112話・災厄を招く声
深夜、また魔獣が大量に押し寄せてきた。
高さ五メートルはある国境の壁を数の力で乗り越え、サウロ王国側へと侵入してくる。夜中の奇襲はこれまでも何度もあった。その度、国境を警備している第四師団は特に苦戦する事なく数百匹の魔獣を次々と倒していった。
僕は遠くから聞こえてくる獣の断末魔で目が覚めてしまい、毛布を被って震えていた。拠点に居れば安全だと分かっているけど、怖いものは怖い。
──おぎゃあ、おぎゃあ
獣の遠吠えの合間に、全く違う泣き声が混ざった。現場からはかなり距離があるはずだが、風に乗って拠点まで届いているようだ。
空耳かと思ったけど、兵士さん達も起き出してザワザワしている。気のせいじゃない。
やっぱり、赤ちゃんの泣き声だ。
恐る恐る出入り口の布を捲って顔を出すと、天幕の側に控えていた間者さんと目が合った。そのまま這い出して隣に立つ。
「……今の、聞こえた?」
「赤ん坊みたいな泣き声っすね」
こんな所に赤ん坊なんて、と呟きながら耳を澄ませ、泣き声のする方角を探す間者さん。
目の前には他の天幕がたくさん並んでいるから、魔獣の姿は見えない。夜中だから拠点以外の場所は当然真っ暗。現場の兵士さん達は、数十メートルおきに設置された篝火や松明の明かりを頼りに戦っている。
薄暗い中で魔獣の相手をするなんて、慣れていなければ出来ない事だ。
「この泣き声、キサン村の時も聞こえたんだ。その時は白の魔獣が群れで襲ってきた」
「え。そうなんすか」
これまで国境の壁を乗り越えて襲ってきた魔獣の中には、白の魔獣はいなかったと聞いている。それだけ希少な存在という事だ。魔獣の中で最も強い存在。黒や灰の魔獣とは比べ物にならない。
暗い中で戦えるような相手ではない。
「もし白の魔獣が混ざっていたら、今夜は月明かりもないし、一般の兵士さんだけじゃ危ないかも」
「りょ、了解! 辺境伯に進言してくるっす!」
師団長達が詰めている大型天幕の方に走ろうとして、間者さんはすぐに踵を返した。
「ヤモリさんも来て。一人じゃ危ないから」
「う、うん」
大型天幕には常に指揮官クラスの誰かが居る。不測の事態に備え、いつでも迅速な指揮・対応をする為だ。
この時間は、アークエルド卿と辺境伯のおじさんが寝ずの番をしていた。外の騒ぎには既に気付いており、既に呼び付けた兵士長さんに何やら指示を出していた。
「おお、なんじゃ。起きてきたか」
兵士長さんと入れ替わりで入ってきた僕達を見て、辺境伯のおじさんが声を掛けてきた。
「あの、多分、白の魔獣が来ると思います」
「なに?」
「聞こえますよね、赤ちゃんの泣き声。これ、キサン村の時と同じで」
「いや、しかし──」
辺境伯のおじさんが何か言おうとした時、拠点の北側から悲鳴が上がった。
天幕から出て周辺を見回すと、そこには慌てふためく兵士さん達の姿があった。何処からか分からないけど、魔獣が走り回っている気配を感じる。
拠点内に魔獣が侵入したんだ。
国境付近の巡回は交代制で、拠点にいる者達はみな休憩中だ。だから、鎧や武器は外している。もちろん、寝ずの番で警備に当たる兵士達はいる。しかし、不意を突かれたせいで対応が後手に回っていた。
しかも、警備は主にユスタフ帝国との国境側……南側に集中しており、それ以外は手薄となっている。
今回、拠点を襲った魔獣は北側からやってきた。明らかに、こちらの警備体制を知った上での襲撃だ。
「北じゃ、エクセレトス!」
「うむ。行くぞグナトゥス!」
辺境伯のおじさんとアークエルド卿は、すぐに自分の得物を持って天幕から飛び出していった。
ここは拠点の中央にあり、騒ぎの起こった北側に程近い。しかも、身分の高い人用の天幕が並んでいる。
大型天幕から出て周辺の様子を伺うと、警備担当の兵士さん達がシェーラ王女の天幕の周囲を固めているのが見えた。この拠点で一番身分が高いのはシェーラ王女だ。兵士さん達以外に王族専属の隠密さん達もいるし、アーニャさんも側にいる。余程の事がない限りは大丈夫だろう。
自分の天幕に戻ろうか、大型天幕に残るか。どうしようかと迷っていた時、間者さんがある事に気が付いた。
「……ヤモリさん。赤ん坊の声、上から聞こえる」
「上?」
夜空を見上げ、僕に告げる間者さん。
僕も目線を向けてみたけど、篝火の明かりに目が慣れてしまい、暗闇の中に何も見つける事が出来なかった。
途切れ途切れに聞こえてくる泣き声。言われてみれば、遥か上空から響いているように思える。
空飛ぶ赤ちゃん?
