第69話 蜘蛛の巣の揺らぎとジャズの残響
東京の空は、今日も分厚い雲に覆われていた。湿度計の針は70%を超えているが、空調の効いた『グラン・エターナル麻布』のペントハウス内は、快適そのものだ。
「……ん~! 香ばしい! 今朝はフレンチ?」
リビングに現れたのは、滞在3日目となる母、西園寺ソフィアだ。
彼女は毎朝、まるで映画のワンシーンのように優雅に起床する。43歳という年齢を感じさせない、ハリウッド仕込みの美貌は、朝の光の中でより一層の輝きを放っていた。
「おはようございます、母さん。今朝は『ガレット・コンプレット』です」
「ガレット! ブルターニュの風ね! 素敵!」
続いて、姉の摩耶が欠伸を噛み殺しながら起きてくる。
「……おはよぉ。なんかおしゃれな匂いする……」
俺は焼きあがったばかりのガレットを皿に移した。
信州産の石臼挽きそば粉を使い、一晩寝かせた生地を高温の鉄板で薄く、パリッと焼き上げる。
中央にはグリュイエールチーズ、ハム、そして半熟の目玉焼き。
仕上げにブラックペッパーを散らし、有塩バターをひとかけら。
「どうぞ。熱いうちに」
「いただきまーす! ……ん! 生地がパリパリで中がモチモチ!」
「卵の黄身とチーズの相性が最高ね。……Leo, あなた本当に料理の才能があるわ。俳優を引退したらレストランを開きなさい」
母が冗談めかしてウインクする。
俺は苦笑しながら、自分の分のコーヒーを淹れた。
家族との穏やかな朝食。かつての人生では望むべくもなかったこの時間は、俺にとって何よりの活力源だ。
「今日はどうされるんですか?」
「私は午後から雑誌の取材よ。……摩耶は?」
「私は大学。……あーあ、ずっとここで美味しいもの食べて暮らしたい」
「ダメです。さあ、食べてください。送りますよ」
俺は二人を急かし、それぞれの日常へと送り出した。
2限目、芸術。
俺は授業をサボり、図書室の奥にある閲覧席にいた。
手元にあるのは、分厚いハードカバーの専門書。『インターネット・マーケティングの衝撃』。
1999年現在、世間では「ホームページを作れば客が来る」という牧歌的な認識が主流だ。だが、この本は既にその先、「One to Oneマーケティング」や「パーソナライゼーション」の重要性を説いている。
「……マスへの爆撃ではなく、個への狙撃。これからのビジネスは、顧客の『文脈』をいかに読むかが鍵になる」
俺は重要な箇所に付箋を貼りながら、思考を巡らせた。
昨日、渋谷の詐欺グループに撒いた500万円という「餌」。
あれは単なる金ではない。彼らの資金洗浄ルートと、背後にいる黒幕を炙り出すための「トレーサー」だ。
彼らがその金をどう動かすか。そのデータこそが、俺が欲している情報だ。
チャイムが鳴り、静寂が破られる。
俺は本を閉じ、鞄にしまった。
そろそろ、撒き餌の様子を見に行く時間だ。
午後。
俺は制服からラフな私服に着替え、渋谷のセンター街を歩いていた。
梅雨時の湿気と、若者たちの熱気が混ざり合い、独特の重たい空気が漂っている。
俺は、若者たちがたむろするゲームセンターやファストフード店を回り、何気ない会話に耳を傾けた。
「……マジ? 『ドリコネ』飛んだって?」
「なんかさー、ヤバい筋の金に手を出して、オーナーが逃げたらしいよ」
「うわ、俺3万払っちゃったよ……最悪」
成果は上々だ。
昨日俺が乗り込んだ『ドリーム・コネクト』は、早くも崩壊の兆しを見せている。俺が「出資」したという噂が、尾ひれをつけて「ヤバい筋の介入」という都市伝説に変わり、組織内部に疑心暗鬼を生んでいるようだ。
恐怖と不信感は、どんなウイルスよりも早く伝染する。
「……脆いものだ」
俺は路地裏の自販機で缶コーヒーを買い、一息ついた。
その時、視界の端に見覚えのある人影を見つけた。
ガードレールの影で、行き交う人々をじっと観察している女性。
柚木沙耶さんだ。
今日の彼女は、オーバーサイズの白シャツに黒のスキニーパンツ。シンプルだが、そのアンニュイな美貌は雑踏の中でも異彩を放っている。
「……柚木さん」
「……っ!? ……あら。社長さん」
声をかけると、彼女は驚いたように肩を震わせ、すぐにいつもの気だるげな笑みを浮かべた。
「奇遇ですね。こんなところで何を?」
「んー……『人間観察』? 心理学のレポートでね、集団心理のフィールドワーク中」
彼女は手元のノートをひらひらと振ってみせた。
だが、その瞳にはどこか影がある。
「……嘘ですね」
「え?」
「貴女の視線は、群衆ではなく『個』を探していました。……誰か、探している人がいるのでは?」
図星だったのか、沙耶さんはバツが悪そうに視線を逸らした。
「……相変わらず、可愛げがないわね。……ま、当たりよ」
彼女はため息をつき、煙草を取り出そうとして、俺の視線に気づいて手を止めた。
「……舞のことよ。最近、少し様子がおかしいの」
「舞が?」
