第二十六話:鏡合わせの悲願
黒氷の島に、世界の音という音が、全て吸い込まれたかのような静寂が落ちる。
私たちの目の前で、幻想的で、そして、どこか禍々しい、儀式が執り行われていた。
島の中心に立つアザレア。彼女がまとうドレスは、かつて華やかだったであろう色も時の流れに褪せ、今では淡い灰色に近い。裾や袖にはほつれた糸が目立ち、ところどころ生地は薄くなっている。その揺蕩う銀髪を見ると、一瞬鏡を見ているのかと錯覚する。
彼女の周囲には、無数の、光り輝く糸――『因果の糸』――が、オーロラのように、渦を巻いている。世界の歴史そのものだという、その光の奔流。アザレアは、その糸を、神話の女神のように、静かに、手繰っていた。幻像というには、あまりにもはっきりとした、見知らぬ景色が、光の奔流の中に、明滅している。その様は万華鏡のようだ。覗き込み続けると、眩暈がしそうだった。
その時、儀式に集中していたはずの、アザレアの瞼が、ゆっくりと、開かれた。
その、どこまでも物悲しい、古の瞳が、真っ直ぐに、私を捉える。
「…あなたには、分かるはず。失われたものが、どれほど尊く、美しいものだったか」
あどけなさの残る少女の声である。しかし、その響きは、老婆が若かりしときに思いを馳せるときのように、か細く、淡く、伝わってくる。
「この世界は壊れてしまった。綻び、歪み、かつての輝きを失ってしまった。私はそれを元に戻したいだけ。全てが正しく、美しかった、あの傷のない過去へと。過ちも、悲しみも、存在しなかった、完璧な世界へ」
「私と盟約を紡ぐというのなら…盟主として、責任をもって、あなたも共に連れていきましょう。」
彼女の言葉は、あまりにも純粋で、切実な願い。
彼女の誘いは、私の心を、甘く、揺さぶる。
過ちのない世界。悲しみのない世界。リリアが、心を失うことのなかった、あの、幸せな日々。
ネヴァンが私に見せた、あの甘美な夢。
手を伸ばせば、それが、手に入るというのか。
けれど。
私は隣に立つリリアの、冷たい手を強く握りしめた。その確かな感触だけが、この狂った空間で、私の守るべき『今』を教えてくれる。
「私は、過去には戻らない」
私の声は氷のように、けれど揺らぎなく、島の空気に響いた。
「あなたの言う、完璧な世界には、きっと、大きな嘘がある。悲しみや過ちを、ただ、なかったことにする世界は、偽物よ。…この娘が、リリアが、自らの全てを賭して繋いでくれた『今』というこの瞬間を、私は、何よりも、尊いと信じているから」
「たとえ、それが、傷だらけの、不完全なものであっても?」
「ええ。傷だらけだからこそ、尊いの。その傷を、乗り越えようとする、人の意志こそが、美しいのだから」
私は言い切った。「あなたのただの郷愁のために、リリアの覚悟を、踏みにじらせはしない」
その瞬間、私は気づいてしまった。
私と彼女は、鏡合わせなのだと。
彼女は、失われた「過去」を救おうとしている。私は、これから来るべき「未来」を救おうとしている。どちらも誰かを、何かを救いたいと願う、同じ悲願。ただ、その向かう先が、正反対なだけ。
「…愚かな娘」
アザレアの物悲しい瞳に、冷たい拒絶の色が宿る。
「未来など、お父様のいない…この壊れた世界の延長線上にある、更なる絶望でしかない。失われた世界には価値がない。あなたにはまだ、それが分からないのね」
「いいえ、分かっているわ。だからこそ、私が創るの。リリアと共に、この困難な現実を乗り越えていく、幸せな未来を。」
「だから、あなたに『今』を壊させない。ヴァイスハルト家の当主として、なにより、リリアの『推し』として。」
私たちの理念は、決して交わらない。
アザレアは静かに目を伏せた。そして次にその瞼が開かれた時、彼女の瞳から哀しみの色は消え失せていた。そこにあったのは、全ての障害を排除しようとする、神のような無慈悲な光だけだった。
対話の時間は、終わった。
私は、リリアを庇うように、一歩、前に出た。
いよいよ、戦いが、始まる。
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