バックナンバー1 僕がエリムになった日
金色に光る稲穂の中、一人の青年が立っていた。彼は記憶を辿る。彼の元へ訪れた人間、その最後は魔法の郵便局員だった。彼に託し、彼女へと送った返信が来ない。いつもなら翌日に来るはずだ。だが、彼に返信は届かない。そう、郵便局員が彼の元へ戻って来ることはついに無かったのだ。彼は琴吹郵便局を利用する事のデメリットを過去に出会った配達員から聞いていた。それでもなお、彼は信じたかったのだ。
青年は田んぼの中で、特別な稲穂を探し始めた。それは永遠に感じるほどの長い間。自分の家もわからない。彼の周りには、もはや稲穂しか動いていない。おかしいことには気がついていた。自分の名前もわからない。どこから来たのかわからない。あまりに長い時が彼を摩耗させていた。覚えているのは最愛の女性と、最後に自分の望みを聞いてくれた郵便局員のことだけ。実はもう一つ、彼は郵便局員に頼みたいことがあったのだ。それももう思い出せない。何もわからない。
歩く。
彼は稲穂の海を掻き分けていく。ここにある。自分の探している稲穂はここにあるのだと信じて探す。
「あった……!」
彼の手には前に見つけたものよりも、さらに色が濃く、淡い光を持っている稲穂が握られていた。自分はなぜこの稲穂を探しているのだろう。自分はなぜ稲穂の原にいるのだろう。なぜ探しているのだろう。
気がつくと、彼の足元には重厚な扉があった。地面に埋まっているそれはいつからあったのか、なぜあるのか。彼の知るところではない。彼は扉を開ける。中から溢れた黒い何か。彼は稲穂を胸の中にしまい、扉を閉じようとした。しかし、扉の中から黒い人影が現れ、彼はなすすべ無く引きずり込まれてしまう。
意識を取り戻した彼は目を開く。黒い空間だった。真っ暗闇でその中でもうっすらと線が空間に書かれていて、彼が行くべき方向を自然と示していた。
彼は歩く。
歩く。
歩く。
黒い道、雨木達が通った時とは様相が違った。言葉が流れておらず、真っ直ぐでは無かったのだ。途中で登り、下り、曲がる。何年歩いたのだろう。彼の目の前に扉が現れる。扉は非常に軽く、少し力を加えるとピクセルが崩れるように目の前の扉が失われた。扉の先には、自分をエリムだと言う青年がいた。
エリムは、君も縁があったからエリムになると言った。彼はわからなかった。エリムとは何なのか、なぜ自分に縁があるのか。エリムは空の魔女の概念に触れた者、そしてその概念に対して何かの思いを残したまま死んだ者がエリムになり得る資格があると言う。青年はポツリ呟いた。死んだ……と。
彼は死んでいた。幽霊だったのだ。地縛霊となり、あの場所に囚われ続けていた。彼は彼自身を自覚する。彼が過ごした歳月は、彼を一気に老人へと変貌させる。それでも青年の心境は穏やかだった。何かが理解できた。何を理解した?それでも老人となった彼の心の奥底にはどこか安堵感があった。
エリムはもう一人いた。そのエリムは女性だった。女性は影に隠れてジッと老人になった彼を見つめている。その視線が青年エリムの足元へと移動する。老人はそこに黒い何かがある事に気がついた。老人は問う。これは何か。
青年エリムは嫌がらせの道具だと言う。空の魔女に関連する全てが憎いと彼は笑いながら答えた。
老人は問う。エリムに自分がなった今、あなたはどうするのだ。エリムの使命を私がするのか。青年エリムは答える。エリムの使命なんてものは無い。あるのは彼方の書庫という島流先で永遠を過ごす事だ。そんな永遠を過ごすのなら、話し相手がいる方が良いだろう?女性のエリムは話してくれない。邪魔をするばかりだと。不機嫌そうにエリムは足元の黒い何かを、靴でこねくり回していた。そこから溢れているのは、魔力ではない威圧的な何かだ。これが、彼がエリムになった日だ。
老人エリムはそれから何かをするわけでもなく、日々を生き始めた。たまに出会う青年エリムは時々、彼自身のことを話していた。空の魔女に固執してる事、彼女に復讐するためなら何でもすると言う事。老人は初め、聞き流していた。それでもエリムはずっと話し続ける。そんな生活を何年も繰り返していた。
ある日、老人エリムの元に一人の青年がたどり着いた。名を海斗と名乗り、雨木という人物を探していると言うこと、自分に力は無いので協力して欲しい事を老人エリムに言った。老人エリムは海斗のアイデアを実行した。時間はいくらでもあった。魔術の勉強も、力の使い方も、彼はその有り余る永遠で様々な知識と共に身につけていた。
海斗に空の魔女と雨木の関係性を問われた時、老人エリムはすぐに答えを出した。その答えは海斗の予想とも同じだったようで、老人エリムから見ても彼は深く安堵していた。老人エリムは考えた。そして、彼方の書庫の奥底にある一冊の本、空の魔女に関する文献を手渡した。青年エリムは空の魔女を酷く嫌っているようだったが、老人エリムには関係ない。目の前を生きる青年に”同一面の破壊”が記載されている文献を渡したのだ。気まぐれのようなものだった。
その後、海斗は雨木達を連れてエリムの部屋に訪れた。老人エリムは雨木が最後に出会った郵便局員であることをすぐに思い出した。最後に望みを叶えてくれた青年。老人エリムはこれ以上、空の魔女に関する情報は持っていなかったが、もし彼の身に何かあった時のためにお守りを置いて去った。青年エリムに見つかるわけにはいかない。彼が人智を超える力を持っていて事実を知っていても、現場を見られる事だけは避けたかった。
そのお守りはある種、不幸を招いてしまった。お守りは雨木が青年エリムの部屋を訪れる助けとなってしまったのだ。本来ならば、エリムの部屋を生きる者が一度閉じてしまうと、次に戻る時には同一世界のどこかに飛ばされる。しかし、青年エリムは嫌がらせをした。雨木を彼がいた魔法界では無く、雨木が元々住んでいた現世とも違う別の現世に転移させた。
老人エリムはその事にすぐに気がついた。別の現世からの元の場所に戻ってくる道は閉ざされている。雨木透は魔法界に戻ってくることはできない。彼はすぐに手を打った。青年エリムの目を掻い潜り、こちら側に戻ってくる場所を作った。しかし、それ以上は雨木自身が気がつく以外に無かった。幸いにも雨木は自らが戻ってくるべき場所を選ぶ事ができた。もし、元々使っていた道で魔法界に戻ろうとしていたのならば、彼は別の現世に閉じ込められる他無かった。
雨木は戻ってきた。老人エリムは出迎えるが、自分の失敗もあって何も言えなかった。それでも、雨木の質問に対して首を縦に振った。お礼を言われるとは思わなかった。だからこそ、彼はもう一度陶器のお守りを渡す。今度のお守りは、前回と効果が違う。老人は願う。このお守りが、郵便局員の旅路に差す光になる事を。




