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大好きだった彼女に浮気され、地獄に落とすまで。  作者: くまたに


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第17話:母の記憶

「もういいかな?」


 妃菜が自分の部屋に帰るのを見送ったのと同時に、背後から父さんの声がした。


「見てたの?」

「両手に花だねぇ」

「話聞いてないな」


 うんうんと、頷くその表情はどこか羨ましそうだった。

 言葉はなくともわかる。今、父さんが何を──いや、()のことを考えているか。


『──うのは、あなたのことを愛してるからよ』


 ノイズのように、敢えて忘れていた記憶が蘇る。

 まだ、小学校に入学するよりもずっと前の、遠い過去──朧気で、()()()の顔はよく覚えていない。

 いつも苛立っていた。自己中心的で、思い通りにならないと──


「……うっ!」

「響──ッ!大丈夫か!?」


 視界に、大きく父さんの顔が映った。心配の念が溢れ出ている。


(嫌だ……もう、これ以上父さんに迷惑は──)


 思考が鈍る。病院で休んだとは言えど、完治はしていない。

 妃菜と話していた時だってそうだ。気を抜けば、いつだって倒れそうだった。


 水に溶ける絵の具みたいに、輪郭が滲んでいく感覚に包まれて、俺の意識は再び途絶えた。



     ◇



 サクサク、トントン、グツグツ。

 遠くで聴こえるその音色は、聞いているだけで無性に落ち着く。

 今にも、「ご飯できたよー!」と優しい声が飛んできそう。


 ゴソッ──物音がして、俺は深い眠りから、ようやく目を覚ました。

 重い瞼を持ち上げるように開けると、そこには一人の影が見えた。起きてすぐだからか、ボヤけて誰かわからない。


()()()……?」


 もう何年も呼んでいない呼び名が、意図せずこぼれ落ちた。


「……」


 反応はない。聞こえたのは、鼻をすする音だけだった。


『このクソガキ、お前なんていなくなってしまえば──ッ!』


 母さんからかけられた、最後の言葉。

 それは、優しかった頃とは似ても似つかない、鬼の形相で吐き捨てられたものだった。


「──ッ!」


 冷水を浴びせられたかのように、一気に眠気が吹き飛ぶ。

 慌てて体を起こし、荒くなった呼吸を、必死に整えた。

 心臓がうるさくて、自分の耳がおかしくなったのかと思うくらいだった。


「……はぁ、はぁ……」


 視界の端で、何かが動く。


「……起きたか」


 低く、少し掠れた声。

 完全に覚醒した目に映ったのは、ベッドの横に腰掛けている父さんだった。

 片手には、白い湯気を立てるお椀。


「父さん……?」


 声に出した瞬間、自分でも驚くほど弱々しい音になった。


「……お粥、作ってきた」


 そう言って差し出されたお椀は、温かそうで、どこか懐かしい匂いがした。

 体調を崩すたび、いつも決まって作ってくれたものだ。

 それなのに──胸の奥が、ちくりと痛む。


「……あの人の夢、見てたんだろ」


 図星だった。

 否定しようとして、言葉が喉に引っかかる。


「……名前呼んでた。久しぶりに聞いたよ、“母さん”なんて」


 父さんは、笑おうとした。

 でも、その表情はどこか歪んでいて、無理をしているのがすぐにわかった。


「ごめん……」

「謝ることじゃない」


 父さんは首を振った。

 それでも、視線は俺から少しだけ外れている。


「……僕が、もっとちゃんと守れてたら──そんな夢、見なくて済んだのかもしれないな」


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「父さんのせいじゃない……、俺が……弱いだけだよ」

「違う。弱いのは……仕事を理由に目を背けてきた、僕の方だ」


 少しの沈黙。

 お粥から立ち上る湯気だけが、ゆっくりと天井に溶けていく。


「なぁ、響」


 父さんは、意を決したように息を吸った。


「今やってる仕事の企画な……降りようと思ってる」

「え……?」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「会社は順調だ。成功するって、周りも言ってる……でもな」


 父さんは、俺の目をまっすぐ見た。


「お前が倒れて、うなされて、それを横で見てて……思ったんだ。僕は、何を一番大事にしたかったんだって」

「そんな……俺のせいで──」

「違う」


 今度は、はっきりと遮られた。


「お前のせいじゃない。ただ……父親として、やり直したいだけだ」


 返す言葉が見当たらない。


「仕事はいくらでも取り戻せる」

「でも、お前は一人しかいない」


 胸の奥が、じわじわと熱くなる。

 優しく、それでいて力強い言葉は決して覆ることはない。


「……父さん」


 それ以上、言葉が出てこなかった。


「だから──これからは無理をしなくていい。いつでも僕を頼ってくれ、お願いだ」


 そう言って、父さんはお椀をベッドサイドに置いて、頭を下げた。


「……僕はもう逃げない。今まで響に辛い思いさせた分、償わせてくれ」


 体小刻みに震えているのが見えた。

 俺が言ったら、父さんはなんだって願いを叶えてくれそうだ。


(でも、そんなんじゃ絶対に幸せになれない)


「無理」


 拒絶ではないが、強い想いを込めて声に出した。

 後から気づいた。それが父さんへの、初めての反抗だった──と。

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