31話・憎しみの目
「よく来たな! さあ早く中に入るがいい!!」
「はっ、はい」
何度来ても学者貴族さんのテンションに慣れない。
僕は週三日ほど王都外れにあるアールカイト家別邸に出向き、翻訳の作業をしている。
二十年前の異世界人、美久ちゃんの遺した教科書やノートは全て日本語で書かれていて、こっちの世界の人には読めないからだ。どういう訳か僕はどっちも読み書き出来るので、日本語から翻訳して紙に書き記すよう頼まれている。
習った事もない異世界の言語が書けるなんて不思議な事もあるもんだ。次元を超える時にそういう能力を授かったんだろうか。
同じチートなら魔法が良かったな。
さて、テーブルの上には社会科の教科書と紙束、つけペンが用意されていた。今日も滞在時間いっぱい翻訳作業をすることになっている。
大体午前十時から午後四時くらいまで、途中お昼休憩を挟むから約五時間は作業をする。
時々、翻訳した内容について質問される。日本の地名や人名、施設名は、こっちの世界の人達には全く馴染みがないものだから仕方がない。
「ヤモリよ、この『ゴミ処理場』とはなんだ!」
「ええーと……生ゴミとか、要らなくなった家具とかを焼いたり埋めたりして処理する施設で……」
「焼く? 魔法を使うのか?」
「魔法なんて使えないし。細かく書いてないけど、なにか油を掛けて燃やしてるんじゃないかな」
「油? 料理用の油か?」
「油の種類までは分からないってば!」
一つの単語に対してこんな感じだ。
それにしても、異世界の小学生の教科書を翻訳して一体何の役に立つんだろう。僕からしたら珍しくもなんともないけど文化の違いが面白いらしく、学者貴族さんやバリさんは楽しそうだ。
まあ、何にもしないで待っているよりは元の世界に戻るために貢献出来てる感じがする。
とはいえ、二百ページを超える教科書が五冊、授業で使うノートが四冊、連絡ノートと自由帳もある。翻訳して書き写すにも時間がかなり掛かる。数日掛かってようやく一冊終わったところだ。
学者貴族さんとバリさんは、僕が翻訳した紙と教科書を見比べて何か議論を交わしている。こうなると長いんだよな。
邪魔しないように部屋を出てトイレに向かう。
この別邸にはメイドさんが最低限いるだけなので、廊下での遭遇率は低い。他人と顔を合わせたくない僕には非常にありがたい。
研究に使ってる図書室から出て廊下を進み、一つ角を曲がった所にトイレがある。もちろん元の世界のような水洗式ではない。いつ入っても綺麗なのは、こまめに掃除がされているからだろう。
手を洗い、部屋に戻るために廊下を歩く。
角を曲がろうとした時に誰かに腕を掴まれ、そのまま後ろに引っ張られた。
バタン!
「え」
なんと廊下の壁の一部が開き、僕はその中に押し込められてしまった。
隠し部屋だろうか、八畳程の何もない空間だ。小窓から光が入ってくるから暗くはない。
入ってきたと思われる方の壁に扉はなかった。おそらく忍者屋敷のからくり扉のように、壁の一部が回転して開くようになっていたんだ。
僕はその隠し部屋の中で、見知らぬ男の人に左腕を掴まれていた。
無言で向き合うこと数十秒。
銀髪、緑色の瞳をした二十代半ば位の男の人だ。僕より頭ひとつぶん背が高い。仕立ての良さそうな立派な服を着ているし、屋敷の仕掛けを利用しているから侵入者ではなさそうだ。
でも、この屋敷では見た事がない人だ。それなのに何故か僕を睨んでいる。
「貴様、ここで何をしている」
「へ?」
それは僕のセリフなんですけど?
そう言い返したくても怖くて何も言えない。だって、この人が僕を見る目には何故か憎しみがこもっているから。
知らない人だし、恨みを買った覚えもない。何をしていると言われても、別邸へは学者貴族さんに呼ばれて来ているだけだ。
しかも、ここには初めて来た訳じゃない。今更こんな風に言われる筋合いはない。
「あの、僕は──」
勇気を振り絞り、言い返そうと口を開いた時。
「黙れ。口ごたえする気か!」
そっちから聞いた癖に!?
ダメだ、話が通じないタイプの人みたいだ。なんか怒ってるし、腕を掴む手の力が更に強くなったし、ここは逆らわない方が良さそうだ。
口を噤んだ僕を見て、銀髪の男の人は顔を顰めた。
「貴様のような者がこの屋敷にいるなど赦されん」
そう呟いて、腰の短剣を抜いた。小窓から入る明かりが剣身を光らせている。
短剣を持ってるなんて気付かなかった。
まさか、僕を刺すつもりじゃないよね?
左腕は掴まれたままだ。逃げられない。
切っ先が僕の顔に向けられている。
少しでも動いたら突き刺されそうだ。瞬きも出来ず、ただ震えるしか出来ない。
「誓え。この屋敷には近付かないと」
そんな事言われても困るんだけど。
即答しない僕に不満があるのか、銀髪の男の人は眉間に皺を寄せ、短剣を振り上げた。
刺される!
そう思った瞬間、隠し扉が開いた。
「何をしている!」
そこから現れたのは学者貴族さんだった。
一目で状況を察したか、僕と銀髪の男の人の間に割って入ってくれた。
短剣は僕から離れた。
学者貴族さんが刺されたら大問題だ。そう思ったけど、銀髪の男の人はすぐに剣を収め、数歩後ずさった。
「何故此処にいる? アリストス」
学者貴族さんが名前を呼んだ。知り合い?
「……兄上」
銀髪の男の人が小さな声で呟いた。
兄上?
この人、学者貴族さんの弟だったの!? そういえば、二人とも綺麗な銀髪だ。瞳の色と顔立ちが違うから気付かなかった。
学者貴族さんの弟なら、別邸の隠し部屋を知っているのも納得だ。
不審者じゃなくて良かった。
いや、それなら余計に疑問なんだけど。何故この人──アリストスさんは、僕をこの別邸から追い出そうとするんだ?
「ヤモリよ。アリストスに何を言われた?」
「えっ、あの」
答えようとしたら、アリストスさんからギロリと睨まれた。言うなという圧を感じる。
その様子から察しがついたのだろう。 学者貴族さんは呆れたように小さく息を吐いた。
そして、離れた位置で固まったまま動かないアリストスさんの方へ歩み寄った。
ビクッと身体を震わせるアリストスさん。
「兄上、これは──」
弁明しようと口を開いたが、学者貴族さんを見て止まった。僕からは見えないが、学者貴族さんは怒っているのか、それとも悲しんでいるのか。
「お前が私を嫌うのは仕方ないが、何もヤモリに手を出す事はあるまい」
「……ッ!」
悲しそうな声でそう呟く学者貴族さん。
それを聞き、思わず反論しようとするも、アリストスさんは何も言えないでいた。
この二人、兄弟なんだよね?
なんでこんな微妙な雰囲気なんだろう。
学者貴族さんの一人称が『小生』じゃなく『私』になってる。なんかよそよそしい。
「コレは辺境伯から借り受けている異世界人だ。勝手に傷付けたりしたら、いかにお前がアールカイト家当主と言えど問題になる」
守られといて文句を言うのも悪いけど、コレ呼ばわりはやめてほしい。
僕が異世界人だと聞いても、アリストスさんは全く驚かなかった。多分知っていたんだろう。
──あれっ?
弟のアリストスさんが侯爵家の当主?
三章に突入しました。
しばらくアールカイト侯爵家にまつわるお話が続きます。