「ええ。仕事は完璧なんだけど……ふとした瞬間に、すごく遠い目をしていることがあるの。……貴方、何か無理させてない?」
親友としての鋭い直感。
舞は俺の指示で、詐欺グループの資金ルートの解析を行っている。精神的に負荷のかかる作業だ。それを隠して気丈に振る舞っているのを、沙耶さんは感じ取ったのだろう。
「……ご心配には及びません。彼女には、適切な休息とケアを提供しています」
「……そう。ならいいけど」
沙耶さんは俺の目をじっと見つめ、ふっと力を抜いた。
「信じるわ。貴方がそう言うなら。……でも、もし舞を泣かせたら、私が許さないからね?」
「肝に銘じておきます」
彼女は「じゃあね」と手を振り、雑踏の中へと消えていった。
舞の友人であり、俺の「共犯者」予備軍。彼女の存在もまた、今後の鍵になるかもしれない。
帰宅後。
俺はリビングのソファに座り、あるモノと格闘していた。
『キャストパズル』。知恵の輪の一種だ。
複雑に絡み合った金属のパーツを、力ではなく論理的な手順で解きほぐす。
カチャ、カチャ……。
金属音が静かな部屋に響く。
この単純作業は、脳内のキャッシュをクリアし、思考を整理するのに最適だ。
詐欺グループの崩壊。
葛城玄斎の失脚。
そして、見え隠れする「黒幕」の影。
全ての事象は繋がっている。
このパズルのように、絡まった糸には必ず解法がある。
「……そこか」
カチャリ。
最後の一手が決まり、パズルが綺麗に分解された。
同時に、俺の思考もクリアになる。
その時、携帯電話が震えた。
着信画面には、表示圏外の文字。
だが、相手は分かっている。
『……やあ。西園寺くん。こんばんは』
スピーカーから聞こえるのは、人工的なまでに滑らかな声。
神宮寺レイだ。
「……何の用ですか、神宮寺さん」
『用件? ……ただの誘いだよ。君と、少し「大人の遊び」がしたくてね』
指定された場所は、西麻布の交差点近くにあるビルの地下だった。
看板もない重厚な扉を開けると、そこには洗練されたジャズが流れる会員制バーが広がっていた。
照明は極限まで落とされ、紫煙とアルコールの香りが漂う。
カウンターの奥に、神宮寺レイが座っていた。
完璧なスーツ姿に、手にはいつもの革手袋。グラスを傾ける仕草すら、計算された演技のように美しい。
「……未成年をこんな場所に呼び出すとは、感心しませんね」
俺は彼の隣に座り、バーテンダーにジンジャーエールを頼んだ。
「堅いことを言うなよ。ここは僕の隠れ家だ。誰にも邪魔されず、本音で話せる場所さ」
神宮寺は琥珀色の液体を揺らした。
「……単刀直入に聞こう。渋谷の詐欺グループを潰したのは、君だね?」
「何の証拠もありませんよ。彼らが自滅しただけです」
「ふふ。……500万円の出資。見事な撒き餌だ。君のおかげで、僕が追っていた『資金の流れ』も見えてきたよ」
彼は手袋をした指で、カウンターを軽く叩いた。
「……だがね、西園寺くん。君のやり方は『雑』だ。派手に壊せば、破片が飛び散る。その破片が、無関係な人間を傷つける可能性を考えないのか?」
「……最小限の犠牲で最大の利益を得る。それが僕のロジックです。……貴方の言う『無関係な人間』とは、貴方が飼っている情報屋のことですか?」
俺の指摘に、神宮寺の目がすっと細められた。
図星だ。あの詐欺グループの末端には、神宮寺の手駒も紛れ込んでいたのだ。
「……君は、本当に可愛げがないな」
「よく言われます」
神宮寺はグラスを置き、身体をこちらに向けた。
その瞳から、先ほどまでの演技めいた色が消え、冷徹な探偵の光が宿る。
「……いいだろう。君の実力は認める。だが、これだけは覚えておけ」
彼は手袋越しに、俺の肩に手を置いた。
「『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている』。……君が暴こうとしている闇は、君が思っている以上に深く、そして個人的なものだ。……巻き込まれて泣くのは、君の大切な『お人形』たちかもしれないよ?」
脅し。いや、忠告か。
「お人形」とは、舞やくるみたちのことだろう。
「……ご忠告、痛み入ります。ですが、僕の周りにいるのは人形ではありません。共に戦う『共犯者』です」
俺は彼の腕を払い除けることなく、静かに言い返した。
「それに、深淵なら見慣れています。……貴方よりも深く、長くね」
41年分の闇と、絶望を知る俺の言葉。
神宮寺は一瞬だけ虚を突かれたような顔をし、それから愉快そうに笑った。
「……ハハッ! 面白い。本当に、君は面白いよ西園寺くん」
彼は立ち上がり、会計を済ませた。
「今日は僕の奢りだ。……次は、事件現場で会おう」
彼は手を振り、店を出ていった。
残された俺は、ジンジャーエールの炭酸を見つめながら、小さく息を吐いた。
神宮寺レイ。
食えない男だ。だが、彼もまた、何か巨大な敵と戦っているのかもしれない。
敵か、味方か。
今の段階では判断がつかない。




