第九話:香りと魂の残滓
ドレスの一件以来、私は深い無力感に苛まれていた。食事も、贈り物も、美しい服も、今のリリアには届かない。私の「推し活」は、ただの自己満足でしかないのだろうか。そんな諦めが心をよぎった、その夜のことだった。
ふと、日記を読み返していると、ある些細な記述が目に留まった。王都にいた頃、リリアが休み時間に好んで飲んでいた、薬草茶のことだ。そこには、彼女がそのお茶の香りを「心が安らぐ匂い」だと、嬉しそうに話していたことが記されていた。
(……香り)
そうだ。視覚や味覚よりも、もっと深く、直接、魂に届くもの。それは、記憶と結びついた「香り」かもしれない。
私は、最後の望みを託し、父の書斎の片隅にあった薬草学の書物を読み漁り始めた。
次の日から、私の部屋は薬草の不思議な匂いで満たされることになった。リリアが好きだったあの香りを、私の手で再現しようと試みたのだ。記憶だけを頼りに、乳鉢で薬草をすり潰し、調合を繰り返す。甘すぎたり、苦すぎたり、あるいはただの草の匂いしかしなかったり。失敗作の山が、いくつも出来上がっていった。
それでも、私は諦めなかった。そして、幾夜もの試行錯誤の末、ついに、記憶の中の香りと寸分違わぬ香りの調合に成功したのだ。
私は、完成した薬草をそっと香炉に入れ、火を灯した。やがて、懐かしい、心が安らぐような柔らかな香りが、部屋中にゆっくりと満ちていく。
私は、息を殺して、部屋の隅で静かに佇むリリアを見つめた。私の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
その、香りが、リリアの元へと漂い着いた、瞬間だった。
彼女の、小さな鼻が、ほんのわずかに、ぴくりと動いたのだ。
「……!」
幻ではない。見間違いでもない。
ほんの僅か。けれど、確かな反応。
それは、感情を失った人形には、決して起こり得ない、生命の証だった。
「そう…あなた、この香りを覚えているのね…!」
歓喜が、全身を駆け巡った。涙が、喜びと共に溢れ出す。間違っていなかった。私のしてきたことは、無駄ではなかったのだ。
私は、いてもたってもいられず、部屋を飛び出した。老執事と料理長を見つけると、興奮のままに彼らの肩を掴んだ。
「見たか! 今、リリアが反応したぞ! 私の作ったお茶の香りに、鼻を動かしたのだ!」
しかし、私のあまりの剣幕に、二人はただ困惑した顔を見合わせるだけだった。
「お嬢様、それはきっと、お疲れなのでは…」
「ええ、少し、お休みになられた方が…」
彼らの目には、優しさと、そして、主君の奇行を憂う明らかな色が浮かんでいた。誰にも、信じてもらえない。この奇跡的な一歩を、分かち合える者は、誰もいないのだ。
だが、それで良かった。
部屋に戻り、再びリリアの傍らに立つ。彼女は、相変わらず無表情なまま、静かにそこにいるだけ。
けれど、私にはもう、確信があった。
この微かな反応こそが、絶望の闇を照らす、何よりも確かな希望の灯火なのだから。
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