第13話:新しい隣人は距離感ゼロ
「佐倉恋春って言います。最近引っ越してきたところで、何も知らないので教えてくれると嬉しいです!」
人懐っこい笑みを浮かべて、恋春は小さくピースを作った。
「佐倉の席は、ちょうど空いてるあそこの席で」
担任は教室の一番後ろ、俺とは反対側の角の席を指さした。
「ひーくんの横がよかったな〜……」
「どうした?“ひーくん”って誰だ」
「えっと確か──響。うん、そうだ。平野響くんです」
「そうか。だったら隣の方がよさそうだな。申し訳ないが、平野の隣を空けてやってくれないか」
その瞬間、クラスメイト(主に男子)の視線がギリッとこちらに突き刺さる。
『なんでお前なんだよ』と、言葉にしてなくても、その本音が耳の奥で響いた気がした。
恋春は爛々とした瞳のまま、スキップ気味でこちらに近寄ってくる。
「これからず〜っと一緒だねっ。よろしく!」
「よ、よろしく……」
さすがに差し出された手を無視できず、握手を返した。
だがその後すぐに、俺は机に突っ伏した。
教師にバレないほど細い文字で刻まれた、悪意の文字が目に入る。
『いなくなれ』
『存在が邪魔』
ボールペンの汚れかと思った。けれど、よく見れば“力を込めて彫ったような”跡だ。
指でなぞると、どす黒い気持ちが胸元からせり上がってくる。
(……俺、そんな悪いことしたかな)
目頭が熱い。
校門をくぐる時、あれほど"大丈夫だ"って言い聞かせてきたのに。
唯一の味方──妃菜を見ると、今日に限って暗い顔をして俯いている。
(……頼れるわけ、ないじゃん)
担任も、前に俺に説教したあの教師も。
誰にも助けなんて求められない。
(気持ち悪……)
呼吸を整えようとしたその時だった。
「先生!」
隣からきりっとした声が飛んだ。恋春だ。
(……ほらな。どうせ俺の横が嫌なんだろ)
だが次の言葉は、俺の予想とは違っていた。
「ひーくんの気分が悪そうなので、保健室に連れていってもいいですか?」
俺の胸がかすかに揺れた。
「たしかに顔色悪いな。でも一人で行けるだろ。……佐倉は残れ」
「え〜、ひーくん心配なのに」
教師と恋春が話している間に、視界がぐらついた。
教室を出た後の記憶が曖昧なまま──俺はそのまま意識を手放した。
◇
「ここは……」
目を開けると、真っ白な天井。鼻の奥にツンと消毒液の匂いが入り込み、胸の奥がざわついた。
(病院……?)
腕には点滴。規則正しく鳴る電子音が、焦りをじわじわと押し上げてくる。
どれくらい眠っていたのか分からない。意識が深いところに沈んで、気がつけば──誰かに手を握られていた。
「あっ──おはよ」
「ひ、な……?じゃない……恋春……?」
ぼんやりした視界に映ったのは妃菜ではなく、恋春だった。
(なんで……恋春がここに)
頭が回らないまま考えていると──
カッカッカッ、と廊下を走る音が近づいてきて、勢いよく扉が開く。
「響──!」
息を切らして飛び込んできた父さんは、額の髪が薄くなり、少し老けたようにも見えた。
「父さん……どうして。今日、商談が──」
「先生から電話が来てね。すぐに帰ってきたよ」
「でも……今日の商談、めちゃくちゃ大事なんじゃ……。昨日あんなに嬉しそうに話してたじゃん」
「そんなものはどうでもいい。息子の方が大事に決まっているだろう」
胸の奥がぎゅっと痛んだ。
(……本当に来るなよ。そんなことしたら……)
電話越しに話した昨夜の父さんを思い出す。
『何年も温めた事業がようやく形になる』
『明日の商談が山なんだ』
あんなに嬉しそうだったのに。
「……でもさ。今日を逃したらダメになるんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。僕の代わりに行ってくれてる人がいる」
父さんは笑って言ったが、声のふるえは隠しきれていなかった。
「優秀な部下でね。彼女の交渉は僕より上手いくらいだ。任せられる──そう思うから、ここに来れた」
「……そっか。信頼してるんだ」
「まあな。……とはいえ心配だけどね」
そんな風に言ってくれたのに、罪悪感が胸を締めつけた。
「俺のせいで……仕事、台無しになったら……」
「ハハッ!響がそんなこと気にする必要はないんだよ」
父さんの大きくて不器用な手が、そっと俺の頭を撫でた。
その瞬間、控えめな声が聞こえた。
「あのっ……私、邪魔ですよね。帰りますね!」
恋春が立ち上がり、鞄を肩にかける。その気配で父さんはようやく恋春に気づいたようだった。
「おや?君は、響の……彼女か?」
「ち、ちがいますから!!」
恋春は真っ赤になって否定した。
俺は心臓が止まるかと思った。
──その時、ノックとともに看護師が入ってきて父さんを呼び出した。
「君、僕が戻るまで響を見ててやってくれないか?」
「ま、任せてくださいっ!」
胸を張る恋春に軽く会釈して、父さんは診察室へ向かった。
(父さん……なんで恋春に、そんな爆弾落としていくんだよ……)
途端に気まずい空気に変わった病室。
恋春の、ちらっと様子を伺う視線だけが、妙に刺さった。
(……帰りたい)
そんな言葉を飲み込みながら、俺は天井を仰いだ。
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