第47話 ボンゴレの誘惑と姉弟の食卓
第47話 ボンゴレの誘惑と姉弟の食卓
中間試験の結果が全て返却され、悲喜こもごもの喧騒が落ち着きを取り戻した水曜日。
昼休み。俺は、中庭のベンチでサンドイッチを食べていた。
初夏の陽気が心地よい。
そこへ、小走りで近づいてくる女子生徒がいた。
桜木マナだ。
ショートボブの黒髪が弾み、健康的な頬が上気している。
制服の着こなしは少しラフだが、それが彼女の親しみやすさと、本来持っている明るさを引き立てている。
翔太との一件以来、彼女の瞳からは迷いが消え、自分の意思で未来を見据える強さが宿っている。
「あ、西園寺くん! ここにいたんだ」
「こんにちは、桜木さん。何かありましたか?」
「うん、聞いてほしくて! ……私ね、アルバイト始めたの!」
彼女は嬉しそうに報告した。
「実家のお店の手伝いとは別に?」
「うん。駅前のカフェでウェイトレス募集してたから、応募してみたの。そしたら即採用で! ……今度の日曜から働くことになったんだ」
マナは目を輝かせた。
実家の洋食屋だけでなく、外の世界で自分の力を試してみたいという欲求。
それは、翔太という狭い世界から抜け出した彼女が、本当の意味で自立しようとしている証だ。
接客業は、社会の理不尽さを学ぶ良い機会でもある。
「素晴らしいですね。桜木さんの明るさと気配りなら、きっと人気店員になれますよ」
「えへへ、そうかなぁ。……でも、なんかドキドキする。自分のお金で欲しいもの買えるようになるし、世界が広がる気がして」
彼女は両手を組み、空を見上げた。
その横顔は、希望に満ちていた。
かつて翔太の顔色ばかりを窺っていた少女は、もうどこにもいない。
「初給料が出たら、西園寺くんになんか奢るね! 相談に乗ってもらったお礼!」
「楽しみにしています。……ですが、学業との両立は無理のないように」
「分かってるって! 私、これでも成績上がったんだから!」
マナはニッと笑い、予鈴が鳴ると共に教室へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は彼女の成長を眩しく感じていた。
放課後。
移動教室のため渡り廊下を歩いていると、向こうからふわふわとした足取りで歩いてくる女子生徒とすれ違った。
花村結衣先輩だ。
あどけなさと健康的な色気が同居した奇跡のバランス。
艶やかな黒髪を春風に揺らし、少しサイズの合っていないブラウスを着ている。
彼女は俺を見つけると、パァッと花が咲くような笑顔で手を振ってきた。
「あ! 西園寺くんだぁ! ヤッホー!」
「こんにちは、花村先輩。……ご機嫌ですね」
「うん! だって今日の調理実習、クッキーだったんだもん。美味しく焼けたんだよ~」
彼女は無邪気に距離を詰めてくる。
甘いバニラの香り。それは香水ではなく、彼女自身から発せられるものかもしれない。
この無防備すぎる距離感は、思春期の男子生徒を勘違いさせるには十分すぎる破壊力を持っているが、彼女自身にその自覚は皆無だ。
「それは何よりです。……霧島先輩も一緒でしたか?」
「うん! セイラちゃんね、お菓子作り苦手みたいで、粉まみれになってたの。可愛かったなぁ~」
結衣先輩はクスクスと笑った。
あの「氷の女王」が粉まみれになって悪戦苦闘している姿。想像するだけで微笑ましい。
結衣先輩の前でだけは、セイラ先輩もただの不器用な少女に戻れるのだろう。
「西園寺くんにもあげたかったんだけど、隼人くんたちに全部食べられちゃったの。ごめんね?」
「気にしないでください。先輩の笑顔だけで十分ですよ」
「え~? また王子様みたいなこと言う~。……じゃあ今度、西園寺くんのためだけに作ってきてあげるね!」
彼女は悪戯っぽくウインクし、「またね!」と手を振って去っていった。
その甘い余韻に、俺の41歳の理性が少しだけ揺さぶられたのは秘密だ。
学校を出て、俺は城戸隼人と合流した。
今日は彼に付き合って、渋谷のゲームセンターへ行く約束をしていた。
