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 フローラは初めて見る異界の地を満喫していた。海は空のように青く、初めて見るオレンジ色の花は良い匂いがした。


(海ってとても塩辛いのね……)


 驚きの事実にフローラは心を踊らせた。

 隣国は大きな国とは言えなかったけれどとても美しく、傷心旅行するにはもってこいの場所であった。


 しかし、初めての物を見聞きし、驚きと疑問が沸いてくるうちにどうしてか、あの美しい男を思い出してしまう。


(海が塩辛い理由を、彼は知ってるかしら)


 博学な彼はなんと言うのだろう。

 自分と同じように驚くのだろうか。

 海なんて見たことがないだろうか。


 二人でどうしてだろうと考察を重ねるのも悪くない。

 それは、それで楽しそう。


 そんなことを考えてははっと我にかえる。自分は何をしに来たのか。彼を愛しく思うために来たのではない。この恋心をこの地に埋めてこようとわざわざ足を運んだのだ。

 それなのに、想ってどうする。


 時に自分を叱責し、頭を振った。

 しかし、次の瞬間にはまた彼を想う。


 初めて船に乗り、海を渡り、島へ着いた。

 島はとても穏やかで時間の流れがここだけ違うみたいだ。きれいな貝殻のネックレスや、海を模したドレス。

 オルディアにもお土産をと砂時計を買った。

 不意に、ロイドにもいるだろうかと思った。


 下心など関係なしに、お世話になったから。話し相手になってくれたから。

 お土産をあげるのは可笑しい?


 暫く考えて、いや、可笑しくは無いだろうと貝殻を象った音の鳴るガラス細工(ふうりんと言うらしい)を持って帰った。次会った時には笑顔でこれを渡せるように。

 ふうりんが一番高かったのは気のせいだ。



 島に一週間ほど滞在し、有意義な時間を過ごした。夜はよく眠れ、朝はすっきり目が覚める。失恋した自分にしては神経が図太いなと感心した。

 何より、この島はご飯が美味しい。

 この島はパティオス島と言うらしいが、魚が美味しい、野菜が美味しい、果物が美味しいと至れり尽くせりである。

 住人は優しく、会えば挨拶をしてくれる。

 のんびり、ゆったり、気の向くままに。それがこの島の雰囲気だった。


 レストランに行けば殻付きの貝とバターが出て来て、自分で焼けと言われる。パカッと開いた貝殻を見て驚くフローラを他の観光客や店員は笑って見守っていた。

 ちょっと焼きすぎて硬くなってしまったが、とても美味しかった。味付けはバターだけのはずなのに海の塩辛さか、十分だった。海の塩辛さの理由が少しわかった気がした。



 パティオス島を出て帰国するために、行く道とはまた違うルートで帰った。

 しかし、パティオス島を出て、自国にたどり着いた途端、夢から覚めてしまったような嫌な虚無感に襲われた。

 そして、ロイドの結婚を思い出してしまう。


(この国は、空気が悪いのかしら)


 島はもっと清々しかった。

 自由で楽しそうだったのに。


 結局、フローラは現実を受け止めるだけの心の広さは持ち合わせていなかったのだ。

 島へ行っても、どこへ行っても全ては現実逃避の一部に過ぎない。あの島へ行ってしまおうか。爵位も捨てて、身一つであそこへ移住しようか。


 本気でそう思ったが、何故かあの屋敷を捨てるのは憚られた。

 何でだろう。

 自分はどうしてあの屋敷が好きなのだろう。


 ボストンバッグを持ち直し、錆びた門を開けようと鍵を取り出す。が、門はすでに開いていた。

 不思議に思って中に入り、愕然とする。暫く立ち尽くし、動けなかった。


(……どうして……?)


 蔦の張ったみすぼらしい屋敷はすっかり消えて、残ったのは寂れた庭だけ。屋敷を出る前はちゃんとそこにあったのに。

 屋敷のあった場所は更地で、何もない。ぽっかりと、穴が空いてしまったように不自然だった。

 庭だけは変わらずそこにあって、それだけがここがフローラの家だと証明してくれていた。


「家が……」


 訳が分からずに呆然とする。

 移住しろ、との神からのお告げだろうか。

 しかし、にしては強引すぎやしないか。せめて家具は残しておいて欲しかった。

 フローラは限界まで顔をしかめ、そして迷子になった子供のように顔を歪める。


「久し振りだね。元気だった?」


 美しくよく響くテノールの声。

 フローラは声の主をよく知っている。


 ハッとして振り向くとそこには一ヶ月前と何も変わらないロイドがいた。

 彼は無くなった屋敷を見ても動揺もなにもしない。フローラを気の毒そうに見ることもなく、ただただいつも通りだった。


(あぁ、この人が屋敷を壊したのね)


