38話・選んだ場所1
王様からの命令書には、僕の意志を優先させるようにと書かれていた。
つまり、僕はここから出られるという事だ。
「くっ……」
アリストスさんが悔しそうに呻いた。
僕が居なくなれば、学者貴族さんがこの屋敷にいる理由も無くなる。
僕だけでなく、学者貴族さんも自由になれる。
すぐにでもマイラ達の待つ辺境伯邸に帰る。
そうするつもりだったけど、僕は思い止まった。
「すみません、あと一日ここに居ていいですか」
オルニスさんは少し目を細め、柔らかな笑みを浮かべた。
僕の思惑に気付いているのだろう。
アリストスさんは、一日とは言え僕がここに残ると宣言した事で、混乱しているようだった。
学者貴族さんも驚いている。
「ど、どういう事だ異世界人!何故帰らない!」
「ヤモリよ、ここに残ってどうすると言うのだ?」
二人から同時に尋ねられたが、僕も何故自分がそんな事を口走ったのか分からなかった。
王様の命令書により、いつでも自由に出ていけると分かったからこそ、そう言える余裕が出来た。
このまま僕が出て行ったら、この兄弟はすれ違ったままになるだろう。
僕と兄みたいに、世界で隔たれた訳じゃない。
同じ世界の同じ国に居て、お互い嫌い合っている訳じゃないなら、歩み寄る事が出来るはずだ。
ここに居続ける事は無理だけど、この兄弟に少しだけ時間を作る事なら出来る。チャンスを活かせないならそれまでだ。
「では、ヤモリ君の意志を尊重しよう。明日のこの時間に迎えの馬車を寄越すから、そのつもりで」
「分かりました。ありがとうございます」
そう言い残し、オルニスさんは帰っていった。
部屋に居るのは、茫然と立ち尽くしたアリストスさんと学者貴族さん、それと騎士さん達と年配メイドさんのみ。
誰も僕に無理強い出来なくなったから、どうしていいか分からないみたいだ。
さて、これからどうしたものか。
とりあえず、この兄弟の会話の場を設けたい。
「あのー。すみませんが、騎士さん達は部屋の外にいてもらってもいいですか」
僕が声を掛けたら、アリストスさんの指示を待たずに騎士さん達が全員廊下に出て行った。
王様の命令書の効力すごい。
異世界人の言葉に従えって文章ではなかったはずだけど、王様が僕の存在を尊重しているのは確かだ。意に反するような真似は出来ないって事か。
これで部屋には、僕と年配メイドさん、アリストスさんと学者貴族さんの四人だけとなった。
年配メイドさんは動じた様子を見せる事なく、早速お茶の支度を始めた。
この部屋にいる間は椅子にも座らなかったアリストスさんだが、僕が勧めたら素直に腰掛けてくれた。さっきから放心してるけど、大丈夫だろうか。
学者貴族さんとテーブルを挟んで向かい合うと、やっと状況が飲み込めたようで、複雑な顔をしている。
あんなに望んでいた兄上との対話なのに、お膳立てされたら喋らないのか。僕にしていたように、兄上自慢したらいいのに。
重い空気が流れ、沈黙が続いた。
ここで部外者の僕が口を挟むのは良くない。
隣の寝室に引っ込もうとしたら、学者貴族さんに服の端を掴まれて止められた。仕方ないので、部屋の隅にあるソファーに腰掛ける。
先に口を開いたのは、学者貴族さんだった。
「何故私を屋敷に呼んだ」
苦々しい口調だ。
「何度も言ったはずだ。ここは私の家ではないと」
「……そんな事、仰らないでください」
アリストスさんが反論する。
いつもの強気な態度は消え、口調は弱々しい。
「ヤモリや文政官、果ては王まで巻き込んで、お前は一体何がしたいのだ。侯爵家とはいえ、何でも許される訳ではないのだぞ」
「それは、──」
アリストスさんは終始しどろもどろだ。
それを横目で見ながら、僕はお茶を飲んだ。年配メイドさんは、給仕の為に部屋の隅で待機している。
