第36話 解放のベルと美しき嘘の物語
第36話 解放のベルと美しき嘘の物語
一学期中間試験、最終日。
窓の外は初夏を思わせる陽光が降り注ぎ、校庭の緑が鮮やかに輝いている。
最後の科目は『数学Ⅰ』。
多くの1年生にとって鬼門となるこの科目が、試験期間のラストを飾るボスとして立ちはだかっていた。
教室には、鉛筆が紙を走る音だけが響いている。
俺は、最後の計算式を書き終え、ペンを置いた。
二次関数、三角比。
設問の意図を汲み取り、最短の手順で解を導き出すプロセスは、複雑な経済指標を読み解く作業に比べればシンプルで美しい。
見直しを含めても時間は余る。
俺は窓の外を眺めながら、今後のスケジュールを脳内で整理した。
試験が終われば、いよいよモバイルECサイトのプレオープン準備が本格化する。
サーバーの負荷テスト、決済システムの最終確認、そしてプロモーション戦略の実行。
学生としての「休暇」は終わり、ビジネスマンとしての「戦場」が待っている。
キーンコーンカーンコーン……。
終了のチャイムが鳴り響く。
その瞬間、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
「終わったぁぁぁーー!!」
「死んだ! 絶対死んだ! 因数分解とか意味わかんねー!」
「カラオケ行こうぜ! 歌いまくって忘れるぞ!」
教室中が歓声と絶叫に包まれる。
解放感。
それは、重い鎧を脱ぎ捨てたような軽やかさだ。
隣の席の城戸隼人が、机に突っ伏したまま親指を立てた。
「……生きてるか、城戸」
「おう……。ギリギリな。……でも、西園寺に教えてもらったとこ、出たわ。マジ感謝」
「それは良かった。赤点は回避できそうか?」
「たぶんな! ……あー、これでやっと部活に行けるぜ!」
隼人はガバリと起き上がり、ニカッと笑った。
その笑顔には一点の曇りもない。
鷹森がいなくなったグラウンドで、彼は思う存分走ることができるのだ。
前方では、桜木マナが高城藍と手を取り合って喜んでいる。
日向翔太が「なぁマナ、答え合わせしようぜ!」と近寄ろうとしたが、藍に鋭い視線で射抜かれ、すごすごと退散していった。
クラスの力学も変わりつつある。
俺は鞄を手に取り、騒がしくも平和な教室を後にした。
放課後。
俺は学校を離れ、有栖川宮記念公園へと足を運んだ。
新緑の木漏れ日が心地よい遊歩道を歩く。
待ち合わせをしていたわけではない。
だが、ここに来れば彼女がいるような気がした。
池のほとりのベンチ。
キャップを目深に被り、文庫本を読んでいる少女の姿があった。
天童くるみだ。
変装していても、その華奢なシルエットと、隠しきれないオーラですぐに分かる。
俺が近づくと、彼女は気配に気づいて顔を上げた。
大きなサングラスの下から、整った唇が綻ぶ。
「……やっぱり。来ると思った」
「こんにちは、くるみさん。……予知能力でも?」
「勘よ、勘。……試験、お疲れ様」
彼女は本を閉じ、隣をポンと叩いた。
俺は失礼して腰を下ろした。
風が吹くと、彼女の甘いシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。
至近距離で見ると、その肌のきめ細かさと、人形のような顔立ちの完成度に改めて息を呑む。
1999年のアイドル界を牽引する美少女。
その彼女が、今は無防備な表情で俺の隣にいる。
「くるみさんは、お仕事は?」
「夕方からレッスン。それまでちょっと時間潰し。……ねえ、これ読んでたんだけどさ」
彼女が差し出したのは、俺が以前勧めた本だった。
トマス・J・スタンリー著『となりの億万長者』。
「難しかった?」
「ううん、面白かった! ……でも、すごく意外だった」
「意外?」
「うん。だってお金持ちって、高級車乗り回して、高い服着て、毎日パーティしてると思ってたから。……でも、本物は違うんだね」
彼女は感慨深げに本の表紙を撫でた。
「質素に暮らして、収入より支出を抑える人が本当の資産家になる……か。芸能界にいるとさ、稼いだ分だけ派手に使うのが『成功』だと思っちゃうけど、それじゃダメなんだね」
「ええ。それは資産家ではなく、ただの『浪費家』ですからね。見栄を張るための消費は、心を貧しくします」
「だよね。……あたし、決めた。ちゃんと貯金して、投資して、『蓄財優等生』になる!」
彼女は頬を膨らませて宣言した。
18歳にしてその感覚を持てたことは、大きな財産だ。
華やかな芸能界という、最も金銭感覚が狂いやすい場所に身を置く彼女だからこそ、この本の真理は切実に響いたのかもしれない。
「素晴らしい心がけです。……君なら、経済的にも自立した強い女性になれますよ」
「……そっか。レオに言われると、自信つくわ」
彼女はサングラスをずらし、悪戯っぽくウインクした。
その瞳は、強い意志の光を宿している。
「あ、そうだ。……今度のCM撮影の日、差し入れ持ってきてよ」
「おや、オーナーへの要求ですか?」
「違うよ。……『友達』へのお願い。レオが来てくれたら、あたしもっと頑張れる気がするから」
少し照れくさそうに言う彼女に、俺は微笑んだ。
「分かりました。最高級のスイーツを用意して駆けつけます」
「やった! ……約束だからね!」
