86話・国境を隔てる石壁
ラトス誘拐4日目
翌朝、まだ真っ暗な時間だが、辺境伯邸の庭園に多くの人が集まった。これからユスタフ帝国との国境まで移動するのだ。
個人の荷物は必要最小限、肩掛けカバンに入る程度の物のみ。着替えは出来ないので、替えの下着を何枚かと手拭い、あと血止めの塗り薬などが詰めてある。僕が寝ている間に、メイド長さんが色々考えて用意してくれていた。
「ヤモリ様、坊っちゃまをお願い致します。必ず一緒にお戻り下さいませ」
メイド長さんは僕にカバンを手渡し、深々と頭を下げた。一緒に戻る約束は出来ないので「行ってきます」とだけ返事をした。
僕とシェーラ王女、オルニスさん、アーニャさんの四人は高速馬車に乗り込む。辺境伯のおじさんやエニアさんを含む他の人達は馬に乗り、馬車の前後に付いた。
門を抜けたら、そこはもう街道だ。
ノルトンの南側には集落もないし、出歩く人も滅多にいない。遠慮なしに加速し、砂煙を上げて進んでゆく。
馬車の中では誰も口を開かない。
揺れるから喋りにくいという理由もあるけど、それだけじゃない。国境が近付くという事は、危険が迫っているという事だ。
緊迫した空気がなんだか気まずい。僕はちらりと目線だけを動かし、馬車内を見回した。
向かいの座席に座るシェーラ王女は、貴族学院の制服の上に厚手のコートを羽織っている。足元は膝丈の靴下からタイツに、革靴はブーツに変わっていた。
オルニスさんも華美な装飾が一切ない服装に変わり、その上にカーキ色のマントを羽織っている。割と動きやすそうな格好だ。
隣に座るアーニャさんは、昨日までの軍服から司法部のトレードマークである白衣に似た制服に着替えている。ぱっと見、お医者さんか科学者みたいだ。
僕はいつもと同じような服の上に防寒用の上着を着ている。足元は、やはりブーツだ。ちゃんとサイズを合わせて貰ったので、どれだけ歩いても足が痛くならない。
徐々に東の空が明るくなってきた。
馬車の窓から見える街道を眺めながら、僕は数ヶ月前の事を思い出していた。キサン村が白狼の襲撃で全滅した後、人里を求め、この道をひたすら歩いた。道の先に何があるのかさえ知らずに。
街道の分岐点に差し掛かった。
この道を曲がった先には、僕が元の世界からこちらの世界へ転移した森が広がっている。そして、その奥にはキサン村がある。
ロフルスさん達のお墓にお参りしたいけど、今は時間がない。黙ってそのまま通り過ぎた。
分岐点から南側は、僕にとっては未知の領域だ。
国交が断絶しているので普通の通行人はいないが、駐屯兵団が巡回でこまめに通る。その為、街道は程良く踏み均されて雑草一つ生えていない。
道中、魔獣と遭遇する事はなかった。昨晩先行した第四師団があらかた片付けておいてくれたおかげだろう。
走り続けること数時間。
僕達を乗せた高速馬車は、太陽が真上に来た頃に国境付近の拠点に到着した。
国境の石壁から五百メートル程離れた場所に、大きな天幕が幾つも張ってあった。その中の一つに案内される。天幕の中には既に食事が用意されていた。パンと串焼きにされた肉、温かいスープだ。
食事を囲むようにして、みんなで床に座る。下には厚手の絨毯が敷いてあるので痛くはない。
「これから、昼食を摂りながら最終確認を行う」
辺境伯のおじさんは、オルニスさんに小さめの地図を手渡した。昨晩の会議で見た地図と書かれている内容は同じだ。
「足の速い馬を四頭用意した。魔獣慣れしとるから逃げ出す事はない。二頭は荷物用だが、時々交替させるといい」
パンを囓りながら、ブラゴノード卿がそう説明する。第四師団の馬の中でも立派な馬を選んでおいてくれたらしい。
「おや、他に餞別はないのかい?」
「どうせすぐ帰ってくるんだ。そんなもん要らんだろ」
「まぁね。んじゃ良い酒を沢山用意しときな」
「……フン」
アーニャさんが声を掛けると、ブラゴノード卿は拗ねた様に顔を背けた。この二人、似てないけど姉弟なんだよな。仲が良いんだから悪いんだか。
「装備は揃っとるか……とは言っても、誰も帯剣しとらんのぅ。ホレ、持ってくか?」
「いえ、使い慣れぬ武器では却って危ないので。気持ちだけいただきますよ、お義父さん」
また辺境伯のおじさんが人に武器をあげようとしていた。しかし、オルニスさんにあっさり断られている。
確かに、今回のメンバーに剣で戦う人がいない。
優男な文官と女性研究者と少女とひきこもり。見た目だけだとめっちゃ弱そう。敵の油断は誘えるだろうけど、送り出す方は不安だよな。
周りの雑談に耳を傾けていたら、エニアさんがアーニャさんと一緒に近寄ってきた。
「ヤモリ、盗聴阻害の腕輪は持ってきたね?」
「あ、はい。ここに」
肩掛けカバンの中から腕輪を取り出して見せた。身に付けると発動して内臓魔力が消費されるので、馬車に乗っている間は外していたのだ。