テスト明けの息抜きだ。
「よっしゃ西園寺! 今日こそ格ゲーでリベンジしてやるからな!」
「望むところだ。だが、返り討ちにする」
俺たちはセンター街にある大型ゲーセンに入った。
電子音と熱気が渦巻く店内。
格闘ゲームの筐体を挟んで向かい合う。
隼人の反射神経は鋭いが、読みが直線的だ。俺は経験値と心理戦で彼を翻弄し、完勝した。
「くっそー! なんで勝てねぇんだよ! お前、絶対未来予知とか使ってるだろ!」
「ただの行動予測だ。……ジュース、ご馳走様」
「へいへい。……ったく、可愛くねー奴」
隼人は悔しがりながらも、約束通りコーラを買ってきた。
炭酸を飲みながら、俺たちは他愛のない話で盛り上がった。
彼との時間は、ビジネスの緊張感から解放される貴重なリセットタイムだ。
ゲーセンを出て、駅の方へ戻ろうとした時だった。
センター街の人混みの中に、見覚えのある小柄な男子生徒の姿を見つけた。
草野健太だ。
彼は何やら必死な形相で、携帯電話を操作しながらキョロキョロしている。
「……草野?」
俺が声をかけると、彼はビクリとして振り返った。
「あ、西園寺! ……と、城戸も」
「何してるんだ、こんなところで。挙動不審だぞ」
「い、いや! ちょ、ちょっとリサーチっていうか……」
草野は言葉を濁したが、その手にある携帯の画面には、俺が立ち上げたばかりの着メロサイトが表示されていた。
どうやら、彼なりにサイトの宣伝活動を行っていたらしい。
あるいは、掲示板に書き込みでもしていたのか。
「……熱心だな。だが、歩きスマホ……いや、歩き携帯は危ないぞ」
「う、うん。ごめん。……でもさ、このサイトマジで凄いよ! クラスの女子もみんな使ってるし!」
草野は興奮気味に言った。
彼の純粋な熱意は、時に狂信的だが、初期のユーザーとしてはありがたい存在だ。
「そうか。……なら、これからも頼むよ」
「お、おう! 任せとけ! 俺、西園寺の……いや、このサイトの宣伝部長だからな!」
草野は胸を張った。
隼人が「なんだそりゃ」と笑っている。
彼らのような「普通の高校生」が熱中するものこそが、次の時代を作るのだ。
隼人と別れ、帰路につこうとした時、携帯電話が鳴った。
姉の摩耶からだ。
『もしもし玲央? 今どこ?』
「渋谷ですが。……どうかしましたか?」
『あのね、今日バイトが早く終わったの。で、お腹空いたなーって思って』
「……つまり、飯を作れと?」
『正解! さすが我が弟! ……今からそっち行くから、よろしくね!』
一方的に通話が切れた。
やれやれ。俺の部屋はいつから姉の食堂になったのか。
だが、拒否する理由もない。
一人での食事よりは、誰かと囲む食卓の方が美味いのは事実だ。
俺は予定を変更し、東急本店のデパ地下へと向かった。
今日の夕食は、イタリアンにしよう。
姉が好む、シンプルだが素材の味が活きるメニュー。
鮮魚コーナーで、愛知県産の大粒あさりを見つけた。
殻の模様が鮮やかで、身が詰まっている。
これをメインにする。
『ボンゴレビアンコ』だ。
あさりの出汁を存分に味わうなら、トマトソースではなく白ワインベースに限る。
さらに、青果コーナーで完熟のフルーツトマトと、チーズ専門店でイタリア産の水牛モッツァレラを購入。
フレッシュバジルの束も忘れずに。
前菜の『カプレーゼ』にする。
ワインセラーでは、イタリア・ヴェネト州の白ワイン『ソアーヴェ・クラシコ』を選んだ。
ガルガーネガ種特有のフレッシュな酸味と、微かなアーモンドの香りが、魚介やフレッシュチーズとの相性抜群だ。
1997年ヴィンテージの、少し熟成感のあるものをチョイス。
両手に食材を抱え、俺はタクシーで帰宅した。
マンションのエントランスで、ちょうど到着した姉と合流する。
今日の姉は、大学帰りらしくトレンチコートを着ているが、その下はシンプルなニットとデニムだ。
キュートなショートボブと整った顔立ち。
黙っていれば深窓の令嬢に見えるのだが、コンビニ袋からスルメを取り出そうとしている時点で台無しだ。
