月下の騎士
幾重にも重なってぶくぶくと肥え太った怨霊の塊は鯨とは名ばかりで。巨体を支えるには不釣り合いな細長い手足を節のように折り曲げて、突き出た顔には裂けたような歪な口と焦点の合わない濁った眼が張り付いていた。
まともな機能が備わっているのか怪しい両の目玉が別々に動いて森をねめつける。
生者の森。その奥から沸き立つ霧の魔法。
魔法によって拒絶された怨霊鯨がその標的を森の主へと定める。
『――――ッ!?』
声なき声を漏らした怨霊鯨が動きを止め、奇怪な動きで振り向いた。その眼の先には大きな街。この森を平らげた後に向かうべき魂の宝庫。そこから無視できない何かを感じ取る。
自分の対極にある煌めく生の力だ。好物と脅威を併せ持つ何かが視線の先に存在している。
狙うべきはより強い魂――
怨霊鯨がその巨体の向きを変える。うねる様に震えた体が、枯れ枝のような細い手足が、今にも街へ向かって動き出そうとしていた。
「やっぱり心配よ……」
怨霊鯨討伐に向かうウィルベルを見送る為、門の外へと移動したセシリアが表情を曇らせてウィルの頬を撫でる。
ウィルはセシリアの手に甘えていたがセシリアの顔をしっかり見上げた。
「かーさま、うぃるはみんながかなしいはいやです」
「それはそうでしょうけど……」
ウィルの気持ちはセシリアにも痛いほどよく分かる。だが、だからといって幼い我が子を怨霊討伐に快く送り出す、とはならない。母親として当然の心配であった。
そのことは隣にいるシローも重々承知の上である。シローとてウィルの月属性が怨霊鯨討伐に向いていると理解していても、どのように戦うのか聞いたことがあるだけで見たことはない。そういう意味でも決して楽観視しているわけではなかった。
視線を向けてくるセシリアにシローが頷いて返す。
「安心してくれとは言わないけど俺も一緒に行きます。危なくなったらなんとか連れ出して逃げるから……」
任せてくれと言わんばかりのシローであるがセシリアの心配はそんなシローのことも含まれているのだ。そのことに気付いた様子もなく、セシリアが内心ため息を吐く。
自分が心配されていることに気付かない――シローとウィルのよく似た所である。
そんなシローとセシリアのやり取りを見たウィルが頬を膨らませた。
「むー、とーさま! にげたらみんながぴんちでしょー!」
「そうか、そうだな……」
抗議するウィルをシローが撫でてあやして。
「じゃあ、なんとしても怨霊鯨を浄化しなくちゃいけないな」
「そーなのです! じょーかするのです!」
ウィルが力強く宣言する。やる気満々だ。
そんなウィルを心配するのはセシリアだけではなかった。見送りに同行したレオンハルトやシャナルたち皇族やソーキサス帝国の重臣たち。ドワーフの貴族たちや警護の近衛兵たちも。ソーキサス帝国存亡をかけた戦いを幼いウィルに委ねるのだ。
「本当に行くのか、ウィルよ」
「いきますー」
「其方はこの国の兵ではない。逃げたとしても誰も文句は言わんのだぞ?」
「えー?」
念を押すレオンハルトにウィルが首を傾げる。しかしウィルの答えは決まっているようだ。
「にげないよー?」
「なんでだ?」
「だってうぃるはこのくにのひととかどわーふさんのくにのひととかとたーくさんおともだちになりたいんだもん」
みんなと友達になりたい。だからそれを邪魔する怨霊鯨に好き勝手させるわけにはいかない。
ウィルからしてみればそれだけの事なのだ。
「みんなをかなしませるわるいおばけさんはうぃるたちがやっつけます!」
ウィルははっきりと言い切った。その目は先程までおばけが怖いと怯えていた幼子とは思えない力強さであった。自分が負けるなど微塵も思っていない目である。
「怖くはないのか?」
「……こわいけどー」
レオンハルトの質問にウィルは素直に答えた。
怖いけど、誰かの為なら頑張れる。ウィルはそんな優しさを持つお子様なのだ。
