩いてるのバレたら、恋春に嫌われるもんな)
こっそり俺のことをよく思わない人たちを、心の中で笑う。
「はい、これ」
そう言って差し出されたのは、ノートの束だった。
「倒れてた分。授業、結構進んでるよ」
「……助かる」
ページをめくると、丁寧な字でまとめられている。
要点の横には、小さなメモまで書き足してあった。
「ここ、先生が大事って言ってたとこ」
「全部覚えてるのかよ」
「当然でしょ〜?」
少し誇らしげなその横顔を見て、胸の奥がわずかに温かくなる。
授業はやけに長く感じた。
板書の文字を追いながらも、集中力はまだ完全じゃない。
それでも、教室に座っているだけで、日常に戻ってきた実感があった。
──たった一日の入院、それでもポッカリと時間に穴が空いたような感覚だった。
◇
昼休み。
俺は恋春と机をくっつけて、弁当を広げた。
箸を進めると、恋春は少し安心したように笑った。
「──ひーくんさ」
「ん?」
何でもない調子で口を開く。
「お母さんって、どんな人?」
一瞬、時間が止まった気がした。
悪意は感じない。ただの素朴な疑問。
けれど、その言葉は、俺の中の触れてほしくない場所を、正確に叩いた。
「……いないよ」
短く、そう答える。
「そっか」
恋春はそれ以上、すぐには踏み込まなかった。
けれど、少し間を置いてから、視線を合わせてくる。
「じゃあ……お父さんと、二人暮らし?」
「うん」
「大変だったでしょ」
その一言は、驚くほど自然だった。
同情でも、詮索でもない──ただ、事実を受け止める声。
俺は少し考えてから、息を吐いた。
「……実は、暴力を受けていたんだ」
「えっ……」
恋春は思わず息を呑んだ。
けれど、すぐに大げさな反応をすることはなかった。
箸を置いて、俺の言葉の続きを待つように、静かにこちらを見る。
「小さい頃の話だけどな」
「……うん」
それだけで胸の奥がざわつく。
言葉にしようとすると、記憶の端がじわじわと滲んでくる。
「もう終わったことだよ。そう思わないと、前に進めないから」
「……終わった、ね」
恋春は小さく呟いた。
その声は、どこか引っかかるような響きを残している。
「でもさ──」
少しだけ間を置いてから、彼女は続けた。
「"終わったこと"って言えるまで、大変だったでしょ」
「……」
返事ができなかった。
大変だったかどうかなんて、考えたこともなかった。
ただ、生きて、逃げて、気づいたら今にいるだけだ。
「無理に話さなくていいよ」
そう前置きしてから、恋春は視線を外し、窓の外を見る。
「でも、ひーくんが倒れたときさ……なんとなく、思ったんだ」
「何を?」
「ただの体調不良じゃないって」
胸の奥が、きしりと音を立てた気がした。
「人ってさ、身体より先に、心が限界になることもあるじゃん?」
「……」
恋春は俺を見ないまま、淡々と続ける。
「だからもし……誰かに話したくなったら、いつでも聞くよ」
「……どうして?」
思わず、そう聞いていた。
恋春は少しだけ驚いた顔をして、それから困ったように笑う。
「だって、──になる予定だから。今はまだだけど……」
教室でバカ騒ぎするクラスメイトの声が重なって、肝心なところだけか聞き取れなかった。
冗談めかした口調。
けれど、その言葉は不思議と胸に残った。
そのとき、遠くの席から妃菜の視線を感じた。
心配そうにこちらを見ているのに気づいて、俺は小さく首を振る。
大丈夫だ、と伝えるために。
(……全部話す必要はない)
そう思っているはずなのに。
(でも──)
恋春の言葉が、心の奥に沈めていた何かを、静かに揺らしていた。
忘れたつもりで、蓋をして。
それでも、確かにそこにあった過去。
箸を持つ手が、わずかに震える。
(……あれは、いつからだったっけ)
思い出そうとしていないのに、勝手に浮かび上がってくる。
母親の声、部屋の匂い、あの頃の空気──そしてあの人の笑っていたはずの顔。
気づけば、俺の意識はずっと昔へと引き戻されていた。
面白かったら★評価、ブックマークをいただけると嬉しいです!




