第42話 失敗の本質と深紅のトマト煮込み
中間試験の結果が発表される昼休み、桜花学園の掲示板前は、歓喜と悲鳴が交錯する一種の戦場と化していた。
生徒たちが押し合いへし合いしながら自分の順位を確認する喧騒から少し離れた場所で、俺は静かにその光景を眺めていた。
「……あった。1位、西園寺玲央」
予想通りの結果だ。
俺は小さく息を吐き、ポケットから手帳を取り出して記録する。全科目満点に近いスコア。現代文と古文でわずかに教師の主観による減点があったかもしれないが、許容範囲内だ。
かつての人生で培った知識と、この数ヶ月の効率的な学習メソッドがあれば、高校1年生のカリキュラムを制圧することは造作もない。これは「天才」だからではなく、単なる「リソース配分の最適化」の結果に過ぎない。
「西園寺くん!」
背後から、春の陽射しを弾いたような明るい声が聞こえた。
振り返ると、そこには桜木マナが立っていた。
かつて日向翔太の影に隠れ、常に怯えたような表情を浮かべていた少女の面影は、もうどこにもない。
肩まであった髪を少し軽くし、ふわりとしたシルエットに整えている。制服の着こなしも乱れはなく、清潔感がありながらも、彼女自身の柔らかい雰囲気を引き立てていた。
その大きな瞳は意思を持って輝き、頬は健康的な薔薇色に染まっている。廊下を行き交う男子生徒たちが、すれ違いざまに思わず彼女を目で追うのも無理はない。紛れもない「美少女」としての輝きを、彼女は取り戻しつつあった。
「桜木さん。結果はどうだった?」
「うん! 30番以内に入れたよ。西園寺くんが教えてくれた『優先順位付け』のおかげかな。本当にありがとう」
マナは胸の前で小さく手を合わせ、花が咲くような笑顔を見せた。
媚びるわけでもなく、卑下するわけでもない、等身大の自信。
以前の彼女なら、「私なんて」と口癖のように言っていたはずだ。
「それは君自身の努力の成果だよ。俺はただ、少し背中を押したに過ぎない」
「ううん、それだけじゃないの。……私、やっと自分の足で立てている気がする。勉強も、家の手伝いも、全部自分のためにやってるんだって思えるようになったから」
彼女は少し照れくさそうに視線を落とし、それから真っ直ぐに俺を見つめ返した。
「西園寺くん、1位おめでとう。やっぱり凄いね」
「ありがとう。君にそう言ってもらえると嬉しいよ」
俺は柔らかな微笑みで応じた。
翔太という「重石」から解放された彼女は、これほどまでに魅力的になるのか。人間の成長と変化の早さに、俺は純粋な感銘を覚えた。
彼女と二言三言、他愛のない世間話を交わす。
「カフェの新メニュー開発が楽しい」「最近読んだ本が面白かった」――そんな些細な会話の中に、彼女の充実した日々が透けて見えた。
チャイムが鳴り、生徒たちが教室へ戻り始める。
「じゃあ、また後でね」と手を振って去っていくマナの後ろ姿を見送りながら、俺はふと、自身のビジネスへと意識を切り替えた。
彼女が自分の足で立ち上がったように、俺もまた、次のステージへと足を踏み入れなければならない。
放課後、俺は帰宅の途につきながら、脳内で新たな事業計画のシミュレーションを行っていた。
着メロ事業、ECサイト、サーバーレンタル。これらは順調にキャッシュを生み出す「なる木」へと成長しつつある。
だが、俺が目指しているのは、ITバブル崩壊後の世界をも支配する盤石な資産基盤だ。
そのために必要な次の一手。
それは、「外国為替証拠金取引」のプラットフォーム構築である。
1999年5月現在、日本国内における個人向けFX取引は、黎明期というよりも「無法地帯」に近い状態にあった。