 なぜだか直感した。

 きっと、それは当たってる。

 こういう直感は当たるのだ。


「もしかして、わたくしの屋敷は貴方が……?」

「主人の居なくなった城に用はないだろう?」


 にっこりと優雅にロイドは笑った。

 フローラはカッと頭に血が昇るような思いがした。


 ロイドは結婚をする。

 これからは、違う(ひと)と連れ合っていくのに、なぜ自分に構うのか。

 しかも、屋敷を壊した。自分の寝床が消えた。フローラはロイドとは違う。お金にも限界があるし、伝手があるわけでもない。友達も、知り合いも居はしない。

 傷心旅行へ行っただけなのに、この仕打ちはなんだ。


「わたくしの許可も無く、ですか? 酷すぎではありませんか?」


 ロイドは笑みを崩さないまま、ゆっくり首を傾げた。


「酷い? 酷いのは、君じゃないか」


 ロイドはすうっと瞳を細めて、フローラを見据えた。フローラの背筋にぞわっと悪寒が走る。


「一ヶ月、心配したんだよ。急にいなくなるなんて、悪い子だね」

「あら、貴方にわたくしの予定を言う義理なんてありませんわ」


 フローラはいつになく尖っていた。

 自分の寝床を奪われ、相当腹を立てたのだ。

 家具も、なにもかも壊されてしまっているかもしれない。お気に入りのドレッサーまで壊したのなら買って貰わなければ気がすまない。


 キッと睨み付けるフローラの視線は全く意味を成さず、ロイドは不気味に笑いながら歩み寄ってきた。


「でも、君が怒ってるのは屋敷を壊されたからじゃないだろう?」

「なんですって?」


 屋敷を壊されたから、怒っている。

 それ以外に何かあるのか。


「君は待っていた。誰かが、君を拐ってくれることを」


 ドキンと胸が高鳴った。

 それは、照れだとか喜びだとかではなく記憶を掘り起こされるような感覚に似ている。


「フローラ」


(止めて。わたくしの名前を呼ばないで)


 なんで今さらその声で自分の名前を呼ぶのだ。

 結婚するのに。他の人がいるのに。

 自分を迎えにきたかのような言い方。

 期待してしまう。

 止めて。

 傷付きたくないの。


 腕を引かれ、抱き締められてしまえばもう駄目だった。傷心旅行が、夢心地の島の思い出が、彼の香りに塗り替えられる。

 自分の心が貴方で一杯になる。

 抱き締められて嬉しいって心のどこかで思ってる。――


「お止めになって!!」


 グイッと体を引き離すために腕に力を入れてロイドを押した。ここまで人を拒絶したのは始めてだった。


 別の女を抱くその腕に、自分を閉じ込めてどうしたいのか。

 期待させないで欲しい。

 拐わないのなら帰って欲しい。

 わたくしの屋敷(想い出)を返して欲しい。


 我慢が出来ずに、フローラは叫んだ。


「――貴方はわたくしをどうしたいの!?」

「フローラ」


 もう一度、腕に力を込められながら耳元で自分の名前が囁かれた。

 胸から気持ちが溢れて止まらなかった。

 そんな自分が嫌だった。

 惨めにも、期待してしまう自分が。


「フローラ。君は、僕についてくればいいよ」


 慈しむように頭を撫でられる。

 ゆっくり髪を鋤かれて、涙が出そうだった。


「ねぇ。聞かせてフローラ」


 その声は子供をあやすように慈悲のある聖母のようなものであり、また、恋人に愛を捧げるような甘いものでもあった。

 フローラの震える手が、皴一つ無いロイドの正装を弱々しく握る。

 ロイドが妖しく微笑んだことにフローラは気付かなかった。


「わたくしは、貴方が好きでした」


 初めて言った、すきの二文字は重たくて、優しくて、自分が言った言葉のくせにフローラに染み込んで行くようだった。


「でした……? 随分悲しいことを言うね。今は、嫌い?」


 フローラは静かに首を振る。

 嫌いなわけ無いでしょう。


 ロイドの手がフローラの髪を鋤く。

 そして優しく甘く、フローラを(そそのか)した。


「遅くなってごめんね」


 いつもと口調の違うロイドの声は、どこか懐かしい。私よりも、僕の方が彼には似合う。


「レナウ・ディ・ルーナ」


 聞いたこともない言語にも似た羅列。

 でも、何故か知っている気がする。

 そう、この言葉は――。



「拐いに来たよ、僕のフローラ」




 ロイドは上半身を起こし、隣で眠るフローラの頭を撫でた。彼女はスウスウと気持ち良さそうに寝息を立てている。


 屋敷を壊し、自分の家へ連れてきた。

 誰にも何も文句は言わせない。

 自分はツォルドーネ公爵家現当主なのだから。


 フローラは自分が誰か他の人と結婚するのだと何か誤解しているようで、今回のことは全て傷心旅行だとアルデンテ家から報告を聞いた時にはすでにフローラの屋敷は半壊していた。

 彼女が逃げ出すなら、この屋敷も不要だとさっさと壊してしまったのだ。もともと目障りだったのもある。

 だけど一緒に遊んだ庭だけは残しておいた。

 彼女は屋敷を失って怒ったのではなく、寝床を奪われて怒った。

 彼女が執着していたのは屋敷ではなく、屋敷での自分との思い出だった。


 自分はまだ彼女の記憶にいる。

 しかも、潜在意識のかなり深い部分に。


 彼女を蝕むのが自分だと思うとひどく心地がいい。オルディアとのことも許してやろうかと思ってしまう。

 でも、他の男と色々したのはやっぱり許せないから、それは一生かけて彼女自身を対価に償ってもらえればいい。


 肩にかかった飴色の髪を一房取り、口づける。

 気配に気付いたのか、睫毛が震え、ピンク色の瞳がまだ眠そうにぼんやりと開く。


「おかえり、フローラ」


 ロイドは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

ありがとうございました。

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