第16話:泣いてくれる君を疑った日
「妃菜──!」
「……ひーくん……?」
声にならない声と一緒に、妃菜が顔を歪めた。
次の瞬間、堪えていたものが一気に溢れ出したみたいに、ぼろぼろと涙をこぼし始める。
「よかった……っ、本当に……っ」
震える声。
言葉にならない嗚咽。
「え、ちょ、妃菜……?」
顔を合わせただけなのに、返ってきたのは想像に反したものだった。
驚いているうちに、妃菜はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆ってしまう。
「すっごく心配したんだよ……」
その一言で、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
(……笑ってた、なんて)
恋春の言葉が、嫌な形で頭をよぎる。
俺が倒れたとき、妃菜は笑っていた――そう、言っていた。
でも、今目の前で泣いているこの姿を見て、どうしても結びつかなかった。
「妃菜……」
少し迷ってから、俺は静かに口を開く。
「……一個だけ、聞いてもいい?」
妃菜が、涙で濡れた目を向ける。
「俺が倒れた時さ……」
「妃菜、笑ってたって……言われたんだ」
一瞬、空気が止まった。
「……え?」
きょとんとした顔。
次の瞬間、はっきりと首を振る。
「笑ってない。私がそんなこと、するわけない」
即答だった。
迷いも、取り繕う感じもない。
「……それ、誰から聞いたの?」
「それは──」
名前を出していいのかと、言葉が詰まる。数秒の静寂の後、覚悟を決めた。
「恋春だ」
「──ッ!やっぱり……」
まるで分かりきっていたような口調。
「正直、あの子のこと……信用できない」
語気は強くない。
でも、はっきりとした拒絶だった。
「それに……」
妃菜は少し言いづらそうに視線を落とす。
「……ひーくんの前だと、雰囲気が違う気がして」
妃菜は言葉を探すみたいに、一度口を閉じた。
「私が動けなかった時も……気づいたら、ずっと隣にいたから」
「そうか」
"怖くて動けなかった"──それなら、辻褄は合う。
少なくとも、“妃菜が笑っていた”という話は、どう考えてもおかしい。
ふと、別の疑問が浮かんだ。
「そういえばさ、前に恋春と会ったとき、知り合いに似てるって言ったよな」
妃菜が顔を上げる。
「……さっき、恋春は信用ならないって言ったよな。でも──会ってからほとんど話してないのに、どうしてそう思ったんだ?」
一瞬だけ、妃菜の動きが止まった。
大きく開かれた目は、泳がせるように逸らされた。
「……倒れてから、少し話したの。その時に、たまたま感じたというか……」
少し曖昧な言い方。
でも、それ以上突っ込む気にはなれなかった。
「……まぁ、いいや」
(深く考えるのは、今はやめておこう。それよりも――)
「心配かけて、ごめん。もう大丈夫だから」
そう言うと、妃菜はまた涙をこぼしながら、無理やり笑った。
「……ほんとに?」
「ああ」
お互いに、まだ言えていないことはある。それでも今は、それでいい気がした。
泣き顔のまま、妃菜が小さく息を吐く。
「……ひーくん、無事でよかった」
その言葉に、思わず笑ってしまう。
「大げさだな──でも、ありがと……」
妃菜はようやく少しだけ笑った。
その笑顔を見ていたら、どうしてか胸の奥がツンと痛くなる。
目頭が熱くなり、自然と涙を流していた。
「ひーくん、泣いてる……」
「それは……妃菜だろ」
「えへへ、ほんとだ」
話に深い意味は無い。それでも、お互いに声をかけあっている──ただそれだけで少し救われた気がした。
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