第15話:君はそんなことしない
父さんが帰ってくるまでの間、恋春が様子を見てくれることになって早くも五分ほど経った。
「それにしてもさー」
静寂を破るように吐かれたその声は、どこか嫌味を言う前兆のようにも感じた。
「あの担任……酷くない?もしひーくんが一人で保健室に向かってて、そこで倒れたらどうするつもりだったのかな」
「あの言い方は少し傷ついた」
「そりゃそうだよ。同じようにあしらわれたら、私だってへこむもん」
しょぼんとした表情で、恋春は共感してくれる。
結局、朝のホームルームで見せた、妃菜の暗い顔について、何もわからないままだった。
チャットで送ったメッセージには、一向に既読がつく気配がない。
「──他の女の子のこと考えてる?」
「え!?」
「その顔は──正解ってこと?」
「ま、まぁ……」
「妃菜ちゃんのことでしょ」
「どうしてわかるんだ」
「前に初めて会った時、二人は一緒にいたからね」
本来ならば妃菜のためにも否定するところだが、一緒に帰っているところを見られてる以上、わざわざ隠す必要はないだろう。
それに妃菜の暗い顔について、同性の恋春ならわかるかもしれない。
俺が聞くよりも前に、恋春は口を開いた。
「私は……あの子と関わらないほうが良いと思うよ」
「どうして?」
「だって、あの子ったらひーくんが倒れてるところを見て笑ってた。私、そんな酷い人許せない……」
ズキッと胸の奥が歪むように苦しくなる。
妃菜が……笑ってた?それも俺を……
心のどこかで何かが崩れた気がした。
(いつも俺を慰めてくれてるけど、実際は手玉に取って見下してたってことか)
ムカムカとした、煮えたぎるような思いが胸を満たす。
「なんだよ、それ……」
「だ、大丈夫……!?──でも安心して。私はあの子とは違って、ひーくんを傷つけたりしないから」
覆うように、両手を包まれる。その暖かみが、なによりも不安定な俺の心を落ち着かせてくれた。
頬を伝って、涙が垂れ落ちる。強く握った拳から力が抜けた。
”あんな奴、絶好してやる”──そう言いかけて、口をつぐむ。
(なんか……嫌だな……)
たとえ俺の目の前で罵倒されても、妃菜を嫌いになれる自信がない。
きっと本心じゃない──そう感じるはずだ。
それは、十年近く一緒に笑って泣いてきた、この俺にしかわからないことだろう。だって彼女が人を傷つける姿が、少しも想像つかないから。
「今度、直接会って聞いてみるよ」
その途端、目の前の少女の瞳から光が失われる。
まるで生気のない作り物──何か嫌なものでも見るような、そんな瞳だった。
『その考えは間違っている』と、心の奥底で囁かれている気がした。
しかし、それも一瞬の出来事で、「そうなんだね」と、優しい声が返ってきた。
「──っと、あのー……」
診断を聞きに行っていた父さんが、扉の前で固まっていた。その目は俺たちの手を捉えては離さなかった。
「お取り込み中だったかな?邪魔だと思うから僕は待合室で時間を潰すよ」
「わっ、私、用事を思い出したので帰ります!」
パッと手を離され、恋春は足早に病室から去る。
その耳は真っ赤に染まっていた。
「せっかくイチャイチャしてたのにごめんね」
「してないわ!」
「そっか、そうだよね」
父さんにしては珍しく、すんなりと引いてくれた。
(冬美と付き合ったことを話した時は、嬉しさのあまり失神したっけ)
懐かしい記憶に、思わず目を細める。
それと同時におかしな点が浮上した。どうして今まで気づかなかったのかと、疑問に思うくらいだ。
「冬美と別れたこと、父さんに言ってないのに、どうして知ってるの?」
父さんは俺に対して、"恋春は彼女か"や"恋春とイチャイチャしてる"なんてことを言ってきた。
しかし、俺が冬美が大好きで一途なことも知っているはず。それなのに何故──
「ここに来る途中、妃菜ちゃんに教えてもらったんだ」
「え?妃菜に?」
「うん。いきなり電話かかってきて何かと思えば、まさか浮気をされた挙句、酷い扱いをされているなんてね」
父さんに一番知られたくなかったことが既にバレていることに、心臓が大きく跳ねた。
「冬美ちゃん、前に家に来たことあったよね。あの時は、礼儀正しくていい子だと思ったんだけどなー」
「元から好きじゃないって言われて、冬美の演技力の恐ろしさを知ったよ」
「演技、か……」
もの言いたげな目を泳がせて、父さんはギュッと口を塞いだ。
思うところはあるようだけど、見せかけでは穏やかな表情をしている。
「そういえば診断は?」
「ああ、そうだったね」
少しの間続いた沈黙が気まづくて、無理やり話をすり替えた。
俺が眠っている間に血液検査が行われたらしく、診察結果はただの睡眠不足だった。
最近思い詰めて眠れない日が何度かあったから、恐らくそれが原因だろう。
そのまま父さんの運転する車で家に帰る。
病院でぐっすり眠れたおかげか、車窓から眺める景色が、少しクリアに見えた。
体調が万全になったわけではないので、気づかないうちに、俺はまた眠っていた。
◇
「着いたぞー」
父さんの声で、重い瞼が開く。
大きな欠伸をしたら、視界が滲んだ。
「眠たい……」
「部屋に戻ったらまた寝たらいい。夕食は僕が作るから気にしないでくれ」
「ありがと、助かるよ」
「今夜は大事な息子のためにも、ご馳走を振る舞うよ」
なんて話していると、チーンと、マンションのエレベーターが止まる音がした。
「できれば消化のいいもので──」
「おや、あの子は──」
エレベーターの扉の向こう。俺と父さんの部屋の前に、誰かがしゃがんでいた。
セミロングの綺麗な髪を耳にかけた少女──妃菜だった。
『あの子ったらひーくんが倒れてるところを見て笑ってた』
恋春の言葉が蘇る。
一瞬足がすくんだ。
「僕は下で待ってるよ。ゆっくり二人で話すといい」
そう言って、何も知らないはずの父さんは、ここまで来たエレベーターに消えていった。
残されたのは俺と──少し先にいる妃菜だけ。
「妃菜はそんなことしない」
自分に言い聞かせるように呟いてから、彼女の名前を呼んだ。
「妃菜──!」
かがんでいるせいで目にかかった、前髪の隙間から見えた妃菜の瞳は、今にも泣き出してしまいそうなものだった。
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