騎士視点
――騙されていた。
怒りと戸惑いと羞恥と込み上げる感情が抑えられず、驚いて追いかけてきた執事を振り切るように自室へと戻った。
力任せに扉を閉めて鍵を掛ける。
扉一枚隔てたその場所にしゃがみこみたくなる衝動を堪えて、足を進めるとソファへと倒れるように座り込んだ。
セリ殿は母と同じカラタ族では無く、ずっと私を騙していた。
それだけが繰り返し頭の中にこだまし、この身を苛む。
同胞が惨たらしい死を迎えていたであろうその瞬間、自分は呑気に友人達と酒を酌み交わし談笑していた。
カラタ族惨殺事件を聞いてから、鏡を見る度に映る自分の持つ黒髪と黒い瞳が厭わしく負い目を感じて、騎士を辞する覚悟を決めた。その矢先に出逢ったのがセリ殿だった。彼女はあまつさえ自分の髪まで犠牲にして、私の弱さを受け止め、その罪を赦してくれた。
そう、信じていたのに。
……思えばセリ殿がカラタ族の事を話した事は無く、否、思い出す事が無いように敢えてかなかったのは自分。
しかしそれ以外にも、振り返って見れば奇妙に思える発言や行動は確かにあった。
それが全て嘘だと見抜けなかった自分の何と滑稽な事か。
彼女はきっと、その恩に報いたい、守りたい、それが出来ぬならせめて少しでも役に立ちたいと願う私を嘲笑っていたのだろう。
組んだ拳を握り締めて唇を噛む。
指先一つ動かす事すら億劫で、その状態のまま微動だにせず、数十分程経っただろうか。
不意に近づいてくる複数の気配に気付いて、舌打ちしたい気持ちに駆られた。
『――お待ち、くだ……』
『案内はいらない。下がれ』
低く朗々とした声は、扉越しだと言うのによく響く。
控えてくれていた執事にセリ殿との会話は聞こえずとも、ここまでやっていた自分の様子から何かあったのは察したのだろう。
何も言わずに部屋に篭ったにも関わらずおそらく私の気持ちを汲んだ上で、団長を引きとめようとしてくれているのだろう。しかし代々家に仕えてくれている優秀な執事と言えども、本気になった騎士団長を止める事など不可能だ。
「クラウド」
予想通り瞬く間に、張りのある強い声が扉越しに自分の名前を呼んだ。
深く息を吸い込み、未だ荒ぶる感情を飲み込もうとはするが、そううまくいくはずも無い。
出来うるならば、今は誰にも会いたくない。
しかし扉越しにそう言って帰るくらいなら、本来温厚な団長は執事を振り切ってまでここに来たりはしないだろう。
それに、私が部屋から出てからかなりの時間が経過している。あの後、私と同じ立場だった団長達が彼女とどんな話をしたのか気になった。……自分と同じ様に酷く彼女を責めていれば良い――漠然とそう思う。
「クラウド」
再び呼び掛けられる声は、先程よりも低く窘める響きがあった。
次は強行突破する、と言外に示すような強い意思を感じ、せめてもと重苦しい胸から吐息を一つ吐き出して、立ち上がり扉に向かう。
ノブを回すと力づくで押し入る気だったのか、少し離れた場所で緩く構えた団長がいた。
……どうやら扉を一つ無駄にせずに済んだらしい。
皮肉混じりにそう思い、「どうぞ」と中へと促した声は、自分でも分かるくらい強張っていた。
ショウタを預かっている時に団長は、何度からこの部屋に入った事がある。
慣れた様に私が座っていたソファに腰を下ろすと、騎士らしからぬ粗野な仕草で足を組んだ。
そんな団長から自然と距離を空けるように窓の方に向かう。
自然とガラス越しに庭を見下ろして、失敗した事を悟った。
眼下には母が愛したという緑豊かな庭園と、外扉。
そこにはセリと神官長の姿があった。
遠目からでも分かる神官長の髪が日に照らされ眩しいくらいに輝いていた。しかし、その真逆の様なまだたない色合いの小さな頭に自然と目が吸い寄せられ、視線を逸らす。
ぐっと握り締めた拳が背中越しに分かったのだろう。
団長は静かに、口を開いた。
「今帰ったところか」
はっと振り返ったその時には、団長は少し首を伸ばしクラウド越しに窓の向こうを見ていた。団長は越を下ろしたまま。あの角度からでは見えない。きっと自分の様子を見てそう判断したのだろう。
咄嗟にカーテンを引いた。