「お帰り、玲央! ……うわ、いい匂い! 何持ってるの?」
「食材ですよ。……姉さん、そのスルメはしまってください。イタリアンの前菜には合いません」
「えー、美味しいのに」
俺たちはエレベーターに乗り込んだ。
帰宅後、すぐに調理に取り掛かる。
まずはカプレーゼから。
フルーツトマトをスライスし、手でちぎったモッツァレラチーズと交互に並べる。
塩、ブラックペッパーを振り、最高級のエキストラバージンオリーブオイルをたっぷりと回しかける。
最後にバジルの葉を散らせば、イタリア国旗のような鮮やかなトリコローレが完成する。
シンプルだからこそ、素材の質が問われる一皿だ。
次に、ボンゴレビアンコ。
あさりは砂抜き済みだが、殻をこすり合わせて洗い、汚れを落とす。
パスタを茹で始める。塩分濃度は1.5%。茹で時間は表示より1分短く。
フライパンにオリーブオイルと潰したニンニク、唐辛子を入れ、弱火でじっくり香りを出す。
香りが立ったところで火を強め、あさりを投入し、白ワインを回しかけて蓋をする。
数分後、カチッ、カチッという殻が開く音が次々と響く。
蓋を開けると、芳醇な磯の香りがキッチンいっぱいに爆発的に広がった。
あさりを一度取り出し、残った煮汁にパスタの茹で汁を加えてフライパンを揺する。
ここが最重要ポイントだ。「乳化」。
油と水分を完全に一体化させ、とろみのある白濁したソースを作る。
そこにパスタとあさりを戻し入れ、強火で煽る。
ソースを麺に吸わせるように絡め、イタリアンパセリを散らせば、完成だ。
ダイニングテーブルに料理を並べる。
黄金色のソースを纏ったパスタ。
赤と白と緑のコントラストが美しいカプレーゼ。
そして、よく冷えたソアーヴェをグラスに注ぐ。
「いただきます」
姉が待ちきれない様子でフォークを伸ばす。
まずはカプレーゼから。
トマトの濃厚な甘みと酸味、モッツァレラのミルキーなコク、そしてバジルの香りが口の中で一体となる。
オリーブオイルの青い香りが全体をまとめている。
「ん~! 美味しい! このトマト、フルーツみたい!」
「糖度12度の最高級品ですからね」
そして、ボンゴレビアンコ。
あさりの濃厚な出汁とニンニクのパンチ、白ワインの風味が渾然一体となり、パスタに絡みつく。
乳化したソースは舌触りが滑らかで、店で食べる味を凌駕している。
そこにソアーヴェを流し込む。
キリッとした酸味が、口の中の油分をさっぱりと洗い流し、次の一口を誘う。
完璧なマリアージュだ。
「……はぁ。幸せ。玲央の手料理食べてる時が一番生きてるって感じするわ」
「大袈裟ですね。……大学の方はどうですか?」
「んー、ぼちぼち。サークルの新歓とかうるさいけど、適当にかわしてるわ。……あ、そういえば」
姉はパスタを巻き取りながら、思い出したように言った。
「涼が言ってたわよ。『ボンが最近、なんかカッコよくなっててムカつく』って」
「……ムカつく、ですか」
「照れ隠しよ。……あの子、教師目指して頑張ってるみたいだし、玲央が良い刺激になってるみたいね」
姉は嬉しそうに微笑んだ。
友人の成長を喜ぶ、純粋な笑顔。
俺もつられて口元を緩めた。
「彼女には才能がありますよ。人の痛みを知る教師になれる」
「ふふ、あんたが言うと説得力あるわね。……あ、ワインおかわり!」
姉との食事は、いつも賑やかで、そして温かい。
ビジネスの戦場から離れ、ただの「弟」に戻れる時間。
それは、何物にも代えがたい安らぎだ。
食事が終わり、姉を見送った後。
俺は片付けを済ませ、静かになったリビングで一人、グラスを傾けた。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
マナの自立、結衣先輩の笑顔、隼人や草野との日常、そして涼さんの夢。
俺の周りの世界は、少しずつ、しかし確実に良い方向へと回り始めている。
その中心にいるのが自分であるという事実に、心地よい重みを感じながら、俺はソアーヴェの残りを飲み干した。