そのことに気付いて少し驚いたレオンハルトは自然と力が抜けて微かに笑みを浮かべた。
「わかった……ウィルよ」
「なーにー?」
首を傾げるウィルの頭にレオンハルトが優しく手を置く。その手でやんわりとウィルの髪を撫でて続けた。
「この戦いが終わったら、私と友達になろう」
「こーてーへーかとー?」
「そうだ」
「やったー!」
飛び跳ねそうな勢いで喜ぶウィル。自分の頭に載せられた手を両手で掴み、頭と挟んで強引な握手を繰り出す。
ひとしきりそんな握手と呼べない握手を堪能したウィルの視線がその横に居並ぶソーキサス帝国の重臣やドワーフの貴族たちに向けられた。
ちょっと興奮気味のウィルに困惑する重臣たちの手をウィルが両手で掴む。
「ともだちー?」
「あ、ああ、そうですな。我々とも友人となって頂ければ……」
「やったー!」
色よい返事がもらえたウィルが貴族たちの手を次々と掴んでは縦横無尽に振り回す。やはり握手とは思えぬ仕草だがウィルの喜びは誰の目にも明らかであった。
(こんな小さな手で……)
ウィルの手を握り返したドワーフのオリヴェノが不思議な気持ちでウィルを見下ろす。ウィルはこの小さな手で自分の子供や貴族の子供たちを助け出してきたのだ。ごつごつとした手の中にある温もりに色んな感情がない交ぜになって彼はウィルに頭を下げた。
「友達になりましょう、ウィル殿」
「うん、うん!」
大人の友達がいっぱい出来た。そんな事実にウィルが感情を高ぶらせているとウィルの身の内からアジャンタたちが姿を現し、ウィルを促した。
「ウィル、そろそろ行きましょう」
「怨霊鯨が動き出すわ……」
「怨霊鯨を倒さないと友達になれないわよ?」
「そーだったー」
クローディア、シャークティ、アジャンタと順番に声をかけられ、浮かれていたウィルが恥ずかしそうに頭を掻く。
ウィルはレオンハルトたちにお辞儀をすると精霊たちを引き連れてシローの下へ舞い戻った。
シローと一片、アローと並び、セシリアたちに見守られてウィルが先頭に立つ。
ウィルが嬉しさをかみしめるように小さな両の掌を顔の前に合わせた。ウィルの魔力の昂りが首から下げる月のペンダントと結びついていく。
時は夕刻、既に月の魔素が世界に満ち始めている。その存在を感じ取ったウィルの笑みが深くなる。帝国に訪れた窮地の前で、その表情は不謹慎であったかもしれない。だが魔力的知覚の研ぎ澄まされたウィルの表情は変わらない。
遠く離れた怨霊鯨の気配を感じる。そしてそんな遠くにあるはずの怨霊鯨を捉えられるほどに干渉し始めた月の魔素と昂る自分の魔力。
まるで――まるで負ける気がしない。
そうした圧倒的自信がウィルにそんな表情をさせていた。
そんなウィルを横から見守っていたシローたちが人知れず息を飲む。彼らの目から見てもいまだ未熟なウィルであるが漲る魔力は異質。フラベルジュの村で見てはいたが、本気を出した時の出力は桁外れな存在感を発していた。
おそらくこれがブラックドラゴンを討伐した時の力量。いや、あれから時が過ぎていることを考えればそれ以上か。
ウィルが内なる世界に魔力を満たして月の門を探り出す。そして己の魔力を門へと注ぎ込んだ。以前よりもずっと淀みなく、ウィルの魔力が月の門を解き放つ。
「ひらけ! つきのもん!」
高らかに唱えたウィルに呼応して空に月の門が顕現する。解き放たれた門から溢れ出た月の魔素が夕暮れの大地を染め上げ、そしてウィルの体を銀色の魔力が包み込んだ。
「るなー!!」
ウィルの声に応えるように、淡い輝きを放つ一柱の精霊が空に浮かんだ門から身を躍らせる。精霊たちが膝をつき、幻獣たちが首を垂れる。
その間にゆっくりと舞い降りた月の精霊が愛おしそうにウィルの頬を撫でた。
「こんばんは、ウィル」
「こんばんはー、るなー」
