第12話:大丈夫と言い聞かせた朝に
──その日の妃菜は、どこか様子が違っていた。
笑ってはいるのに、視線は遠くて……
まるで近づいてくる何かを恐れているように見えた。
◇
「おはよ!ひーくん」
「うん、おはよ。今日も元気だね」
本当のことを言っただけ──
それなのに、妃菜は顔をピシャリと歪ませた。手がガタガタと震えている。
しかしすぐに、さっきまでの暗い顔が嘘だったかのように笑顔を取り戻し──
「私はいっつも元気だよ〜?」
そう言ってピースを前に出した。微かなぎこちなさをまとったまま。
「今日はひーくんの方が元気そうだね!」
「あ、わかるか?実は──」
そうだ。今日の俺はいつもより元気……というか、喜んでいた。
これで寂しい我が家とも、少しの間おさらばだ。
「父さんが帰ってくるんだ」
「え──おじさんが!?」
「うん。仕事、上手くいったってさ」
「よかったじゃん!これで家が賑やかになるね!」
妃菜はまるで自分のことのように喜んでくれた。
そのことがなにより嬉しくて、胸の奥に温かいものが宿る。
通学路はいつもより鮮やかに輝いて見える。一ヶ月前に人々を楽しませた桜はすでに散り、緑が生い茂っていた。
暖かい風が、いつもより清々しく感じる。
「おはようッ!」
遠くから生徒会長の声が聞こえ、学校がすぐそこにあることを痛感する。
また、あの悪口の数々に苦しめられると思うと、足が止まりそうになる。
でも……父さんに心配をかけたくない。乗り越えるしかない。
「妃菜──俺、頑張るよ」
「うん!頑張って!でも、無理はしないで。何かあったら、他の人がいても私に話してもいいんだよ?」
「それは遠慮しておく」
妃菜と一緒にいられるのはここまで。
俺の噂は広まりつつある──このままだと、学校近くまで一緒に登校することすら難しくなる。
「えー……」
「そんな不満気な顔するなよ」
「いや、しちゃうよ。なんでひーくんの辛い時に、一緒にいられないの……」
「いつも助けてもらってるし、支えになってるよ」
「でも……」
妃菜は歯切れの悪い表情で、ごにょごにょと口を動かす。
そもそも妃菜がここまで心配しているのは、俺の心が弱いからだ。
俺が“嫌なこと”にも耐えればいい──それだけ。
「安心してくれ。俺はどんな嫌なことにも屈しない。遠くから見守っていて」
「……わかった。でも、一つだけ約束してほしい」
「約束?」
「うん。辛くなったら、絶対に私に言うこと。いい?」
「もちろんだ。たくさん頼らせてもらう」
「ありがと……!」
見つめ合い、頷く。
俺は深呼吸をした。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
(俺は大丈夫)
「行ってきます」
「行ってらっしゃい!ひーくん、帰り、ここで待ってるね!」
「ありがとう!」
肩からずれた鞄をかけ直し、妃菜より前に歩き出す。
数メートル後ろから聞こえる妃菜の足音が、緊張した俺の心をほぐしてくれた。
行ってきますと、最後に心の中で呟き、校門へ向かった。
◇
校門の前で、毎日の"日課"である朝の挨拶をしていたら、一人の少年が目に止まった。
軽い足取りで、どこか晴れやかな顔をしている──先週、まるで死んだ魚のような目をしていた、あの少年がだ。
初めて見た日の、絶望を背負ったような姿は今でも忘れられない。思わずその背中を追ってしまうほどだった。
けれど──どうやらもう、大丈夫そうだ。
(朝からいいものを見たな)
胸の奥で、じんわりと熱が広がる。
「……俺も、頑張らないとな」
大きく息を吸い込み、気合いを入れるように声を張る。
「おはようッ!」
◇
ククラスメイトからの嫌がらせは、想像をはるかに上回るものだった。
冬美に関わった──ただそれだけで、俺はクラス全体を敵に回したらしい。さすが"無欠の聖女様"と呼ばれているだけある。
「貴様であるか。聖女様に汚い手で触れた阿呆は」
丸メガネをクイッと上げて迫ってくる男子。
普段はそこそこ静かなやつなのに、冬美の話になると途端にテンションがバグるタイプだ。
周囲の生徒は、露骨に俺から距離を取る。
誰も庇わない。ただ遠巻きに、冷たい目で見てくる。
「汚い手、ね……。確かに俺は冬美に触れたよ」
そう返した瞬間、女子二人がわざと聞こえる声でひそひそと話した。
「うわ……あんなのにストーカーされるとか、人気者も大変」
「私、触れられたらその部分だけ消毒するかも」
悪意の棘が、狙い通りに胸へ突き刺さる。
言い返せば標的が加速する──そうわかっているから、歯を食いしばって聞こえないふりをした。
「貴様のような存在がいるから、聖女様は最近暗い顔なのだ。死んで詫びるがいい」
教室の空気がピリリと震えた。
みんな平等にあると思っていた人権は、“冬美に触れた”──ただそれだけで、いとも簡単に剥ぎ取られる。
「俺は冬美と……」
“付き合ってた”なんて言えるはずがない。
喉まで出かかった言葉を、ぎゅっと飲み込む。
言っても信じないだろうし、噂が冬美に届いたら──考えるだけで背筋が冷える。
「なんだ。言うてみろ。貴様の戯言など糠に釘よ」
レンズ越しの視線が、虫を見るように細まる。
悔しくて、冬美に嫌われるとかどうでもよくなるくらい、こいつに負けたくなかった。
「俺は冬美と付き──」
「──はい、みんな席つけー!」
担任の声に、俺の言葉はかき消された。
眼鏡男はバツの悪い顔で席へ戻る。
「今日は欠席…………あれ、一人足りないな?」
担任がため息をついたと同時に、教室の扉が開く。
息を切らせた妃菜が入ってきた。目の周りが少し赤い。
(一緒に登校したのに……鞄も持ったまま、どこに行ってたんだ?)
「すいません……少し遅れました」
「あー気にすんな。早く座れ」
妃菜はほっと息をついて席に戻る。
「さて!今日はみんなに秘密にしていたビッグイベントがある!」
珍しく声を張る担任に、クラスがざわつく。
妃菜の横顔はぼんやりしていて、いつもの覇気がない。
(やっぱり……何かあったよな)
人の気配を感じ、ふと扉の方を見る。
「おっはようございま〜す!」
巻いた髪を揺らしながら入ってきた少女。
少し前に道を尋ねてきた、あの子だ。
「転校してきましたっ!よろしくお願いしま〜す!」
歓声が上がる教室。
その騒ぎの陰で、少女は俺にだけ、そっと目配せを送ってきた。
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