前年、1998年の外為法改正により、個人でも自由に為替取引ができるようになったばかりだ。しかし、インターネットを通じてリアルタイムに取引ができる環境は皆無に等しい。
電話注文が主流であり、スプレッドは異常なほど広い。ドル円で5銭から10銭、場合によってはそれ以上抜かれることも珍しくない。
さらに、約定の透明性も低く、業者が顧客の注文を呑むことも横行していた。
「……まさに、歪な市場だ」
車窓を流れる東京の街並みを眺めながら、俺は独りごちた。
この非効率性こそが、莫大な利益の源泉となる。
俺が構想するのは、完全オンライン完結型のFX取引プラットフォームだ。
リアルタイムのレート配信、ワンクリック注文、そして圧倒的に狭いスプレッドの提供。
既存の電話注文業者が暴利を貪っている間に、テクノロジーの力で「薄利多売」かつ「透明性」の高いシステムを構築すれば、顧客は雪崩を打って流入するだろう。
もちろん、リスクはある。サーバーの負荷、カバー取引のシステム構築、金融庁との折衝。
だが、俺には「未来の知識」がある。
これから数年で、日本の個人投資家が世界の為替市場で無視できない勢力になることを、俺は知っている。
円キャリートレードの隆盛、レバレッジ規制前の狂乱、そしてリーマンショック。
そのすべての相場の波において、プレイヤーとしてではなく、プラットフォーマーとして君臨すること。
それこそが、最も確実に、かつ永続的に富を築く方法なのだ。
「舞、帰宅後に少し通話できるか? 新規プロジェクトの仕様書を送る」
携帯電話を取り出し、短くメールを打つ。
彼女なら、俺の意図を即座に理解し、最適なエンジニアチームを編成してくれるはずだ。
システム開発には数ヶ月かかるだろう。2000年のITバブル絶頂期にリリースし、バブル崩壊で株式市場から逃げ出した資金を、為替市場へと誘導する。
完璧なシナリオだ。
ビジネスモードの思考を一時中断し、俺は表参道の高級スーパーマーケットへと足を運んだ。
今日は金曜日。一週間の戦いを終え、自分自身を労うための儀式が必要だ。
スーパーの自動ドアが開くと、冷気と共に新鮮な食材の香りが漂ってくる。
この瞬間が好きだ。数字と論理の世界から、五感と本能の世界へと回帰するスイッチが入る。
今日のテーマは「深紅」だ。
精肉コーナーへ向かい、ショーケースの中を吟味する。
俺の目に留まったのは、秋田県産の比内地鶏。
弾力のある肉質と、噛むほどに溢れ出す濃厚な旨味。ブロイラーとは次元の違う、生命力に満ちた肉だ。
「このもも肉を2枚。あと、手羽元も5本ほど」
白衣を着た初老の店員に声をかけると、彼は「お目が高い」とばかりに愛想よく包んでくれた。
続いて青果コーナーへ。
完熟したトマト、瑞々しいブロッコリー、そして香りの良いイタリアンパセリ。
最後に酒類コーナーで、1995年ヴィンテージのボルドー赤ワイン『シャトー・ランシュ・バージュ』をカゴに入れた。
まだ若いが、力強いタンニンと果実味は、トマト煮込みの酸味と脂を受け止めるのに相応しいだろう。
帰宅後、俺は制服からリラックスウェアに着替え、キッチンに立った。
BGMにはビル・エヴァンスのピアノを流し、ワインの栓を抜いてデキャンタージュしておく。
調理開始だ。
まずは比内地鶏に強めの塩胡椒を振り、少し置いておく。その間に、ニンニクを包丁の腹で潰し、厚手の鉄鍋にオリーブオイルと共に熱する。
オイルが揺らぎ、香ばしい香りが立ち上ってきたところで、鶏肉を皮目から投入する。
ジュッ、という小気味よい音が、静かな部屋に響き渡る。
