第二十二話:傷のない世界
「あらあら、言葉だけでは、信じられないかしら」
灰色の夢の世界で、私が答えに窮していると、ネヴァンは、心底、楽しそうに言った。
「良いわ。ならば、見せてあげる。わたくしが、あなたに用意できる、完璧なハッピーエンドの、ほんの、お試しをね」
ネヴァンが、ぱちん、と指を鳴らした、その瞬間。
灰色の世界は、まるで薄氷が砕けるように、音を立てて消え失せた。
次に目を開けた時、私は、見慣れた場所にいた。
王都の屋敷にある、私の部屋の、陽光が差し込むバルコニー。柔らかな風が、庭の月光花の、甘い香りを運んでくる。
全てが、完璧だった。あの、事件が起こる、ずっと前の、穏やかで、幸せだった、あの日々と、寸分違わぬ光景。
「――我が君」
背後から、鼓膜を震わせたのは、懐かしい、優しい声。
心臓が、大きく、跳ねた。
ゆっくりと、振り返る。
そこに立っていたのは、リリアだった。
私の良く知る、侍女服姿の。けれど、その瞳は、夜空の輝きを宿し、その口元には、穏やかな、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
彼女は、銀の盆に載せた、温かい薬草茶を、私に差し出す。
「また、夜更かしをなさいましたね。眉間に、皺が寄っておりますよ」
そう言って、リリアは、悪戯っぽく笑うと、その、温かい指先で、私の眉間を、そっと、撫でた。
ああ、そうだ。これだ。
これが、私の、失ってしまった、日常。
他愛のないことで、笑い合い、軽口を叩き合い、そして、彼女が、私を、世界でただ一人、私だけの、特別な呼び名で、呼んでくれる。
「リリア…」
私の声は、涙で、震えていた。
「どうかなさいましたか、我が君。何か、悲しい夢でも?」
リリアは、心配そうに、私の顔を覗き込む。その瞳には、紛れもない、私への愛情と、心配の色が、浮かんでいた。
甘美な、光景。
あまりにも、甘く、そして、幸せな、世界。
私の罪も、後悔も、全てが洗い流され、ただ、この温かい時間だけが存在する。
けれど、その幸せが、大きければ、大きいほど。
私の心は、引き裂かれそうになる。
これは、夢。偽物。全ての元凶である、あの魔女が、私を誘惑するためだけに見せている、残酷な幻。
この手を伸ばせば、この幸せが、現実になる。
けれど、それは、リリアが、自らの意志で、私を守るために、全てを投げ出した、あの、崇高な決意を、この私が、踏みにじることに、他ならない。
どうすればいい。
どちらが、本当の、幸せなの。
リリアが、優しく、私の名を呼ぶ、その声を聞きながら、私の心は、喜びと、絶望の、狭間で、引き裂かれていた。
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