団長視点
セリから預かった封筒を、侍従の手を通して王弟殿下に渡す。
今日はどうやら仕事をする気は無いらしい。常になく積み重なった書類を脇に、王弟は窓の外を眺めていた。
「王弟殿下、こちらセリから預かって参りました」
後ろに従っていたクラウドがそう言えば、王弟はようやく顔を上げて、誰に向ける訳でも無くカップ越しに微笑んだ。
侍従に手にしていたカップを渡し、封筒を受け取る。
最近知ったのだがセリは物語の紡ぎ手らしい。素晴らしい特技だと思う。
市場に出る前に王弟殿下が校正しているのだとセリから説明があった、が、それが果たしてこの方で良いのか聊か疑問である。殿下は嗜好はともかくとしてその知識は神に及ぶとすら言われる程の方。間違いでは無い、無いのだが、果たして正しい方向に校正してくれているのか不安になる。
恐らくクラウドもそうなのだろう。王弟殿下よりそれを専門にするような文官に任せるべきでは無いか、と思っているのが顔にありありと書かれていた。
尋常では無い速さで原稿を捲り、視線を滑らせる。
その間、約十分程だろうか、常人では有り得ない速さで読み終えた王弟殿下は、ふっと小さく笑って原稿を机に置いた。
余韻を楽しむように腕を組み目を閉じる。後、長い睫が数回瞬いた。
「……セリは何か言っていたかい」
以前の様に存在を忘れられていた訳では無いらしい。
特には、と言いかけて、そう言えば、と思い出す。しかし今更感の強いそれをわざわざ王弟殿下に告げるのも聊かおかしい気がした。しかしそんな些細な変化を彼は見逃さなかった。
何かあったんだろう、とばかりに首を傾げる。
同じ様に黙っていたクラウドの名前を呼ぶと、王弟殿下は自分にではなくクラウドに同じ問いを繰り返した。
「名前を呼んでいいか、と尋ねられました」
クラウドは少し迷う様に間を置き、そう答えた。
自分もその唐突さと、今更――と、少なからず驚いた。けれど同時に、そう言えばずっと『団長』と呼ばれているな、と気付いた。そう、そこで『気付いた』。セリはようやく自分達に歩み寄ってくれたのだと。
クラウドが気付かないのは、若さ故か。
答えたクラウドは少し苦い口調だった。
彼にして見れば、名前を覚えて貰っていなかったのか、という思いと、実際に想いを寄せる異性に愛称を呼ばれた嬉しさが入り混じり、複雑な心境なのだろう。
「へぇ……セリがねぇ」
「ええ、あの鈴のような愛らしい声で呼んでくれて、とても愛らしく感じました」
その時の事を思い出しているのだろうクラウドは、緩く微笑む。普段から穏やかな微笑みを絶やさない彼にしては珍しい素の表情。
花が飛んでいる状態というならば、今がそうなのかもしれない。
気付かない方が幸せかもしれない、と思ったその瞬間、王弟は呆れたように溜息をついた。
「君も神官長も馬っ鹿だねぇ。全く同じ事言ってるよ。だから出逢いは君達の方が早いのに横から掻っ攫われるんだよ」
――ああ、言ってしまうのか。
黙っていればいいものを、などと不敬な事を思って頭を抱えたくなる。
最近セリに対して目に余る行動を起こすクラウドと神官長を止めるのが、自分の仕事になっている気がする。
訝し気に眉を寄せたクラウドに、王弟殿下は丁寧に言葉を続けた。
「セリが君達を名前で呼ばなかったのはわざとだよ。深入りしたくなかったんだろう、もしくはこの世界に根を下ろしたくない、っていう気持ちの表れだったんじゃないの。そんな頑ななセリの心を奪った――までは、まだいかないかな? 解した誰かがいるのは確かだねぇ」
付け足された言葉は、クラウドだけでなく自分をも刺した。
何となく気付いて、できれば深く考えたくなかった事。
変化、があったのならば、そうさせる何かがあった事は物の道理である。
保護者代わりとしてその相手が誰か突き止めておきたい所だが、しかしそれよりもクラウドの行動が気になった。そして案の定。
「急用を思い出したので、失礼します!」
返事も聞かない失礼極まりない退出だが、王弟殿下は気にした様子も無い。
追いかける前にクラウドの不敬を謝罪しようと、王弟殿下に視線を戻して、少し奇妙に思った。彼はいつも通り読めない微笑みを浮かべて、クラウドが去った扉を見ていた。
王弟殿下は明らかに彼女を、セリを気に入っている。
思えばこの方が、ここまで一人の女性に自分から積極的に関わろうとした事は今まで無かった。
「殿下は――宜しいのですか」
そう尋ねてしまったのは、いつになく自分に近く感じたからかもしれない。
自分とセリとの関係は、神官長やクラウドとは違う。恋愛というよりは親が子に持つ情に近いだろう。
彼女がカラタ族では無いと気づいた時に、そう思った。否、そう思おうとした。そして、そう結論づけた。
しかし例えば――自分に地位などなく、もう少し若かったのならば、と頭の片隅に過ぎったのも否めない。けれどやはりセリの隣に並ぶ自分の姿は、どうしても想像出来なかった。
主語の無い自分の問いに、王弟殿下は手の甲に当てていた顎をほんの少し持ち上げた。少し驚いたような滅多に無い、いや、初めて見る表情に、おそらく自分の方が動揺した。『あの』王弟殿下の素の顔が見れる日が来るなんて。
しかし、それは瞬くほどの間。
王弟殿下はそのまま緩く口の端を持ち上げた。
「僕は大事なものを大事に出来ないからね」
問いかけた視線を切るように、王弟殿下はセリから預かった原稿に再び視線を落とした。
「それにセリは貴重な同士だしね。次は何を書いて貰おうかな」
艶やかに唇に指を置き、微笑んでそう言った王弟殿下は、すっかりいつもの彼だった。
けれどいつものあの読めない笑顔も今日はいささか精彩さに欠けていると思うのは、やはり感じる奇妙な連帯感のせいかもしれない。遠い昔に置いてきた届かないものに焦がれるような。
「失礼します」
迷いを振り切るようにそう言って頭を下げる。
クラウドは恐らく既に引っ越した孤児院に向かおうとしているだろう。
さすがに不憫かと思い直しクラウドを追いかけるべく礼を取り、執務室から出た。