「ここから先は常に装着しな。あと、帝国に奪われるのを防ぐ為にちょっと細工をするよ」
「はあ」
言われるがままに腕輪を左手首に付けた。すると、何故かエニアさんが僕の手を取る。
「ヤモリ君、ちょーっとだけ我慢しててね☆」
次の瞬間、エニアさんが両手で腕輪を掴み、ぎゅうっと握り締めた。腕輪の金属部分が急に熱くなる。ギチギチと音を立てながら腕輪が軋み、僕の手首に食い込んでいく。
「エニアさん熱い! あと痛いです!!」
「もうちょいだから、じっとしてて」
「無理、無理ですって!!!」
振り解こうとしても、エニアさんの腕の力が強過ぎてビクともしない。
拷問のような熱さと痛みに耐え忍ぶこと数分、ようやく手が離された。死ぬかと思った。
恐る恐る左手首を見れば、腕輪がほんの少し形を変え、僅かにあった隙間が無くなっていた。少しヒリヒリするけど、火傷にはなっていない。
「ご苦労さん、エニア。これで腕輪を落としたり敵に奪われる心配をしないで済むよ」
「お安い御用よ!」
「……ソウデスカ……」
エニアさんの魔法による加熱と、これまた魔法による身体強化での金属部分の強制変形。盗聴阻害の術式が刻まれた宝石部分は加熱・変形させていないので、問題なく作動するようだ。
少しでも力加減を間違えば、僕の腕が灼け爛れたり、骨が折れてしまう所だったのでは。怖。
「さて、そろそろ行くとするか」
天幕から出て、全員で歩いて石壁まで向かう。
既に第四師団の兵士が横並びに展開していた。
その後ろには、アークエルド卿率いる騎馬隊。王都から来た兵士と第四師団から追加して、計百名が救援部隊となる。
エニアさんと直属部隊と思われる軽装の兵士達。その中にクロスさんの姿を見つけた。そして、団長さん率いる駐屯兵団が約二百名控えている。
兵士達の間を通り抜け、石壁の手前で立ち止まる。
近くで見ると、石壁の大きさに圧倒された。高さ五メートル超えの石垣が、国境に沿って延々と続いている。まるで万里の長城だ。これが何百キロにも及ぶと聞いて耳を疑った。
そして、聞いていた通り、石壁には扉があった。
高さ二メートル半、幅一メートル半程の鉄の扉だ。この大きさでは、馬車では通り抜けられない。馬に乗って通るのがギリギリだ。同じ様な扉が、百メートルから数百メートル毎に設置されているという。
とうとうユスタフ帝国に入るのか。なんだか未だに夢を見ているようで実感がない。
ブラゴノード卿の部下の兵士達が馬を引いてきた。体格が良い立派な馬だ。二頭には二人乗り用の鞍と鐙が、もう二頭には背中に荷袋が積まれていた。
「ノルトンの職人に急ぎで作らせた鞍だ。長時間座っていても尻が痛くならんよう加工してある」
「それは助かります」
「出来るだけ水と携帯食を詰めたが、それだけじゃ味気ない。昼飯の残りも包んで入れてある。日持ちせんから、こっちを先に食べてくれ」
「お心遣い、ありがとうございます」
積荷の説明をするブラゴノード卿に、オルニスさんが頭を下げた。顔は怖いが、細やかな気配りをしてくれる人だ。
一方、その隣では、アークエルド卿がシェーラ王女に話し掛けていた。
「殿下。まだお気持ちは変わりませぬか」
「もちろんです」
「やめるなら今のうちですぞ」
「しつこいですよ、アークエルド卿。私はラトス様をお救いするまで戻りません、絶対に」
何度も確認するアークエルド卿に対し、シェーラ王女が王族特有の威圧を発動した。歴戦の猛者であるはずの師団長が竦み上がる。ついでに、周りに配置されていた兵士さん達も体を強張らせた。
「さあ、ヤモリ君。後ろに乗って」
「はいっ」
先に馬に乗っていたオルニスさんに手を貸してもらい、引き上げてもらう。二人乗り用の鞍だから、後ろに座る僕が掴める位置に取っ手が付けられていた。
それにしても、生まれて初めて馬に跨ったけど、めちゃくちゃ目線の位置が高くなった。ちょっと怖い。
シェーラ王女はアーニャさんの前に座っている。手綱を取るのはアーニャさんだ。
荷物持ちの馬は、僕達の乗った馬の後に付いてくるよう躾けられているそうだ。
「此奴らが同行する隠密達じゃ」
辺境伯のおじさんの後ろに並ぶのは、全身黒尽くめの服に身を包んだ人達だ。鼻と口元を布で覆っているので、個人の区別が付かない。
十人と聞いていたが、何人か多い気がする。辺境伯のおじさんが増員してくれたのかも。
「鉄扉を壊す前に、石壁の向こう側を確認せねばならん。誰か見て参れ」
指示を受けて、一番手前にいた隠密の一人が駆け出した。石壁の手前で跳躍し、一気に壁の上まで到達する。壁の上部は幾らか幅があるようだ。
向こう側を見回し、合図を送る隠密さん。どうやら付近に魔獣はいないようだ。
それを受け、辺境伯のおじさんは小さく頷く。
「これより鉄扉を破壊する!!」
閲覧ありがとうございます。
次回の更新は11月23日(土)の予定です。
いよいよユスタフ帝国に入ります!