いや、鳥の鳴き声かもしれない。それが拠点の上空から聞こえ、それを追うようにして魔獣が襲ってきた。やはり、偶然なんかじゃない。
ドン、という大きな音と地響きがした。
さっき辺境伯のおじさん達が向かった北側のエリアからだ。魔獣の相手をしているのだろう。その後も断続的に剣を振り回す音と獣の咆哮が響く。獣の鳴き声は一匹や二匹ではない。最低でも五匹はいる。
「……何の騒ぎだ」
すぐ側の天幕から、眠そうな目をした学者貴族さんがのそりと這い出してきた。熟睡していた所を起こされたせいか、かなり機嫌が悪い。左右にアールカイト家の隠密さんが控えている。
「えっと、拠点に魔獣が入り込んだみたいで、いま辺境伯のおじさんとアークエルド卿が対応してる」
「ふむ。まあ、あの二人ならば加勢は要らんか」
そう言って、学者貴族さんは寝直す為に自分の天幕へと入ろうとした。だが、入り口の前で身を屈めた瞬間パッと振り返り、斜め後ろに向け素早く電撃を放った。
「ギャンッ!」
短い悲鳴を上げて地面に落下したのは、大型犬に似た姿をした白の魔獣だった。背後から僕達に飛び掛かろうとした所を電撃で落とされたのだ。
多少手脚が痺れてはいるが、この程度では白の魔獣は倒せない。学者貴族さんは畳み掛けるように雷を放ち、魔獣が起き上がれないよう制圧した。
「ふん。小生の眠りを妨げおって」
完全に麻痺させてから雷を止め、隠密さんが短剣でトドメを刺した。普通の剣では刺さらないほど硬い毛皮なので、かなり苦労はしていたけど。
それにしても、こんな中心部にまで魔獣が入り込んでいるなんて。
拠点内は大小の天幕が並んでいる。一度物陰に逃げられてしまえば、バッタリ遭遇するまで気付けない。他にも魔獣が潜んでいる可能性がある。
「安全が確認出来るまでは寝れんな」
「そ、そうだね。アリストスさんは?」
「昼間、魔導具に魔力を注ぎ過ぎてな。暫くは起きん。その方が静かで良い」
あれだけ魔力を使い果たすなと言っておいたのに。
キューブに魔力を補充するのも重要だけど、いざという時に自分の身を守れないと困るだろうに。まあ、隠密さん達が周辺を警戒してるから大丈夫か。
北側からは剣が空気を切る音が聞こえている。
辺境伯のおじさんとアークエルド卿の二人掛かりで、まだ倒せていない?
複数同時に相手にしているのか。それにしても時間が掛かり過ぎている。あの二人が苦戦する程の魔獣が襲ってきているとしたら。
「ヤモリさん、危ないッ!」
「え」
突然、隣にいた間者さんに突き飛ばされた。
さっきまで僕が立っていた場所の地面が大きく抉れ、土煙が上がる。
幸い突き飛ばされた先にいた学者貴族さんに抱えてもらい、尻餅をつく事はなかった。
「気を付けて。何かいるっす」
何かってなに?
その言い方から、間者さん自身もさっき襲ってきたのが何なのか分かっていないようだ。とにかく、こちらに敵意を抱いた『何か』が近くにいるのは確かだ。
全員で辺りを見回す。
篝火に照らされている範囲には何も居ない。
天幕の陰に隠れた?
それとも逃げた?
しかし、そうではなかった。
「カルカロス様、あちらに」
アールカイト家の隠密さんが、とある天幕の上を指差した。そこには、大型犬くらいの大きさの獣が乗っていた。鋭い爪を天幕の布に食い込ませ、じっとこちらを見下ろしている。
獣の体毛は白に赤がところどころ混じったような色に見えた。返り血だろうか。
額に角がある。魔獣だ。