当たり前のように挨拶を交わすウィルとルナ。そんなウィルたちのやり取りをレオンハルトや他の貴族たちは呆然と眺めていた。
正直、彼らの理解は追いついていない。ウィルの言葉や精霊たちの態度を考えれば何が起こっているのかなんとなくは分かる。だが常識がその理解を拒むのだ。
おとぎ話で語られるような伝説の属性。それを目の当たりにすれば誰だって彼らのようになる。
それを理解しているからルナはウィルをあやす手を止め、レオンハルトたちに向き直った。
「初めまして帝国の皆さん、ドヴェルグ国の皆さん。私はウィルベルに加護を与える者、月の精霊ルナ。どうかウィルベルの良き友、良き理解者でいてくださいませ」
「「「は、ははっ……!」」」
精霊や幻獣に崇められる存在。さらにはルナの神々しさも手伝って、レオンハルトたちは立場も関係なく膝をついた。
一方トルキス家であるがセシリアたちは以前にそのままでよいと許しを得ているのでウィルと同じ立ち位置でルナを出迎えていた。その中にあって初めてルナを見る者はあまりの美しさ、神々しさに戸惑っているようにも見える。
「るな! あのねあのね、悪いお化けがいるの!」
そいつが街を襲い、生ある者を貪らんとしている。
見上げて訴えてくるウィルの髪をルナは優しく微笑んで撫でた。
「分かっていますよ、ウィル」
ルナはすべてを理解していた。その眼差しを怨霊鯨の気配がする方へ向ける。
「彷徨える悲しき魂たちを浄化してあげなければなりません」
「じょーか! ウィル、じょーかするよ! るな、てつだって!」
「任せてください」
ルナが手を振ると魔力の光が一本の錫杖へと変化する。その錫杖を掲げてルナが詠唱した。
「月の精霊ルナが命ずる。出でよ、月下の騎士。その身を賭して、我が使徒に仕えよ」
月の魔素が魔力と結びついて大きな光の渦を巻く。その光が渦の中心へと集まり始めた。
「おお……」
月の魔力が作り出すシルエットに誰からともなく感嘆の声が漏れる。
見上げるほどに大きく、淡い輝きを放つそれが徐々に形を成していく。
人々の前に姿を現したのは細面の巨人。その身を流線型の鎧に包み込んだ淡く輝く麗人でなんとなくルナの面影がなくもない。そんな巨人が膝をつき、ウィルたちに向かって首を垂れていた。
「おおー!」
現れた巨人にウィルが感動の声を上げる。見た目だけではない。その魔力の美しさにウィルは目を奪われていた。
そんなウィルを見守るセシリアもまた美しい騎士の姿に息を飲んでいた。
(あの時はまだ、ここまではっきりとした形はしていなかったはず……)
ブラックドラゴンとの戦いの最中。ウィルは途中で覚醒し、月の魔力で構築した巨人を操っていた。しかしその時はまだ目の前で膝をつく騎士のようなはっきりとした形はしていなかった。もしもその差が魔法の完成度を表すのであれば、目の前の巨人はブラックドラゴンを討伐した時を上回る力を有していることになる。
巨大な光の騎士を顕現させたルナがウィルに向き直る。感動と興奮に彩られた表情のまま見上げてくるウィルにルナが小さく笑みを浮かべた。
「お気に召しましたか、ウィル?」
「たいへんおきにめしました!」
ルナの問いかけにこくこくと首を縦に振るウィル。その様子に満足したルナはウィルを巨人の方へと導いた。
「それでは参りましょうか」
「あい」
「お父上も、ご同行なされるのでしょう?」
「は、はい」
シローも共に促され、巨人の前に立つ。
ルナはそこで一度視線をセシリアの方へ向けた。心配そうに様子を伺うセシリアに対し、笑みを返す。
「大丈夫です、セシリア。しっかりとお二人を導いてまいります」
それだけ言い残し、ルナは魔法を球体に広げてウィルとシロー、そして彼らと契約する精霊や幻獣たちを包み込んだ。球体が浮かび上がり、そのまま巨人の胸へと吸い込まれていく。
残された者たちはただ黙って事の成り行きを見守っていた。




