104話・陽動作戦 2
国境の壁まで約五百メートル。
辺りは草木が綺麗に刈られて見晴らしが良い上に、帝国兵が数多く巡回している。気付かれずに移動するのは不可能だ。
そこで、間者さんが陽動をする事になった。
帝国兵の野営地に行き、騒ぎを起こして注目を集める。その隙に僕達は馬で国境に向かう、という作戦だ。
野営地には大きな天幕が幾つもある。コルビの街で聞いた噂が確かならば、ユスタフ帝国の皇帝がいるかもしれない。警備はかなり厳重だろう。
そんな危険な場所に一人で大丈夫だろうか。
僕達の潜む茂みから野営地までは約一キロ。遠目に天幕が見える程度だ。あちらで騒ぎが起こったら、隠密さんが合図してくれる事になっている。
間者さんが離れてから十五分後、野営地の方から黒煙が上がった。篝火や煮炊きの白い煙とは明らかに違う。
隠密さんからも、野営地に混乱が起きていると報告がきた。
しかし、僕達に近い場所にいる帝国兵達は変わらず巡回している。彼らをあちらの騒ぎに気付かせる必要がある。
隠密さんが事前に捕まえておいた数羽の野鳥を野営地の方へ放つ。翼を羽ばたかせて逃げていく野鳥達が大きく鳴き、周辺の帝国兵の気を引いた。
振り返った時に黒煙に気付き、帝国兵達が明らかに動揺した。慌てて野営地に戻っていく。
「今だ!」
アリストスさんは手綱を握り直し、馬の腹を軽く蹴った。僕達の乗った馬は勢い良く茂みから飛び出し、国境へ向かって走り出した。
周辺の帝国兵はみな野営地の騒ぎに気を取られ、誰も僕達に気付いていない。間者さんが危険な役を買って出てくれたお陰だ。
そのまま走り続ける。
ところが、国境の壁まであと百メートルの所で急に馬が脚を止めた。
「どうした、早く走らんか!」
アリストスさんが首を撫でて宥めても、馬は二頭とも動こうとしない。何かに怯えているのか、その場で足踏みを繰り返している。
「あと少しだ。馬を置いて走るか」
「仕方ありません、そうしましょう」
学者貴族さんは僕を抱えて馬から飛び降りた。続けてアリストスさんも馬から降りる。主人が降りても、馬達は前に進む気はなさそうだ。
「一体どうしたというのだ」
帝国潜入の供に選んだ馬だ。普段は魔獣に遭遇しても怯む事はない。それなのに、何故。
自分の足で走り、国境へと向かう。
あと五十メートル。
その時、僕達の上を大きな影が通り過ぎた。
灰色の翼が羽ばたき、辺りの砂を巻き上げる。
それは、大きな鳥のように見えた。
「これは、まさか」
僕の前を走っていたアリストスさんが小さく呻いた。
頭上を通り過ぎ、前方の地面に舞い降りたのは、大きな鳥──というか。
「……ドラゴン……?」
体長十五メートル程の灰色のドラゴンが、僕達と国境の間に立ちはだかっていた。
岩のような鱗と翼、鋭い爪。爛々と輝く黄金の眼がこちらを見下ろしている。ドラゴンの額には小さな角がある。魔獣だ。頭のある位置は、地面から四、五メートルくらいの高さだろうか。
こんな大きな生き物、初めて見た。
「……成る程な。馬が怯える訳だ」
「竜の魔獣、か。実物を見るのは初めてだ」
学者貴族さんもアリストスさんも、これ以上進めず立ち往生を余儀なくされた。隠密さん達が僕達を庇うように周囲に立ち、短剣を構える。
「あーあ。ホンット予想通りの動きだね」
頭上から呑気な声が降ってきた。
この声には覚えがある。
「イ、イナトリ……さん」
「ひさしぶりー、明緒クン」
ユスタフ帝国に味方する異世界人、イナトリ。彼は目の前にいるドラゴンの背中に乗っていたのだ。今は少し移動して、慣れた様子でドラゴンの肩に腰掛けている。
そして、イナトリは僕達を馬鹿にするかのように口の端を歪めて笑った。
突如現れたドラゴンと、その背に人間が乗っていた事に驚き、アリストスさんと学者貴族さんは呆然としている。しかも、その人間と僕が面識がある事にも驚いているようだ。
「ヤモリ殿! あの者と知り合いなのですか」
「あ、うん、なんというか、その」