力ずくだった為カーテンを纏めていたタッセルが無残に千切れ、絨毯に落ちる。そこに影は無く、一番大きな窓を塞いだ事で部屋は少しだけ暗くなった。
これならば、自分の顔を団長に見られずに済むだろうか。
ガラスに映った自分の表情は酷いものだった。まるで今にも泣き出しそうな幼い子供のような。
「……一つだけ確認したい事があってな」
そんな私の心を知ってか知らずか、団長は押し入って来ようとした勢いなど忘れた様に、ゆっくりと口を開いた。
「なんでしょうか」
探るような物言いに警戒心が沸く。
「ショウタにも孤児院にも何もしないな?」
一瞬何を言われたのか分からず、頭の中で反芻し理解した瞬間、かっと頭に血が昇った。
自分はそんな人間だと思われていたのか、と憤り、しかしすぐに部屋を出て行った時の自分の態度を思い出して自嘲する。
確かに無様な事をした。物に当たるなどと、我ながら子供染みた真似である。
そのすぐ近くで震えた小さな肩。
自分の怒りを知ればいい、と、暗い喜びを覚えたのは恐らく気のせいでは無い。そんな惨めな思いを抱えるほど自分はどこまで彼女に心を移していたのか。
「孤児院の寄付の事ですか。そこまで人として堕ちていませんよ。ショウタに関しても……彼は、思えば最初から自分はカラタ族では無いと言い張っていましたし」
セリは全て自分が指示したのだと言った。
翔太は性格こそ歪んでいるが――まだ幼い。いつも煮え湯を飲まされていたとはいえ、彼に関して何かしようとは思わない。
しかし、セリ本人に対しては、……到底赦すことなど、出来ない。
「では良い」
団長はそう締めると用件は済んだ、とばかりに沈黙した。
セリへの態度に対して何か言われるのだろうと思っていただけに、軽く拍子抜けして彼の様子を窺う。
いつも動かぬその表情。しかし今は僅かながら苛立ちが見て取れる。それは団長すら謀っていた彼女へ向けられたもの、――では無い。少し冷えた頭で思い返せば嫌な事実に気付いた。
「団長は驚いていませんでしたね。まさか知っていたのですか」
ようやく思い至り、そう尋ねれば返ってきたのは沈黙だった。
おそらくそれが示すところは肯定なのだろう。ますます自分の愚かさに吐き気まで込み上げる。
思えばあの中で自分ひとりが狼狽していたようにも思える。
では神官長も? そう思って心の中だけで首を振る。
世間知らずな所があると言っても清廉潔白を絵に描いた様な彼がそれを知り、自分と話を合わせているとは考え辛かった。彼ならばきっとセリが内緒にしてくれと頼んでもきっと態度に出るだろう。
では何故団長だけが知り、自分達は何も知らされなかったのか。
セリが言ったのか、それとも団長が気付いたのか。恐らく説明したセリの口振りから察するに後者だろう。分かるのは自分が酷く滑稽だった事だけだ。酷い頭痛がする。
くしゃりとかきあげた髪の向こうで、団長が小さく溜息をついたのが分かった。
それから真っ直ぐに強い意志を込めた瞳が私を貫く。
「セリが街に来た時の状態を知っているか?」
彼女を庇うつもりなのか、咄嗟にそう思って皮肉が笑みとなり口元に浮かぶ。
本当は今は何も考えたくない。しかし、その落ち着いた声を脳が命令と置き換えて意思を裏ぎり素直に答えようとする。叩き込まれた習慣が今は恨めしい。
……しかも、セリ殿が街に来た時の状態などど。
一時期騎士隊内ならず王宮でも話題になった。なんて哀れな娘なのだろうと。
一度だけ耳にした噂はわずか三日程で消えたが、しかしそれは鼓膜に張り付いて、自分を責め続けるものの一つとなった。
けれど保護されたその少女の詳しい容態については、自分は知らない。否、親しい者ならずとも自分の母が『カラタ族』である事実を知る人間は多く、わざわざ自分の前でそんな話題を出す人間などいなかったのだ。そしてそれを幸いと、自分も敢えてそれ以上その話題に触れようとも思わなかった。
当時の事を振り返って、自分の矮小さに嫌気が差す。
黙り込んだままでいると、団長は返事を待つこと無く言葉を続けた。
「全身打撲で意識も三日戻らなかったらしい。カラタ族の惨劇じゃなくとも、相当な目にあったんだろう」
「……全身打撲ですか?」
思いも寄らない物騒な言葉に、思わず尋ね返していた。
