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大好きだった彼女に浮気され、地獄に落とすまで。  作者: くまたに


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12/22

第12話:大丈夫と言い聞かせた朝に

 ──その日の妃菜は、どこか様子が違っていた。

 笑ってはいるのに、視線は遠くて……

 まるで近づいてくる()()を恐れているように見えた。



     ◇



「おはよ!ひーくん」

「うん、おはよ。今日も元気だね」


 本当のことを言っただけ──

 それなのに、妃菜は顔をピシャリと歪ませた。手がガタガタと震えている。


 しかしすぐに、さっきまでの暗い顔が嘘だったかのように笑顔を取り戻し──


「私はいっつも元気だよ〜?」


 そう言ってピースを前に出した。微かなぎこちなさをまとったまま。


「今日はひーくんの方が元気そうだね!」

「あ、わかるか?実は──」


 そうだ。今日の俺はいつもより元気……というか、喜んでいた。

 これで寂しい我が家とも、少しの間おさらばだ。


「父さんが帰ってくるんだ」

「え──おじさんが!?」

「うん。仕事、上手くいったってさ」

「よかったじゃん!これで家が賑やかになるね!」


 妃菜はまるで自分のことのように喜んでくれた。

 そのことがなにより嬉しくて、胸の奥に温かいものが宿る。


 通学路はいつもより鮮やかに輝いて見える。一ヶ月前に人々を楽しませた桜はすでに散り、緑が生い茂っていた。

 暖かい風が、いつもより清々しく感じる。


「おはようッ!」


 遠くから生徒会長の声が聞こえ、学校がすぐそこにあることを痛感する。

 また、あの悪口の数々に苦しめられると思うと、足が止まりそうになる。


 でも……父さんに心配をかけたくない。乗り越えるしかない。


「妃菜──俺、頑張るよ」

「うん!頑張って!でも、無理はしないで。何かあったら、他の人がいても私に話してもいいんだよ?」

「それは遠慮しておく」


 妃菜と一緒にいられるのはここまで。

 俺の噂は広まりつつある──このままだと、学校近くまで一緒に登校することすら難しくなる。


「えー……」

「そんな不満気な顔するなよ」

「いや、しちゃうよ。なんでひーくんの辛い時に、一緒にいられないの……」

「いつも助けてもらってるし、支えになってるよ」

「でも……」


 妃菜は歯切れの悪い表情で、ごにょごにょと口を動かす。

 そもそも妃菜がここまで心配しているのは、俺の心が弱いからだ。

 俺が“嫌なこと”にも耐えればいい──それだけ。


「安心してくれ。俺はどんな嫌なことにも屈しない。遠くから見守っていて」

「……わかった。でも、一つだけ約束してほしい」

「約束?」

「うん。辛くなったら、絶対に私に言うこと。いい?」

「もちろんだ。たくさん頼らせてもらう」

「ありがと……!」


 見つめ合い、頷く。


 俺は深呼吸をした。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。


(俺は大丈夫)


「行ってきます」

「行ってらっしゃい!ひーくん、帰り、ここで待ってるね!」

「ありがとう!」


 肩からずれた鞄をかけ直し、妃菜より前に歩き出す。

 数メートル後ろから聞こえる妃菜の足音が、緊張した俺の心をほぐしてくれた。


 行ってきますと、最後に心の中で呟き、校門へ向かった。



     ◇



 校門の前で、毎日の"日課"である朝の挨拶をしていたら、一人の少年が目に止まった。

 軽い足取りで、どこか晴れやかな顔をしている──先週、まるで死んだ魚のような目をしていた、あの少年がだ。


 初めて見た日の、絶望を背負ったような姿は今でも忘れられない。思わずその背中を追ってしまうほどだった。

 けれど──どうやらもう、大丈夫そうだ。


(朝からいいものを見たな)


 胸の奥で、じんわりと熱が広がる。


「……俺も、頑張らないとな」


 大きく息を吸い込み、気合いを入れるように声を張る。


「おはようッ!」



     ◇



 ククラスメイトからの嫌がらせは、想像をはるかに上回るものだった。

 冬美に関わった──ただそれだけで、俺はクラス全体を敵に回したらしい。さすが"無欠の聖女様"と呼ばれているだけある。


「貴様であるか。聖女様に汚い手で触れた阿呆は」


 丸メガネをクイッと上げて迫ってくる男子。

 普段はそこそこ静かなやつなのに、冬美の話になると途端にテンションがバグるタイプだ。


 周囲の生徒は、露骨に俺から距離を取る。

 誰も庇わない。ただ遠巻きに、冷たい目で見てくる。


「汚い手、ね……。確かに俺は冬美に触れたよ」


 そう返した瞬間、女子二人がわざと聞こえる声でひそひそと話した。


「うわ……あんなのにストーカーされるとか、人気者も大変」

「私、触れられたらその部分だけ消毒するかも」


 悪意の棘が、狙い通りに胸へ突き刺さる。

 言い返せば標的が加速する──そうわかっているから、歯を食いしばって聞こえないふりをした。


「貴様のような存在がいるから、聖女様は最近暗い顔なのだ。死んで詫びるがいい」


 教室の空気がピリリと震えた。

 みんな平等にあると思っていた人権は、“冬美に触れた”──ただそれだけで、いとも簡単に剥ぎ取られる。


「俺は冬美と……」


 “付き合ってた”なんて言えるはずがない。

 喉まで出かかった言葉を、ぎゅっと飲み込む。


 言っても信じないだろうし、噂が冬美に届いたら──考えるだけで背筋が冷える。


「なんだ。言うてみろ。貴様の戯言など糠に釘よ」


 レンズ越しの視線が、虫を見るように細まる。

 悔しくて、冬美に嫌われるとかどうでもよくなるくらい、こいつに負けたくなかった。


「俺は冬美と付き──」

「──はい、みんな席つけー!」


 担任の声に、俺の言葉はかき消された。

 眼鏡男はバツの悪い顔で席へ戻る。


「今日は欠席…………あれ、一人足りないな?」


 担任がため息をついたと同時に、教室の扉が開く。

 息を切らせた妃菜が入ってきた。目の周りが少し赤い。


(一緒に登校したのに……鞄も持ったまま、どこに行ってたんだ?)


「すいません……少し遅れました」

「あー気にすんな。早く座れ」


 妃菜はほっと息をついて席に戻る。


「さて!今日はみんなに秘密にしていたビッグイベントがある!」


 珍しく声を張る担任に、クラスがざわつく。

 妃菜の横顔はぼんやりしていて、いつもの覇気がない。


(やっぱり……何かあったよな)


 人の気配を感じ、ふと扉の方を見る。


「おっはようございま〜す!」


 巻いた髪を揺らしながら入ってきた少女。

 少し前に道を尋ねてきた、あの子だ。


「転校してきましたっ!よろしくお願いしま〜す!」


 歓声が上がる教室。

 その騒ぎの陰で、少女は俺にだけ、そっと目配せを送ってきた。

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