127話・平穏な日々の終わり
生き別れの母親に会いに行く為、間者さんは僕の護衛から一旦外れ、単身ユスタフ帝国へと旅立っていった。
ノルトンから国境まで約半日。そこから帝都までは、途中の休憩を含めて馬で三日くらい掛かる。もし休み無く駆けていくとしたら、もう少し早く着けるかもしれない。どちらにせよ、帰ってくるまでに最低一週間は掛かる。
本当に帰ってきてくれるかな。
物心つく前に離ればなれになってしまった母親だ。話したい事や聞きたい事もあるだろう。帝国に残るよう引き留められるかもしれない。
そう思ったからこそ魔導具を貸した。あのまま送り出す事も出来たのに、わざと約束をさせた。少しでも帰ってくる理由を増やす為に。
そうでなくても今は戦争の真っ最中だ。間者さんの道程は魔獣や敵兵で危険がいっぱいだ。そもそも無事に辿り着けるかどうか。
「今度はお前が沈んでおるではないか」
「うん……やっぱり心配で」
屋根裏部屋の椅子の上で膝を抱える僕を見て、学者貴族さんは鼻で笑った。彼は何故か僕の部屋に居座り、テーブルで紙に何かを書いている。
「さっきの様子なら、あれは必ず帰ってくるだろう。しかし、なんともまあ過保護な事だ」
魔導具の腕輪を託した事を言っているのか。あれには内臓魔力を消費し、攻撃を弾く風の障壁を発生させる機能がある。安全な場所にいる僕より、これから敵地に向かう間者さんの方が必要だと思ったまでだ。
「で、さっきから何を書いてるの?」
手元を覗くと、何やら図と注釈のようなものがビッシリと書き込まれていた。これ、もしかして注射器?
「左様。あの彫金師に作らせようと思ってな!」
「……ティフォーの血を採る気なんだね」
魔獣の血肉に適合し、驚異的な回復力と身体能力を持つ彼女は、すっかり学者貴族さんの研究対象となっていた。
サウロ王国の古参貴族は体内に魔力を宿し、様々な魔法が使えるが、唯一回復魔法だけは存在していない。つまり、怪我を負えば自然に治るまで待たねばならない。もし研究が進み、例えば回復薬のようなものが作成出来れば、兵士さん達に喜ばれるだろう。
「ヤモリには以前拒否されてしまったからな。ククク、早く血を抜き取ってみたいものだ……」
うわ。
単に針を人に刺したいだけじゃないか。そんな兄を、アリストスさんが微笑ましそうに見守っている。いやいや、全然微笑ましい光景じゃないだろ止めてよ。
「嗚呼、兄上がイキイキとしておられる……それだけでも、あの女を生かしておいた価値はありますな」
こっちも大概ヒドいな。
アリストスさんは兄上至上主義だから、学者貴族さんのやる事なす事全肯定だ。なんだかティフォーが可哀想になってきた。
そういえば、この二人はアークエルド卿から間者さんの監視を頼まれてなかったか? 意外とアッサリ帝国行きに賛同してたけど、良かったのかな。なんか頼まれてたこと自体忘れてそう。
辺境伯邸に留まっている間、ラトスの部屋でお喋りしたり、みんなでお茶したりと、ゆったりとした時間を過ごしていた。こうしてると、今が戦争中だなんて信じられない。
でも、拠点からの伝令や王都からの連絡が来る度に現実に引き戻される。
前線の拠点には王国軍の要として王様がいるから、第一文政官のオルニスさんとは特に連絡を密にしている。ラトスの側に居ても書類仕事は出来る。オルニスさんは毎日決裁の書類を作成し、王様に送っているらしい。王宮から離れても執務から解放されないなんて、王様可哀想。
再び彫金師のお店にお邪魔して、注射器の設計図を見せたら店主さんに困惑された。でも、難しい注文に職人魂に火がついたらしく「既製品より優れたものを作ってみせます!」と意気込んでいた。装飾品からどんどん掛け離れているけど、いいんだろうか。
