第1話:大好きだった彼女に裏切られた日
カフェの窓際で、俺こと平野響は、待ちぼうけを食らっていた。
約束の時間はとっくに過ぎている。テーブルのマグカップのコーヒーは冷え切り、水面に映る自分の顔がひどく間抜けに見えた。
意味もなく窓の外を眺める。降り続ける雨が、地面に当たってはねていた。
道路を挟んだ向こう側には、楽しそうに笑いながら手を絡め合うカップルがいる。
その幸せそうな光景が、何よりも俺の神経を逆撫でした。
「雨止まないね」「そうだね」──そんな、どうでもいい会話をしているのだろう。
そうでも思わなければ、壊れてしまいそうだった。
スマホで時間を確認しながら、チャットアプリを開く。
『今日は楽しみだね』
家を出る前に送ったメッセージには既読がついたまま返信はない。
画面の文字が、まるで俺を嘲笑っているように見えた。
「一年記念日、なんだけどな……」
先月、高校に入学してクラスが離れた。
一年間同じクラスだった彼女がいない教室は、今でもどこか空虚に感じる。
些細なことで喧嘩も増えた。
いわゆる倦怠期──そんなもの、俺が頑張って乗り越えようとしていた矢先だった。
そのとき、スマホの画面が明るくなる。彼女の名前。
胸が高鳴り、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『もしもし、響?……ごめんね。今日行けない』
「どうして……っ」
通話は一方的に切れた。
胸を鈍器で殴られたような衝撃だけが残る。
冷めたコーヒーを一気に飲み干し、舌に残る苦味に顔をしかめると、俺は雨の降る街へと飛び出した。
◇
あてもなく走り続け、気づけば足が止まっていた。
桜並木──彼女と何度も歩いた思い出の場所。桜は既に散ってしまっていて、寂しい風景だ。
その景色の中、見慣れた後ろ姿があった。
隣には男。同じ傘の中で二人は笑い合い、手を絡め、そして──唇を重ねた。
立ち尽くす俺の頬を、冷たい雫が伝う。
それが雨なのか涙なのか、もう分からなかった。
「くそっ……地獄に落ちろよ」
声が震える。涙も止まらない。
今、この世界で誰よりも惨めだった。
そのとき背後から声がかかった。
「……ひーくん?」
振り返ると、幼馴染が立っていた。
街灯に照らされたその瞳が、静かに俺を見つめている。
その視線だけで、胸の奥がふわりと温かくなった。
絶望の中で、初めて灯った光だった。
◇
夜が明けて、目覚ましの音で目を覚ました。
いつもと同じ朝。でも心の中では、昨日の衝撃がまだ渦巻いていた。
どうしても消えない嫌な感情──怒り、悲しみ、裏切られた悔しさ。
制服に袖を通す。鏡に映る自分の顔がやけにやつれて見えた。
昨日は力尽きるまで泣いたせいだ。目の周りが赤く腫れ、表情もどこか固まっている。
扉を開ける。本当はまだ部屋に閉じこもっていたかった。
でも、男手一つで育ててくれた父さんに、心配をかけるわけにはいかない。
リビングに入ると、聞き慣れた声があった。
「おはよ、ひーくん」
そこに立っていたのは幼馴染の妃菜。エプロンを着て、柔らかな微笑みを浮かべている。
「……どうしてここに?」
「ひーくん、昨日は大変だったでしょ?だから心配で」
軽く俯いた響を見つめるその目には、責める気配はなく、ただ静かに心配する温かさがあった。
「……ありがとう」
小さく呟く声が、昨日の絶望に張り付いた重みを少しだけ溶かす。
「昨日お風呂入らずに寝ちゃったんだし、さっさと入っちゃいなよ」
妃菜は無理に明るくせず、自然な口調で促すだけだった。
その穏やかな声が、響の胸の奥に小さな灯りを灯す。