アリストスさんに問われて口籠もる。
知り合いかと言われればそうなのだが、知ってるのは名前くらいだ。それに、イナトリには酷い扱いを受けた。
「味方……では無さそうだが」
「……帝国側の人だよ。ラトスを誘拐して、僕の身柄を要求してきた張本人」
それを聞いて、二人が身構えた。
アリストスさんが腰の剣に手を掛け、一気に引き抜いた。刃に炎が宿る。学者貴族さんは両手に小さな雷の塊を出した。
それを見て、イナトリが目を見張る。
「わ、この人たち魔法使い? やっぱサウロ王国には魔法使いがいるんだー。初めて見たよ」
ドラゴンの肩に座ったまま、身を乗り出して二人を見つめるイナトリ。眼鏡の奥の瞳が妖しく光る。
彼は魔法に興味があると言っていた。ユスタフ帝国には魔法使いが居ないらしいから尚更だろう。
「いいなー、明緒クンの周りには魔法使いが居て。ボクも魔法使いが欲しいなぁ」
イナトリはドラゴンの頭を抱くようにして顔を寄せ、何か囁いた。すると、それまで大人しくしていたドラゴンが急に雄叫びをあげた。
辺り一帯に響く咆哮。
マズい、帝国兵がこちらに気付いて戻ってきてしまう。せっかく間者さんが野営地で騒ぎを起こして、兵を引き付けてくれたのに。
「あんな見え透いた陽動で、ボクのウラをかけると思ってたの? バレバレだよ」
そうか。
帝都からサウロ王国に入るには必ず国境を越えねばならない。だからこそ僕の脱走を知ったイナトリは、ここでずっと待ち構えていたんだ。
当然、急に騒ぎが起きれば怪しまれる。
先にイナトリの存在を二人に教えていたら、何か別の策を考え付いたかもしれない。でも、自己保身の気持ちから僕はそれを避けてしまった。
僕は情報の重要さを考えるべきだった。
その所為で見つかった。
これは僕の失態だ。
「帝国兵が戻ってきたら面倒だ。アリストス、強行突破するぞ!」
「分かりました兄上!」
まずはアリストスさんが剣を振るい、炎の斬撃を飛ばした。距離が近い上に的が大きい。正面に立つドラゴンの腹部にクリーンヒットする。
「炎が飛ばせるんだー! かっこいー」
確かに命中した筈なのに、ドラゴンは身動ぎひとつせず立ったままだ。腹部の鱗は多少表面が黒くなっているが、ダメージは全く無い。
「ならば、これはどうだ!」
続けて、学者貴族さんが雷を落とした。何本も稲妻が走り、ドラゴンとイナトリを襲う。だが、ドラゴンは翼を広げ、背中に移動したイナトリを守るように覆った。雷は全て当たったが、これもダメージを与える事が出来ない。
翼が戻され、イナトリが平然とした表情で顔を出した。こちらも全く雷の影響を受けていない。
このドラゴン、魔法に強い!
しかも、鱗が硬く分厚いので、剣を突き刺す事が出来ない。隠密さん達が短剣で脚を狙うが、刃が欠けるだけで通らない。
アリストスさんが炎を纏わせた剣で直接斬りつける。が、これも弾かれてしまった。
「なんと!」
「竜とは厄介な存在ですな」
二人はドラゴンから距離を取った。その周囲を隠密さん達が固める。
剣や魔法が効かない以上、こちらには決定打となる攻撃手段がない。国境まであと僅か。隙を突いて向かう他ない。
ただ、このドラゴンは空を飛ぶ。
僕達が国境の壁を越えられたとしても、それを軽々飛び越えて追い掛けてくるだろう。こんな恐ろしい生き物をサウロ王国側に侵入させたくない。
「魔法使い、捕まえちゃおっかな。貴族なんだっけ? 人質にも良さそうだし、ちょうどいいよね」
どうしたらいい?
どうすれば逃げられる?
考えても、焦りと恐怖で何も浮かばない。
ふと、イナトリの服が目に入った。
僕の兄と同じ、超進学校・将英学園のブレザー。ここの生徒という事は、イナトリはかなり頭が良いはずだ。つまり、生半可な策では隙も作れない。
イナトリに勝つには、僕じゃ駄目だ。
明緒じゃなくて、もっと優秀な往緒なら。
考えろ。往緒ならどうする。
今こちらにある戦力だけで、イナトリとドラゴンを出し抜き、あわよくばダメージを与える策を考えるんだ。




