第68話 黄金の卵焼きと危険な蜜の味
梅雨前線が一時的に南下したのか、今日の東京は久しぶりに薄日が差していた。湿度を含んだ風が生暖かい。
通学中のハイヤーの静寂な車内。
俺は、シートに深く身を沈め、一冊の分厚い専門書に没頭していた。
先日、スポーツショップに併設された書店で購入した『バイオメカニクス-身体運動の科学的基礎-』だ。
41歳の精神を持つ俺にとって、15歳の肉体はまだ「操作しきれていない高性能マシン」のようなものだ。
成長期特有の骨格の変化、筋肉の付き方。それらを感覚ではなく物理法則として理解し、最適化するために、この手の専門書は欠かせない。
「……重心移動における床反力の活用。これが次のトレーニングの課題だな」
要点を手帳にメモし、本を閉じる。
知識を肉体に還元する。それもまた、自分自身への投資だ。
午前中の授業。3限目は化学だった。
担当教師は黒板に複雑な有機化合物の構造式を書き連ねながら、不意にチョークを止めて振り返った。
「……さて。このベンゼン環の置換反応において、配向性がオルト・パラ位になる理由を、電子密度の観点から説明できる者はいるか?」
高校化学の範囲を逸脱した、電子論に踏み込んだ問いだ。
クラス中が沈黙する中、教師の視線が俺に注がれる。
「西園寺。……いけるか?」
俺は静かに席を立った。
「はい。メチル基などの電子供与基が結合している場合、誘起効果によってベンゼン環の電子密度が増加します。特に共鳴効果によりオルト位とパラ位の電子密度が高くなるため、求電子置換反応はその位置で起こりやすくなります」
淀みない回答。教師は満足げに頷き、授業を再開した。
着席すると、斜め前の席から視線を感じた。桜木マナだ。彼女は俺を見て、にかっと嬉しそうに笑った。その笑顔には、以前のような翔太への遠慮や陰りは微塵もない。
昼休み。
俺は中庭のベンチに向かう途中、渡り廊下で花村結衣先輩と遭遇した。
今日の彼女は、夏服のブラウスの第一ボタンを開け、首元を団扇でパタパタと仰いでいる。
汗ばんだ白い肌と、無防備な胸元。健康的な色気は、すれ違う男子生徒たちの視線を釘付けにしていた。
「あ、西園寺くん! ヤッホー!」
俺を見つけると、彼女はパッと表情を輝かせて駆け寄ってきた。甘いバニラの香りがふわりと漂う。
「こんにちは、花村先輩。……暑そうですね」
「うん、もう蒸し蒸しして溶けちゃいそう~。……あ、そうだ! この前教えてくれた数学の公式、昨日の小テストで使えたよ! ほら!」
彼女はポケットからテスト用紙を取り出し、得意げに見せてきた。
点数は85点。以前の赤点ギリギリからすれば快挙だ。
「素晴らしい進歩ですね。先輩の努力の賜物です」
「えへへ、西園寺くんのおかげだよぉ。……あ、ご褒美にこれあげる!」
彼女は自分の鞄をごそごそと漁り、包み紙に入ったチロルチョコを俺の手のひらに乗せた。体温で少し溶けかかっている。
「……ありがとうございます。頂きますね」
「うん! ……あ、チャイム鳴っちゃう。またね、王子様!」
彼女は手を振り、ふわふわとした足取りで去っていった。
その無垢な笑顔に、俺の中の41歳のおっさん精神が癒やされていくのを感じる。
だが、今日の昼食は、もっと特別なものが待っていた。
教室に戻ると、自分の机の上に可愛らしい包みが置かれていた。
その横で、桜木マナが少し緊張した面持ちで立っている。
「……西園寺くん。これ」
「これは?」
「お弁当。……作ってきたの。昨日のリベンジも兼ねて、気合入れたから!」
先日の翔太への絶縁宣言の後、彼女は言っていた。「これからは、食べてほしい人のためだけに料理を作る」と。
その最初の相手に、俺が選ばれたということだ。
「……ありがとうございます。喜んで頂きますよ」