シャワーを浴びながら、昨日の出来事を思い返す。
付き合っていた彼女が浮気していたこと。情けなく、惨めな自分の姿を妃菜に見られたこと。
それでも妃菜の温かさを思い出すと、涙で張り付いた胸の奥が少しずつほぐれていく。
まだ胸には悔しさもある。絶望も消えてはいない。
今日登校したら、つい本音が出るかもしれない。『あいつは浮気した』って口にしてしまう自分がいる気がした。
でもそんなことで自分が変わるわけないってことも、どこかで分かっている。
「……浮気されてもまだ好きなんて。ほんと、俺ってどうかしてるよな」
彼女に捧げてきた時間、お金、愛──全てが無駄に思えてくる。
それと同時にあの幸せな時間は、もう戻ってこないんだと涙が溢れそうになる。
「今日学校に行ったら、白黒つけよう」
鏡に映る自分の顔は、未来に怯えていた。
もしかしたら、今よりもっと苦しむことになるかもしれない。
どうせどう転んでも地獄。今動けなければ、大人になっても一生後悔する。
鏡を見つめる自分の目が、ようやく何かを映した気がした。
濡れた髪をドライヤーで乾かしていると、リビングの方から香ばしいパンの匂いがした。
「あっ、おかえり。時間ないだろうから、簡単だけど作っておいたよ」
「何から何まで……ほんと助かるよ。ありがと」
「いいの。私がしたくてしたことだから」
自分は他に彼女がいるというのに、妃菜に頼ってばっか……人としてやってること最悪じゃねえかよ。
妃菜とは幼稚園の頃からの付き合いだ。だから、他には言えない隠し事も、気兼ねなく話せる仲だ。
今の俺はそんな関係に甘えきっている。妃菜が俺の周りから消えてしまったら、今度こそ感情を維持できなくなるかもしれない。
「そんな険しい顔しないの。さ、食べよ?目玉焼きはひーくんの好きな半熟にしておいたからさ」
「……うん。いただきます」
かりっと、パンの甘味を感じる。半熟の目玉焼きは俺の好みをよく理解してくれている、妃菜にしかできないようないい焼き加減のものだった。
しかし俺の空虚な心は、埋まらないままだった。
◇
「おはようッ!」
校門の前には、生徒会長が仁王立ちで威勢のいい挨拶をしている。毎日ご苦労なものだ。
いつもはその夏の暑さを感じさせるようなその声に、清々しさすら感じていたが、失恋を味わった俺にとっては耳障りでしかなかった。
「むむ」
彼は目が合うと険しい顔になった。ほんの一瞬のことだったが、心の中を見透かされているような気がして寒気がした。
「生徒会長さんスゴいね……私たちと一学年しか変わらないなんて思えないよ」
「そうだね」
曖昧に返す。
グラウンドで汗を流す野球部、靴箱、教室の前で雑談するクラスメイト。どれも今まで見てきたのと同じ景色だ。
だが、全てがスローに見える。気を抜いたら、吊るしていた糸が切れた人形のように倒れてしまいそう。
「……ひーくんッ!」
「な、なに……?そんなに大きな声出さなくても聞こえてるよ」
「嘘、何回呼んでも反応なかった」
「ごめん……」
「違うの。私は謝ってほしいんじゃなくて、頑張ってほしいの。怖かったら逃げたっていい。でも私は何があってもひーくんの隣にいるから」
妃菜は、俺にとって当たり前にいる存在だった。でも──今日の彼女は、当たり前なんかじゃない。
まっすぐに伸ばされた言葉が、迷っていた心の奥を突き抜ける。
正直彼女の顔を見るのも怖い。
でも、逃げたらきっと俺は俺のまま止まってしまう。
妃菜の"隣にいる"という言葉が、背中を押した。
「俺、頑張ってくるよ……!」
声が裏返った。みっともないって思われているかもしれない。
けれど俺は胸を張って、彼女の教室へ向かった。