駐屯兵団の兵舎へも、ちょくちょく顔を出している。オルニスさんからのお見舞いとして、辺境伯邸の料理長が作った栄養バランスの良い軽食を差し入れているのだ。これにはシェーラ王女が同行し、治療にあたる医師や負傷した兵士さん達に手渡して労ってもらっている。
その間、僕達は地下牢に行き、ティフォーから何度か話を聞いた。帝国の中枢に関する情報は知らないようで、皇帝や将軍の事は聞き出せなかった。注射器の話をしたら物凄く怯えられてしまった。彼女の学者貴族さんに対する苦手意識が更に強まった気がする。
間者さんが居なくなってから、あっという間に三日が過ぎた。
ラトスは日に日に回復し、元気を取り戻した。
足元がフラつく事もなくなり、今は療養中に衰えた身体を鍛え直している。護衛のクロスさんの指導で庭園の外周を走ったり、木剣の素振りをしたり。初めはすぐ疲れて根を上げてたけど、だんだんと運動していられる時間が長くなった。
それを陰ながら見守り、はらはらと歓喜の涙を流すシェーラ王女。
辺境伯邸滞在中、彼女はラトスとかなり仲良くなっていた。救出に一役買った件でラトスが感謝し、心を開いたからだ。これまで姉のマイラ以外には基本塩対応だったが、今ではシェーラ王女に対しても笑顔を向けるようになった。かなりの進歩だ。
「そろそろラトスを王都へ移そうと思う」
夕食の席で、オルニスさんがそう提案した。
反対する人はいない。ラトスの体力が戻り、長距離の移動に耐え得るようになるのを待っていたのだから。
「その際には、殿下やヤモリ君、アリストス君達も一緒に行ってもらうよ」
馬車には護衛を付けなくてはならない。その護衛の人数と回数を節約する為には、出来るだけまとめて移動した方が効率が良い。
「お父さまは?」
「私はノルトンに残るよ。戦況も気に掛かるし、陛下から離れ過ぎると仕事の手配が遅れてしまうからね」
「そう、ですか……」
小さな肩を落とし、ラトスは残念そうに呟いた。母親のエニアさんは最前線にいるし、父親のオルニスさんとはこれでまた離れてしまう。マイラに会えるのは嬉しいけど、両親から離れるのは寂しいようだ。
馬車や護衛の手配の都合で、出立は明後日の早朝に決まった。
翌日、ついに注射器が完成した。
店主さんは、初めて手掛けた注射器の出来映えに満足そうだ。最大の懸念であった注射針は製造工程を一から見直し、これまでのものよりかなり細く仕上がっている。それでも、僕の世界の注射針よりはまだまだ太いんだけどね。
「先日の柔らかな金属に着想を得まして、硬度の高い極細金属製の芯に硬度の低い金属を纏わせ、固めてから芯を抜いて針管とし、更に先端を鋭く磨き上げました。外筒と内筒も金属製で、隙間無く作りましたので液体を吸い上げる事が可能となっております」
「でかした! これで血が採れるぞ!」
開発費と特急料金として、学者貴族さんはかなりの額を支払った。店主さんが装飾品より医療器具開発に目覚めてしまうかもしれないな。
開発が間に合って災難なのはティフォーだ。
「なにソレ! ヤダやめてよ!!」
いつもは強気なティフォーが半泣き状態で、地下牢の壁に背を張り付けている。鋼鉄製の扉の格子の隙間から、学者貴族さんが注射器を差し込んで手招きをしているからだ。
「ほぉら、怖くないぞ。さっさと腕を出せ」
「い、嫌よ。何だか知らないけど怖いし!」
そりゃ怖いよなあ。
針はともかく、学者貴族さんが不気味な笑みを浮かべていて気持ち悪い。あれで近寄ってもらえると思ってるのか。
「さぁ、早く小生の側に来い。完成したばかりの注射器の性能を試してみたいのだ……」
どっちが悪役だか分からない絵面だな。
ティフォーは首をぶんぶん横に振り、距離を取っている。狭い独房だが、流石に鉄格子から手を伸ばしても向かいの壁までは届かない。
「仕方ない。看守に鍵を開けてもらうか」
「っ! イヤぁ!!」
どこの世界に、牢屋の鍵を開けられるのを嫌がる囚人がいるんだ。でもまあ、この状況じゃ無理もない。