彼女は嬉しそうに笑い、時計を見た。
「やば、もうこんな時間! ……行かなきゃ」
くるみさんは慌てて立ち上がり、キャップを被り直した。
「じゃあね、レオ! 試験お疲れ!」
手を振って走り去る彼女の背中。
その軽やかさは、彼女の心の迷いが晴れたことを物語っていた。
俺は彼女が見えなくなるまで見送り、公園を後にした。
帰宅後。
試験の疲れを癒やすため、少し仮眠を取ろうかと思っていた矢先、インターホンが鳴った。
モニターを確認するまでもない。
このタイミングでアポ無しで来る人物は一人しかいない。
「……はい」
「玲央! 開けて! ビールがぬるくなっちゃう!」
ドアを開けると、両手にスーパーの袋を提げた姉が立っていた。
今日の姉は、休日の私服なのか、ラフなデニムに白シャツという格好だが、髪を振り乱して必死な形相だ。
黙っていれば深窓の令嬢に見える美貌が、生活感で台無しになっている。
ある意味、芸術的ですらある。
「……姉さん。試験が終わった日くらい、静かに過ごさせてくれませんか」
「何言ってんの! 試験お疲れ様会よ! 弟の労をねぎらう優しいお姉ちゃんに感謝しなさい!」
姉は強引に上がり込み、キッチンへ直行した。
冷蔵庫にビールを放り込み、買ってきた惣菜をテーブルに広げる。
唐揚げ、焼き鳥、ポテトサラダ。
茶色い。
俺の食生活とは対極にあるラインナップだ。
「ほら、座って! 乾杯するわよ!」
姉はプシュッと缶ビールを開け、俺にはコーラを渡した。
「……乾杯」
「お疲れー! ぷはーっ! これのために生きてるわー!」
豪快にビールを煽る姉。
その姿はオヤジくさいが、顔が良いのでCMのワンシーンのように見えなくもない。
「……で? 試験はどうだったの?」
「問題ありません。学年トップは堅いでしょう」
「可愛くないわねぇ……。少しは『難しかったよぉお姉ちゃーん』とか甘えなさいよ」
「事実を述べたまでです」
俺は焼き鳥を串から外しながら答えた。
姉はブゥと唇を尖らせたが、すぐに表情を緩めた。
「ま、あんたが優秀なのは今に始まったことじゃないけど。……無理してない?」
「無理?」
「うん。……なんか最近、急ぎすぎてる気がして。会社とか、投資とか。……15歳なんだから、もっとゆっくりしてもいいんじゃない?」
姉なりの心配。
その言葉の裏にある愛情を、俺は感じ取った。
姉は俺の中身が41歳であることを知らない。だからこそ、純粋に弟の身を案じているのだ。
「……大丈夫ですよ。僕は、自分のペースで歩いていますから」
「そう? ……ならいいけど。何かあったらすぐ言いなさいよ? お姉ちゃんが飛んできてあげるから」
姉はニカッと笑い、俺の背中をバシバシと叩いた。
痛い。
だが、その痛みすらも心地よい。
家族という、無条件の味方。
それは、孤独なビジネスの世界で戦う俺にとって、最強のセーフティネットだ。
姉が嵐のように帰った後、俺は部屋を片付け、シャワーを浴びた。
静寂が戻った部屋で、俺はシアターセットの電源を入れた。
今日観るのは、昨年日本でも公開され、話題となった名作『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』。
連休中に見ようと観るために以前借りていたんだが、見る時間がなく、借り直したDVDだ。
マット・デイモン演じる主人公ウィルは、数学の天才でありながら、過去のトラウマから心に深い傷を負い、その才能を無駄に浪費している青年だ。
彼は周囲を拒絶し、自分の殻に閉じこもっている。
画面の中で、ロビン・ウィリアムズ演じる精神分析医ショーンが、ウィルに向き合う。
互いに傷を抱えた二人の魂がぶつかり合う。
そして、あの名シーン。
ショーンがウィルに何度も語りかける。
『It's not your fault.(君のせいじゃない)』
ウィルが泣き崩れるその姿に、俺は奇妙な共感を覚えた。
俺にはトラウマはない。
だが、「本当の自分」を隠して生きているという点では、ウィルと同じ孤独を抱えているのかもしれない。
15歳の肉体に閉じ込められた41歳の精神。
周囲からは天才ともてはやされるが、それは「未来を知っている」というチートの結果に過ぎない。
その空虚さを、誰かに理解してもらうことはできない。
映画のラスト。
ウィルは、安定した将来や高額な報酬が約束された仕事ではなく、愛する女性を追いかけて旅立つことを選ぶ。
友人のチャッキーに残した手紙。
『I gotta go see about a girl.(いい女に会いに行ってくる)』
その清々しい表情を見て、俺はグラスを傾けた。
「……悪くない選択だ」
全てを手に入れた先にあるもの。
それは金や名誉ではなく、心から大切だと思える誰かと共に歩む未来なのかもしれない。
俺にとっての「いい女」とは誰だろうか。
マナか、くるみか、涼か、それとも舞か。
あるいは、まだ見ぬ誰かか。
答えはまだ出ない。
だが、俺もいつか、計算や損得勘定を捨てて、自分の心に従って旅立つ日が来るのだろうか。
エンドロールが流れる中、俺は静かに目を閉じた。
明日は日曜日。
そして月曜日からは、また新しい日常が始まる。
今はただ、この映画の余韻に浸っていたかった。