自分のような職業ならまだしも、まだ少女とも言い換えられる年齢の女性がそんな状況で発見されたのだ。何かしら事件に巻き込まれたと考えるのが当然だろう。
――いや、世界を超えた、と言った。もしくはその代償なのだろうか。
俄かに信じがたい話だったが、それでも納得出来たのは幼い頃におぼろがに覚えている母から、寝物語にそんな話を聞いた事を思い出したからだあの時は夢物語だと信じて疑わなかったが。
呪わしき黒髪と黒い瞳。
きっと悪夢は今日からまた繰り返し私を苛むだろう。
なぜなら彼女は『カラタ族』の唯一の生き残りでは無かったのだから、私は彼らに赦されてなどいなかったのだから。
「セリが憎いか」
静かに問われた問いに、片手で顔を覆う。
「私は、彼女を……許せません」
赦す事など出来ない。思考が纏まらず、自分に言い聞かせるようにただそれだけ呟く。
そうだ。何故許さなくてはならない? 彼女は自分が保護され守られる為に、私に嘘をついたのだ。
「そうだな。きっとそれがセリの思惑だろう」
「……何を仰っているのですか」
ぽつりと呟くように言った団長の言葉の意図が分からず、問い返す。
分からないのか、と呟いた団長の目に、僅かな憐憫が見えた。
「責任とって憎まれてやるつもりなんだろうよ。だからお前の言葉を否定しなかったし謝罪も口にしなかった」
何かが胸の深い場所をちくりと刺した。
最初に出逢った時の彼女の潔い横顔が蘇る。そして差し出された艶やかな黒い髪。困ったような笑顔。
――あれは、芝居だったろうか。
「……」
分からない、今は何も考えたくない。
淡々と事実だけ述べ、言い訳すらしなかったセリの硬い表情。
「お前も、だ。今更カラタ族に対しての後悔なんて持てまい。時間という物は優しくも残酷でもある。どんな思いも薄れていく。そもそも私からしたらお前のその後悔だって明後日な自己満足にしか思えん」
「あなたに私の気持ちは分かりません!」
一方的に吐き出された言葉に、気が付けばそう叫んでいた。
すぐに我に返り、視線を逸らして俯く。
絶対的地位にいる団長に対しての発言では無い。
すぐに吐き出そうとした掠れた謝罪のその途中で、団長は片手を上げることで制した。そして、また、言葉を続けた。
「そうだな。しかしお前にもセリの気持ちは分からん。見知らぬ世界に一人きりで、何の説明もされなかった人間の気持ちなんて。勿論俺にもだが」
――セリ殿の、気持ち?
団長はそれだけ言うと、私の返事も聞くことなく立ち上がり、無言のまま扉へと向かう。
それから何か思い出したように足を止め、首を傾けた。
「明日、必ず来いよ。鍛え直してやる」
その言葉に微かな苛立ちを感じ、視線を逸らすと団長はそのまま静かに部屋を出て行った。
彼女は自分を騙していた。
それは揺ぎ無い事実。
彼女からしてみれば、カラタ族と繋がりのある自分とは関わり合いにはなりたくなかっただろう。
彼女は自分を騙していた訳ではない。避けられていることには気付いていたが、身分差故に遠慮しているのかと思っていた。
しかし、その上で深く関わろうとしたのは、紛れも無い自分自身だ。
恩に報いたくて、そばにいたくて、役に立ちたくて。
くしゃりと頭を掻きまわして、執務机に向かい引き出しを開ける。
奥にしまったケースの蓋を取り中身を取り出して、壁に投げつけようとした――彼女が自分の為に躊躇なく切った黒髪を藍色のリボンで纏めたもの。
このあたりでは滅多に見ない色星の無い夜の色。
彼女は異なる世界から来た、と言った。
知り合いは誰一人もいず、周囲には自分とは明らかに人種の違う人間ばかり。
『見知らぬ世界で一人きり』
彼女はその時、何を考え――ああ、だからきっと流されるようにカラタ族を――利用した。
「……っくそ」
本当は、分かっている。右も左も分からないこの世界に落ち、言われるままに流された事は、仕方無かったかもしれない。
しかしせめて、せめて、自分だけに告白してくれたのならば――。
「……違う」
そんな話では無かった。
先程から酷い思考の擦れが、結論を遠ざける。
私は彼女を、憎む、けれど。
結局手にしていた髪の束を投げつける事無く、自分の手はそのまま力無く下へと落ちた。