「学者貴族さん、もうやめなよ。ティフォー泣いてるし」
「な、泣いてないわよ!」
ムキになって否定するが、涙目は隠せていない。なんだか寄ってたかって女の人を虐めているみたいで申し訳ない気持ちになってくる。
「しかし今採らねば、我らは帰らねばならんのだぞ!」
「そうだけどさ、無理強いは良くないよ」
「兄上がなさりたいようにするのが一番です。どれ、私が看守から鍵を借りて参りましょう」
「アリストスさん!」
独房の扉の前でああだこうだと言い合う僕達を、ティフォーがポカンとした表情で見ている。
「……アンタ達、どっか行くの?」
「うん、明日ね」
「……そう」
心なしか、ティフォーが気落ちしているように見えた。僕達が居なくなれば誰も面会には来ない。もし来るとしたら、次は死刑執行の呼び出しだ。
ティフォーは帝国の手先で、ラトスを誘拐し、危うく殺し掛けた大罪人だ。でも、彼女がこうなった事情を知って以来、何故か憎むことが出来なくなっていた。だからといって、やった事を許すなんて出来ないけど。
こんな馬鹿なやり取りでも、繰り返すうちに親しみを感じ始めていた。僕達の意識が変わったように、ティフォーもどこか変わったように見える。
「じゃあ、もう行くね」
「え、ええ……」
「ヤモリ、待て! まだ血を採ってない!」
「もー、いいから早く行くよ!」
学者貴族さんの襟首を掴んで兵舎の階段を登る。
広間では、何故かシェーラ王女が黒板に幾つかの陣形を描き、負傷兵達に兵法の講義を行っていた。待たせ過ぎて間が持たなかったのだろう。普段の天使のような慈愛の表情が一変し、鬼教官と化している。
「よろしいですか! 軍隊運用に於ける陣形とはつまり、防備を固め、攻撃力を集中させるもの。決して形式だけのものではありません! 必要に応じて使い分ける事で、貴方がたの戦力を何倍、何十倍にも──」
「シェーラ王女、帰るよー」
「あら。……では、続きは王国軍発行の兵法書全十二巻を参考になさってくださいね。ごきげんよう」
僕が声を掛けると、シェーラ王女はすぐにお淑やかな少女に戻った。半ば強制的に講義に参加させられていた負傷兵の皆さんは、ほっと安堵の溜め息を漏らしている。
将来、もしラトスとシェーラ王女が結婚する事になったら彼女は辺境伯夫人になるんだぞ。そうなれば、辺境伯お抱えのノルトン駐屯兵団は彼女によって座学から兵法を叩き込まれる事になるだろうな。
「……明日には、この街ともお別れですのね」
馬車に揺られながら、車窓から昼下がりの大通りを眺める。シェーラ王女は感慨深そうだ。大好きなラトスが生まれ育った街だ。幾ら見ていても飽きないみたい。
「むぅ。折角作らせたというのに」
「兄上、おいたわしい……」
注射器の入ったケースを懐に仕舞いながらブツブツ文句を言う学者貴族さんと、その兄に同情するアリストスさん。いい加減諦めてほしい。
もうすぐ中心街、という所で異変が起きた。
無数の獣の咆哮。
徐々に大きくなる地響き。
すぐに路肩に馬車を止めさせ、アリストスさんが飛び降りて周囲を見回した。街の中に異常はない。道行く人々はその場に立ち止まり、不安げな表情で音のする方を見つめている。
南だ。
南門の方を見れば、城壁の向こう側に砂煙が上がっていた。鳴き声と音、そして砂煙の量から察するに、何百匹もの獣がノルトンに向かって近付きつつあるようだ。
「ヤモリ殿! 殿下と共に馬車で辺境伯邸へ!」
「でも、」
「早くしろヤモリ。オルニス殿に知らせるのだ」
学者貴族さんも馬車を降り、アリストスさんと南門へと走っていく。二人を追い掛けるように、アールカイト家の隠密さん達が周囲から飛び出していった。街の防衛の手助けをしに行ったんだ。
「シェーラ王女、これって」
「ええ……魔獣の襲撃、のようですね」
また一波乱起きます。
応援よろしくお願い致します。