動かしてはいけない。皮に含まれる脂が溶け出し、メイラード反応によって黄金色の焼き色がつくまで、じっと待つ。この我慢が、仕上がりの香ばしさを決定づけるのだ。
皮がパリッと焼けたら裏返し、身の表面を焼き固める。一度肉を取り出し、その鍋に残った鶏の脂で、刻んだ玉ねぎとセロリを飴色になるまで炒める。
野菜の甘い香りが立ってきたら肉を戻し、ホールトマトを手で潰しながら加える。
赤ワインを惜しみなく注ぎ、ローリエとタイムを放り込んで蓋をする。
あとは弱火で40分。時間の魔法に委ねるだけだ。
その間に、付け合わせのバターライスを作る。
研いだ米に、水ではなくチキンブイヨンを加え、バターをひとかけら落として炊飯器へ。
ブロッコリーは小房に分け、塩茹でするのではなく、少量の水とオリーブオイルで蒸し煮にする。こうすることで、栄養も旨味も逃げず、色鮮やかに仕上がる。
やがて、部屋中に濃厚で芳醇な香りが充満した。
鍋の蓋を開けると、煮詰まって艶やかになった深紅のソースの中に、ふっくらとした鶏肉が鎮座している。
皿にバターライスを盛り、その横に鶏肉のトマト煮込みをたっぷりとかける。鮮やかな緑のブロッコリーを添えれば、完成だ。
ダイニングテーブルにつき、グラスに注いだ赤ワインを一口含む。
黒スグリやシダーの香りが鼻腔をくすぐり、滑らかな液体が喉を潤す。
そして、熱々の鶏肉を口へ運ぶ。
ホロリと崩れる柔らかさの中に、比内地鶏特有の弾力が残っている。トマトの酸味、炒めた野菜の甘み、そして鶏の脂のコクが渾然一体となり、バターライスの芳醇な香りと混ざり合う。
「……美味い」
思わず独り言が漏れる。
店で食べる料理も悪くないが、自分の好みを完璧に反映させた料理には、他では得られない充足感がある。
誰に見せるわけでもない、自分だけの贅沢な時間。
この孤独こそが、俺にとって最高のスパイスだった。
食事を終え、エスプレッソを片手にリビングのソファへ深く沈み込む。
サイドテーブルには、図書館で借り、延長手続きをしていた一冊の本が置かれている。
『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』。
1984年に出版されたこの名著は、大東亜戦争における日本軍の敗因を、組織論的なアプローチから分析したものだ。
ページを捲る。
そこには、現代の日本企業、ひいては今の学校教育にも通じる病理が克明に記されていた。
情報の軽視、現場軽視の作戦立案、あやふやな目的設定、そして何より「過去の成功体験への過剰適応」。
日露戦争での勝利体験に固執し、白兵銃剣主義から脱却できなかった日本陸軍。
大艦巨砲主義の幻影を追い続け、航空戦力への転換が遅れた日本海軍。
「環境の変化に適応できない組織は、必ず滅びる」
俺は本を閉じ、天井を見上げた。
これは決して過去の話ではない。
今、俺が戦っている相手――旧態依然とした教育システム、年功序列に胡座をかく大企業、そして既得権益にしがみつく金融業界――もまた、同じ病に侵されている。
彼らは変化を恐れ、前例踏襲を「正義」と信じ込んでいる。
だからこそ、俺のような「異分子」が付け入る隙があるのだ。
彼らが組織の論理で動くなら、俺は個の論理で動く。
彼らが過去の成功体験にしがみつくなら、俺は未来の確定事項を利用する。
FX事業もそうだ。既存の証券会社が「対面営業」という過去の遺物に固執している間に、俺はネットという空爆で彼らの陣地を焼き尽くす。
「……負ける気がしないな」
口元に薄い笑みが浮かぶ。
それは傲慢さからではない。歴史という教科書が、俺の勝利を保証してくれているからだ。