俺は包みを開けた。
曲げわっぱの弁当箱。蓋を開けると、色とりどりの料理が宝石箱のように詰められていた。
メインは鶏の照り焼き。副菜にきんぴらごぼう、ほうれん草の胡麻和え。そして中央には、鮮やかな黄色の卵焼きが鎮座している。
普段の俺の昼食は、購買のパンか、あるいは舞が手配したホテルのランチボックスだ。
こうした「家庭の味」に触れるのは、前世を含めても久しぶりかもしれない。
「いただきます」
まずは卵焼きを箸で摘む。
口に入れると、出汁の優しい香りと、ほのかな甘みが広がった。
ふわふわとした食感。焼きすぎず、生すぎず、絶妙な火加減だ。
「……!」
俺は思わず目を見開いた。
高級食材を使った料理ではない。だが、そこには明確な「計算」と「愛情」があった。
冷めても美味しいように味付けを濃いめにしつつ、出汁で水分を保たせている。
「……どう、かな? 甘すぎない?」
マナが不安そうに覗き込んでくる。
俺は箸を置き、彼女の目を真っ直ぐに見た。
「……美味しいです。驚きました」
「ほんと!?」
「ええ。高級料亭の出汁巻きとは違う、毎日食べても飽きない味だ。……心が、温かくなります」
俺は自然と頬が緩むのを感じた。
計算高いビジネスの世界で生きる俺にとって、この純粋な好意の塊は、何よりも得難い栄養素だ。
「……よかったぁ」
マナは安堵のため息をつき、それから恥ずかしそうに頬を染めた。
「……西園寺くん、そんな顔するんだね」
「そんな顔?」
「うん。……なんか、すごく幸せそうな顔。普段クールだから、反則だよ……」
彼女は照れ隠しのようにそっぽを向いたが、その耳まで赤くなっていた。
どうやら、無自覚のうちに彼女の母性本能を刺激してしまったらしい。
俺は残りの料理も、米粒一つ残さず完食した。
放課後。
俺はマナを伴い、渋谷のセンター街へと繰り出していた。
表向きは「デート」だが、俺には別の目的があった。
「ねえ西園寺くん、どこ行くの? カラオケ?」
「いえ、少し社会勉強をしましょう。……最近、学校で流行っている『おいしいバイト』の噂、知っていますか?」
「え? ……ああ、なんか携帯だけで月10万稼げるってやつ? 翔太も興味持ってたけど」
「それです。その実態を調査しに行きます」
俺たちが向かったのは、雑居ビルの一室にある怪しげな事務所だった。
看板には『有限会社ドリーム・コネクト』とある。
若者をターゲットにした、典型的な「内職商法」の拠点だ。
中に入ると、安っぽいパイプ椅子と長机が並べられ、数人の茶髪の若者が携帯電話を操作していた。
奥から、やけに愛想の良い男が出てくる。
「おっ、見学? 歓迎だよ! 君たちも携帯一つで夢掴んじゃおうよ!」
男の説明はこうだ。
まず登録料として3万円を払う。そして指定されたサイトにアクセスし、バナー広告をクリックしたり、チェーンメールを転送したりすれば、ポイントが貯まって現金化できる。
さらに、友達を紹介すれば紹介料が入る。
完全なマルチ商法、あるいはネズミ講の亜種だ。
マナが不安そうに俺の袖を掴む。
「……ねえ、これ怪しくない?」
「怪しいどころではありません。完全に黒です」
俺は小声で答え、男に向き直った。
「……システムは理解しました。ですが、登録料3万円では小規模すぎますね」
「え?」
俺は懐から封筒を取り出し、テーブルの上に放り投げた。
中から覗くのは、100万円の帯封が5つ。計500万円だ。
「……僕は投資家でしてね。君たちのビジネスモデルに可能性を感じた。この500万円を出資したい。……ただし、オーナーに直接会わせてくれるなら、ですが」
男の目が釘付けになる。
3万円を巻き上げるつもりが、目の前に500万円の札束が現れたのだ。思考が停止している。
