こいのたより9
めじろが厨への指示を終え広間の準備を命じてから戻ってきてみると、たぷんと音を立てた桶の横で屋敷の主が震えながら伏せていた。
「はぁ……!! ルリと、ルリとあのように沢山言葉を交わすなど……」
「ル゛リィ……」
しばらくぶるぶると震えていた布の山は起き上がると、懐紙に筆を走らせてはまた伏せている。書き散らした紙があちこちに散らばっていて、そのくさい歌の乗ったのを踏まないようにめじろは大きく跨ぎながら長持の方まで移動する。
「あぅ……この心を留めておけるような言葉が見つからぬ……しかし、筆を執らねば胸がはちきれんばかり……」
「主様、早くお召し替え下さいませ」
めじろは着替えを手に取って心を飛ばしたままの主を立たせ、素早く着物を解いていく。バチャバチャと煩い鯉の入った桶は縁側の方へと押しやって板を被せる。ゴンゴンと板を中から押し上げる力を感じるが、めじろが人差し指と中指を揃えて両端をとんとんと叩くと板は浮き上がらなくなった。
「鯉はここでのお作法を身につけるまで屋根の下へ入ってはいけません。めじろは汚いのは嫌いです」
「ルリィ!! エ゛サァ!!」
「……めじろはうるさいのも嫌いです」
ムッとして板を叩いていると、夢見心地といった主がフラフラと寄ってくる。
「鯉よ……そなたの気持ちがわかるぞ。ルリの気を惹けるのであれば、私はどんな姿にでも変化してしまうやも知れぬ……」
「ル゛リィ……ア゛……ルジィ……エ゛サァ……ク……クレ゛ェ……」
「そなたがもっと言葉に通じれば、ルリのことについて語らえるよき相手となるかもしれぬな」
「あっ」
めじろが止める暇もなく、主の手が蓋をされた桶に翳される。触れもしないのにかたんと板が容易く外れ、鯉が水面から口元を出した。
「ルー、リー、ア・ルジ・サマー、エサァ」
「もう! 主様、ご神力を直接注いではいけません! 現代ではそういうの、もう流行らないのですよ! どうするんですか、これが他の人間に見つかったりしたら!」
「ここから出ねば良いのであろう。鯉よ、姿を変えずに屋敷から出ずに過ごすのだぞ」
「アルジサマ、エサ、クレ」
「うむうむ」
平安の頃ならともかく、科学技術の現代で異端のものは受け入れられない。めじろ達も現し世へ下る時には人に性を知られぬよう心を砕いているというのに、まだ物事を知らぬものにいたずらに力を与えるとは。
めじろは溜息を吐いた。自ら力を振るうほど威光が回復しているのは喜ばしいことだが、ルリのことに関しては何をしでかすのかわからない。ルリがさほど欲のない人間であったことが救いである。
「もう……とにかく主様、早く広間へ行かれませ」
「エサァ、アルジサマ、クレ」
「うむうむ、暇のあるときは共に語らおうではないか。春の庭で月見でもしていれば、その、あるいはルリが来るかも知れぬし……そなたにはエサをやろうな」
「ルリ」
「そうだ、ルリだ、はぁ……ルリ……」
名を呟いては、またへなへなと今までの情景を思い返しては伏せるように懐紙に向かう。
主をさっさと昼餉の席へ蹴り出さねばならぬとめじろが思っていると、鯉がたぷんと水面を揺らし筆を執る主をじっと見つめた。そして主の力を浴びて言葉の滑りが良くなった口を開く。
「アルジ・サマ……クレ。ルリ、クレ」
「なぬ?!」
「ルリクレ」
「ななな……それだけはならぬ!」
「クレ。ルリ」
「ならぬぅ……!! そんな、そんな、わた、私でさえ……! ならん!!」
「ルリクレ」
「ダメだ!!」
やいやいと言い合いを始めた主をほっといて昼食を食べに行こうかと考え始めためじろだった。




