第二話 翼は黒く染まる 後編
雨木は一人目を覚ます。空間は白色で、直感的に無であることを理解する。無とは何だ。だが、不思議と焦りは無かった。感情の起伏という概念が世界から奪われているよう。だが、奪われていたのはそれ以上だった。世界に彩度が無い。声が出ない。呼吸の方法がわからない。自分が今どんな形をしているのか理解できない。
何かを踏み外した。雨木は落ちていく感覚を覚える。でもいつの間にか、彼は地面に立っていた。何回も繰り返す。天井などあってないようなものだ。
やがて何かが肩に触れる感覚があった。見上げる。降ってくるのは黒い羽根だ。手にとって観察すると、それは黒い羽では無く、白い羽に黒い何かがついていたものだった。
白昼夢なんだろうか。同じような羽は絶え間なく頭上から降り注いでいた。やがて羽は積もり始める。それは認識できなかった階段を、雨木の視覚に想起させた。実際にあるのかどうかわからない。概念が形を成したようだった。
雨木の頭の中に疑問符が現れた。
彼の体は階段を登り始める。螺旋階段だ。塔の壁をひたすら沿って階段は進んでいく。当初、彼の意識は彼の外にあったものだが、階段を登るにつれて意識は少しずつ彼の体へと回帰する。
曖昧だ。体内と体外の感覚があまりにも不明瞭。その感覚だけは拭えない。意識がハッキリするにつれ、恐怖心が芽生えてきた。当然のことだ。
時間が流れている感じがしない。時が止まっているのだろうか。意識が戻り始めた結果、自分の心臓が脈を打っていないことに気がついた。体の中に流れている血液はその動きを止めている。自分の体を動かしているものは一体何だ。そもそも思考ができるのも、おかしいことでは無いのだろうか。
どれだけ登った。どれだけ歩いた。自分は認識せず、存在もしない。それでも雨木の体は動き続けた。
階段が途切れ、彼は頂上に着く。世界が見えない。塔の上に登ったがそこには何も無かった。あるのは白い空間のみ。少しずつ彼の中に戻っていた意識や記憶は、上り切ると同時にほぼ完全に戻ってきた。戻らないのは感情の起伏だ。
彼は踏み出す。また踏み外した感覚があった。だが、今度は落ちる事はない。
ただ、色が反転した。
何かの黒い液体が彼の足にまとわりつく。動くことは難しいことではないが、心を直接触られているような気持ちの悪い感覚があった。懐かしい感覚だ。数ヶ月前に自分は経験した。
そして、彼は知った。
顔をあげ、正面を見る。黒い池の中に赤い線が浮いて見える。絵の具で塗られたようなそれは、中心にある何かを縛っているようだった。モノだった。
モノは脈打ち、万物がそれを認識すれば気持ち悪いと答えるだろう。雨木は近づく。体が勝手に動いたと言った方が正しいだろうか。首からぶら下げられた鍵に引っ張られていた。
鍵は雨木の体から離れる。あ、と思った頃にはすでに鍵はモノの中に吸い込まれて溶ける。脈は加速し、赤い絵の具は空中に溶けていった。やがて、モノから透明な液体が溢れる。
雨木は自分が今何をしているのか理解していない。何が起きたのか理解してない。それでも何かが進んだ。黒い空間はひび割れ始める。空間の隙間から白い塗料で塗られたような黒い羽が舞い落ち始める。彼の視界が色褪せ始める。
頭の中に張り詰めた何かが現れたが、何をどうすることもできない。これは自分の意志か。天井のヒビはいささかひどいもので、これは塔全体に起こっている事ではないかと最悪の結末を予想した。
何かをしなければならない。だが自分がどんな高さにいるかもわからない。何をどう対処すればいいかわからない。立っている場所も傾き始めていた。雨木は咄嗟に部屋を見渡した。
そして、部屋の中心にあったモノへ飛ぶ。モノの位置は変わっていない。もしかすれば、浮いているのではないか。その判断は正しかった。モノは確かに浮いていた。雨木がモノを掴んだ瞬間、彼のいた地面は立ってられないほどに崩落し始めた。
モノを掴んでいる右手が熱い。実際に温度は高くないが、熱さと痛みという感覚が直接手に伝わっている。今にも手を離してしまいそうな激痛の中、雨木は自分が掴んでいるものが世界に存在してはいけないものであると確信した。
塔の中での時間という概念が存在しないような感覚。そして黒色の部屋で感じたのは彼方の書庫の奥、エリムの部屋での体験した何かの力と近い。
何も考えていなかった。それを壊せば自分が落ちる事など脳内になかった。雨木はまだ空いている左手でアドニスのナイフを抜き取り、モノに突き刺さそうと考えた。
だがその刃は届かない。それどころかアドニスのナイフが鞘に入っていないのだ。そして、視線を一瞬モノから離しただけなのに、その行動は命取りだった。
再び上を見ると雨木と一緒に塔に入ったはずの、レンカンが浮いていた。高濃度の魔力と緻密な魔力制御。雨木にはまだ不完全な芸当だ。そして、彼の手には雨木から奪ったアドニスのナイフが握られていた。
レンカンは雨木の右手を引き剥がし、空中へと放り出す。自由落下をし始める雨木は彼が何をしているのかを見ていた。何を冷静でいられるんだ。自分に問いかけるが、彼の視線の先は変わらない。
レンカンはモノに何もしない。彼自身は酷く汗をかき、息を切らしていた。静かにモノを睨みつけると、それは何処かへと飛んで行ってしまった。モノの一連の動作を見届けたレンカンはアドニスのナイフを懐にしまう。
何も掴むものが無い雨木を、レンカンは見下ろす。雨木に対する興味を失った、酷く残念そうな表情だった。