「はぁ……私が憎いなら放っておけばいいだろう」
「ち、違います!憎いなど!」
「違うだと?散々私の研究の邪魔をしておきながら、では何だと言うのだ!」
学者貴族さんの訴えは尤もだ。
アリストスさんは今まで学者貴族さんの邪魔しかしていない。これで真意が伝わる訳がない。
「あ、兄上に、侯爵家の一員として、あの」
歯切れは悪いが、アリストスさんは自分の気持ちを一生懸命伝えようとしている。それが伝わったか、学者貴族さんは言葉を遮るような事はしなかった。
「──兄上に、爵位を継いでいただきたい、と」
「はァ!?」
しかし、この発言には驚いたようで、思わず声を上げてしまっていた。
学者貴族さんに爵位を継いでもらいたい、その一心で必死になって侯爵家に戻そうとしていたという。
現在爵位を持つアリストスさんは、侯爵家の父親と、同じく別の侯爵家から嫁いだ母親から生まれた正統なアールカイト家の跡取りだ。
しかし、この国では血筋もさることながら、長子かどうかも重視される。学者貴族さんの母親は身分は低いが、間違いなく侯爵家の長子を産んでいる。
どちらが爵位を継いでも問題ないと言える。
「馬鹿な!私にそんなつもりはない」
「でも、兄上は私より優秀ではないですか!学院を首席で卒業され、魔力も申し分ない。私よりずっと侯爵に相応しい」
「私が不出来だと、母上の血筋のせいだと言われるからだ。それが嫌で、私は死ぬ気で努力を重ねて首席を取った。元が優秀な訳ではない」
母親の為に努力を惜しまなかった。
母親が悪く言われるのは耐えられなかったから。
学者貴族さんの努力は、全て母親、ヒルダさんの名誉の為だった。
「しかし、やり過ぎは良くないと後から気付いた。母上の死後、正統な跡取りのお前が居るにも関わらず、私を担ぎ上げる者が一族の中から現れてしまった。だから私は学院を卒業した後、家を出て好きに振る舞うようになったのだ」
「…………ッ」
アリストスさんは黙り込んでしまった。
兄が家を出て行ったのは、自分に爵位を継がせる為だったと告白されたからだ。
ずっと兄が出て行った理由を探し求めていたのに、それがよりにもよって自分の為だったとは。
そんな事とも知らず、執拗に兄を追い回し、追い詰めてきたとは。
自分の行いを省みて、アリストスさんはショックを受けていた。
「兄上が屋敷を出たのは、私のせい……」
「違う。元々卒業したら出て行くつもりだったし、アールカイト家も爵位もどうでも良かった」
どうでもいいと言われ、アリストスさんは顔を強張らせた。
ああ、またすれ違っている。そう思いながらも、僕は二人を見守る事しか出来ない。これは兄弟で乗り越えるべき問題なんだから。
アリストスさんの反応を見て、言い方が不味かったと悟ったのだろう。学者貴族さんは少し考えてから再度口を開いた。
「……あー、アリストス。お前が産まれたから私は自由になれたのだ。もしお前がいなければ、私は跡継ぎとして、ずっとこの家に囚われるところだった」
「え」
「だから、……もう私に執着するのは止せ」
そう諭されて、アリストスさんは目を瞬かせた。
自分のお陰で兄が自由になったと言われ、それが理解出来なかったようで、何度も首を傾げている。
「兄上は、私が邪魔ではない……?」
「研究の妨害さえしなければな」
「私は、兄上に嫌われているとばかり思って」
「父親は大嫌いだが、お前が悪い訳ではない。嫌うはずがないだろう」
その言葉に、アリストスさんは涙を流した。
溢れる涙が頬を伝って下に落ち、ようやく自分が泣いてる事に気付いたのか、慌てて手の甲で乱暴に拭った。
見兼ねた学者貴族さんがハンカチを差し出し、アリストスさんが申し訳なさそうに受け取った。
この瞬間、アールカイト家の異母兄弟にあった長年のわだかまりが氷解した。