「こ、これは……! し、少々お待ちください! 社長に確認を……!」
男は慌てて奥の部屋へと駆け込んでいった。
この金は、俺の資産310億円からすれば端金だ。だが、この組織の全貌を暴き、彼らが溜め込んでいる顧客名簿と金の流れを掴むための「撒き餌」としては十分すぎる。
「……西園寺くん、本気なの?」
「まさか。これは釣り針です。……この金を受け取った瞬間、彼らは詐欺罪だけでなく、出資法違反の証拠も残すことになる」
数分後、奥から脂ぎった中年男が現れた。
俺は口角を上げ、獲物を見る目で彼を迎えた。
この組織、根こそぎ解体し、被害に遭った生徒たちの金を回収する。それが今日のエクササイズだ。
「おいしいバイト」の調査を終え、マナを安全に帰宅させた後、俺は麻布の自宅へと戻った。
時刻は19時。
リビングには、一昨日から滞在している母・ソフィアと、姉の摩耶がいるはずだ。
「ただいま」
「おかえりなさーい! ……遅いじゃない、お腹ペコペコよ!」
姉がソファから飛び起きた。母も優雅に手を振っている。
二人のために、今夜はとびきりの和食を用意する。
メニューは『最高級のアジの干物』『極上肉じゃが』『大粒納豆』そして『味噌汁』。
一見、ありふれた家庭料理だ。
だが、俺が作るのは次元が違う。
まずは干物。
沼津の老舗干物店から取り寄せた、脂の乗った真鯵。
これを、備長炭を入れた無煙ロースターでじっくりと焼き上げる。
皮はパリッと、身はふっくらと。滴り落ちる脂が炭で燻され、極上の香りを纏う。
次に肉じゃが。
使うのは松阪牛の切り落としと、北海道産の『キタアカリ』というジャガイモだ。
水を一切使わず、酒と醤油、そして玉ねぎの水分だけで煮込む「無水調理」。
砂糖の代わりに本みりんを使い、上品で奥深い甘みを出す。
煮崩れる寸前で火を止め、一度冷ますことで味を染み込ませる。
納豆は、茨城の職人が藁で発酵させた大粒の『黒豆納豆』。
付属のタレではなく、生醤油と和辛子、そしてたっぷりの九条ネギを混ぜ合わせる。
味噌汁は、信州の三年熟成味噌と、八丁味噌の合わせ技。
具材はシンプルに豆腐とわかめだが、出汁は本枯節と利尻昆布で引いた一番出汁だ。
合わせる酒は、福井の銘酒『黒龍 石田屋』。
皇室献上品としても知られる、純米大吟醸の最高峰だ。
「……お待たせしました」
食卓に料理を並べると、湯気と共に懐かしい和の香りが広がった。
「わあ……! 干物が光ってる!」
「Wonderful! 日本の家庭料理ね! 食べたかったのよ!」
「いただきます」
三人で手を合わせる。
姉が肉じゃがを一口食べ、目を丸くした。
「……んんっ! 何これ! ジャガイモが栗みたいに甘い! お肉トロトロ!」
「干物も凄いわ。……身がフワフワで、脂が甘いの。これぞJapanese Soul Foodね」
母も箸が止まらない。
そこに『黒龍』を一口。
フルーティーで洗練された味わいが、醤油や味噌の塩気と完璧に調和し、口の中を浄化していく。
「……美味しい。本当に、美味しいわ」
母がふと、真面目な顔で呟いた。
「Leo, あなたと一緒にいると、何気ない食事が全部、特別な思い出になるわね」
「……ただの自己満足ですよ。母さんと姉さんに、美味いものを食べてほしいだけです」
「それが嬉しいのよ。……ありがとう、私の自慢の息子」
母の言葉に、胸の奥が温かくなる。
41歳の記憶を持つ俺にとって、かつて失った家族との時間を取り戻すことこそが、この人生の最大のミッションなのかもしれない。
食後。
俺たちはリビングで、あのアジの干物の骨を誰が一番綺麗に残せるか、という他愛のない話題で笑い合った。
窓の外には東京タワーの灯り。
平和で、贅沢な夜が更けていく。




