第11話:あの日以来、初めての二人の時間
バレる前に逃げよう。遠くで友人たちと笑う冬美に背を向けて、一目散にその場から離れる。
浮気現場を目撃した——あの日のことを、鮮明に思い出す。
ズキズキと、胸の奥を締め付ける痛み。こうなるくらいなら、彼女との思い出も全て忘れたい。
なるべく遠くへ——妃菜との合流なんて忘れて走った。
音と光の溢れ出すゲーセンから離れて、近くの公園で、膝に手をついて荒れた息を整える。
「もう嫌だよ……」
弱音をこぼした瞬間、視界が真っ暗に覆われた。
後ろから抱きつかれ、冷たかった俺の体が熱を持つ。
ふわっと、柔軟剤の甘い香りが漂う。なぜか懐かしさを感じ、少しだけ心が落ち着いた。
「——なにが嫌なの?」
大人びた声が耳元で囁かれる。熱のこもった吐息が耳に当たり、ゾッと、背筋が凍る。
そして肩を吸われるように噛まれ、慌てて自分に触れる手を振り払う。
「あっ……響ったら酷いね」
どこか寂しさを帯びた声が、ため息とともに吐かれる。
「キスもスキンシップも、屋上で会った時に、響が羨ましそうにしたからしたんじゃん」
「冬美……俺のこと気づいていたのかよ」
「当たり前でしょ。一年間一緒にいたんだから。愛は……なかったけれど」
わざわざ付け足さなくてもいいじゃないかよ。
他人の彼女と話して、少しだけ嬉しく思う自分が憎い。
胸の奥が締め付けられる。息を整えようとしても、吐き出すたびに喉が詰まるようだ。
「俺といるところ、アイツに見られたらマズいんじゃないのか?」
「あー、うん。よくないね。でも、響はまだ私のこと好きでしょ?だから私が傷つくことはしないって信じてるから」
「左様で」
心の中が見透かされているようで、肌が泡立つような怖気を覚える。
付き合っていた時は、『俺のこと好きすぎでしょ』と、完全に騙されていたわけだし、今となってみれば、何を考えているのかわからない。
「響、このことは誰にもシーだよ」
唇の前で人差し指を立て、目配せをする。
誰もが見惚れるような稀有な容姿。こんな子から好意を向けられたら、誰でも勘違いするだろ。
「ずるい……よ、ひっく……」
「?」
声を絞り出して、言葉を発する。
自分からいきなり「好きです、付き合ってください!」って関係を始めておいて、いらなくなったらすぐにポイかよ……
今まで強がっていた分、尚更苦しい。
視界が滲み、しゃくりあげて泣いてしまった。
「ぅぅ……ひっく……そん、なの、あんまりじゃねぇかよぉ……」
嫌だよ……こんな姿、見られたくないのに。
冬美は目を丸くして、こちらを見ている。何かを思い出し、そして口を開く——
「ごめんね」
それは、小さく、それでいて泣き出してしまいそうな声だった。
冬美は小さく唇を噛み、視線を逸らすと、背を丸めるようにして歩き出す。やがて小さな足音だけを残して去っていった。
公園に一人残された俺は、袖で涙を拭って、まだ明るい昼下がりの道を帰った。
◇
時は響がゲーセンを出た頃に戻る。
合流場所に着いた妃菜であったが、一向に現れない響のことが気がかりで仕方がなかった。
ピコンッ——午前中、一緒にスマホを買った時に登録した、響の連絡先からだった。
『ごめん。先に帰る』
目の前が真っ暗になった気がした。
何か傷つけるようなことをしたかなと、思い返すが心当たりがない。
「一体なにが……」
呟いた瞬間、目の前を見覚えのある少女が走り過ぎていった。
「菊池冬美……もしかして——」
胸がちくりと痛む。
でもすぐに頭を振った。
「ないない、妃菜。勝手に嫉妬してどうするの……」
自分で自分に小声でツッコみながら、無理やり気持ちを押し込める。
響のことで、敏感になりすぎてるだけだよ。
(あ──これ、響くんが教えてくれたやつだ)
視界の端で存在感のあった、クレーンゲームの前に立つ。
響は指先でレバーの位置を示してくれた。
あの時の恥ずかしさを思い出されて、胸が苦しくなる。
しかし、楽しもうとしても頭に浮かぶのは響の顔。今頃彼女と──
「気になる……」
何度かプレイしてみたが、少しも楽しめない。むしろ、モヤモヤとした感情が胸の奥で広がるばかりだ。
そんな時——クシャリ、とビニール袋の音がして、ぼーっと立ち尽くしていた私の注意を引く。
持ち手部分の隙間から、二体のテディベアが顔を覗かせている。
「そうだ——」
思い立った瞬間には、私は自然と足を動かし、走り出していた。
◇
抱きつかれた時に染みついた冬美の匂いが嫌で、家に帰るなり着ていた服を洗濯機に放り込んだ。
リラックスも兼ねて湯に浸かる。
傷ついた心を癒すには、ちょうどよかった。
「なんだこれ。だっせ……」
疲れきった自分の顔が情けなくて、笑いが漏れる。
ふと、肩に黒い何かがついていることに気づく。
「キスマーク……?」
言葉にした瞬間、冬美のものだと悟る。
慌てて擦っても取れない。
「くそォ……」
一気に力が抜け、どうでもよくなった。
風呂から上がると同時に、ピンポーン、とインターホンが鳴る。
「チッ……誰だよ」
玄関を開けると、そこにはいつもより明るい表情をした妃菜がいた。
帰り道でそのまま来たのだろう。手にはクレーンゲームの戦利品が入った袋。
「ごめん。先に帰って……」
「いいよ〜!ひーくんのことだから、何かあったんだよね。私で良かったら話聞くよ?」
妃菜なら、こう言ってくれるのはわかっていた。
普段なら全部話すところだが、今回は——
『響、このことは誰にもシーだよ』
冬美に嫌われたくない。その気持ちだけが勝ってしまう。
「実は……なにもないんだ」
「え?」
「……いきなり気分が落ち込んだから帰った。ほんと、それだけ」
「そっか……」
妃菜はすっきりしない顔で目を逸らした。
キリリッ……無意識に歯を噛み締める。
嘘をつくのが嫌いだからこそ、ムカムカと気持ち悪い“何か”が渦巻く。
「なんだ——勝手に帰った俺を責めに来たのか?」
「え!?違うよ!?大事なことを忘れてたの」
「大事なこと?」
首を傾げると、妃菜は大きく頷いた。
「ひーくんにプレゼントです!」
袋の中から、一体のテディベアを取り出す。
これは——
「ひーくんに教えてもらってゲットしたやつだよ!せっかくなら、お揃いがほしいな〜って」
その瞬間、一緒にクレーンゲームではしゃいでいた時間が蘇る。
冬美と話したからって、何落ち込んでんだよ。
「めっちゃ嬉しい」
「ほんと!?迷惑だったらどうしようって思ってたから、よかった〜!」
ニカッと花が咲くように妃菜が笑う。
見えない尻尾をブンブン振っているようだ。
「ははっ——」
勝手に何考えてんだよ、俺。
どうでもいいようなことなのに、笑いが止まらない。
「どうかした?」
「いーや、なんも!」
口元がゆるみ、俺は笑って返した。
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