5
傷心旅行の手配はすぐにされた。
アルデンテ子爵家からちょっとした小切手が届き、約一ヶ月というとても長い旅行プランだった。
国の端まで行き、隣の国で観光旅行。
さらに、隣国の領土である島でゆっくりと一週間ほど過ごして帰国。
自分だけのお金であれば到底行けないだろう旅行だったが、交通費をオルディアが負担してくれ、その他を貯めてきたフローラのお金で賄った。
フローラはオルディアに感謝し、数年閉じることのなかった門を閉じた。門はかなり錆びていて閉じるのも一苦労だった。
もともと持ち物の少なかったフローラはボストンバック一つだと言うのに引っ越しをしてしまったのでは、と思えるほど部屋には何も無くなっていた。
一ヶ月も旅行するのだったら妥当だとフローラは納得していたが、オルディアが黒い笑みを浮かべていたことなどフローラは知らない。
「オルディア、わざわざありがとう。わたくしだってお金はあるし、交通費だって……」
「気にしないで。俺がしたいだけだから」
(下心が無い訳じゃないし)
オルディアがにっこり笑うとフローラは苦笑を浮かべた。
そして、フローラは馬車に乗り、傷心旅行に旅立っていった。
「……はぁ?」
ツォルドーネ家屋敷にて、主の聞いたこともない間抜けた声を執事であるジオルドは初めて聞いた。
艶やかなアッシュブラウンに宝石を嵌め込んだかのような透き通るアンバーの瞳。恐ろしいほど美しい造形を持つ若き当主。
ロイド・ツォルドーネ。
彼は己の従者から聞いた言葉を未だに飲み込めないでいる。
「フローラが失踪?」
「いえ、正確には移住したとアルデンテ子爵家から」
「アルデンテ家にはフローラの監視を依頼していたはずだが?」
「はい。ですので、報告を……と」
なるほど。確かにフローラを監視しろとは言ったが、留めておけとは言っていない。
ロイドは琥珀色の瞳をすうっと細め、頬杖を付いた。
原因は分かっていた。フローラがあの屋敷から出るはずがないと思った自分の怠慢と、オルディアとか言う男の思惑である。
(あのクソガキが)
大して年齢も変わらないのに、ロイドは心の中でオルディアを罵った。
ロイドはオルディアの予想通り、フローラの言う変な男の子である。
彼はもともとツォルドーネ家の人間ではなかった。と言うより、血は混じってない。
男の家を転々とし、男の金で食ってきた女の子供だった。父親は知らない。気がついたときには父は変わっていて、自分には見向きもしなかった。
そこで父はいないのだと初めて気がついた。
母親は自分に興味はなかったものの、捨てるような真似はしなかった。成長してから気付くのだが、自分は母の愛した男との子供だったらしい。母は時々自分と愛した男を重ねて慈しんだ。
特に不自由なことはなく、暴力をふられたり飯を抜かれたりすることも無かった。一つ違和感があるとすれば両親のことだろうが、彼はどうでも良かった。
ただ、真実だけを教えてくれる本だけが生き甲斐だった。
そうして母と放浪しているうちにツォルドーネ公爵家の当主に見初められた。ロイドの母は美しかったので男には困らなかったが、公爵など高貴な方に嫁いだことは無かった。
しかし、母は公爵だ、高貴だなどというものに怖じけづくような人では無かった。
子連れだと言うのにずかずかと公爵家の敷地を踏みしめ、荒らしていった。
母の存在はツォルドーネ家を壊していった。
本妻を亡くした当主は母を妻に迎えた。
勿論、連れ子であるロイドの待遇も良く、不自由はしなかった。
が、ツォルドーネ家には本妻の子供が二人居た。姉妹のカナリエとマディラ。
彼女たちはロイドを邪険し、ひどく苛めた。
ロイドの美しい顔が痛みと憎しみに染まるのがお好みのようで行動はどんどんエスカレートしていった。
それを見かねた公爵当主が、ある提案をした。
ロイドをどこかへ手伝いに行かせようと。
幼少期に貴族の子供が他の貴族の家へ手伝いに行くのは珍しいことではない。本物の公爵家ならば有り得ないことだろうが、ロイドは連れ子である。
しかし、その提案に姉妹は憤慨した。
それも、行く場所が母が以前お世話になったウーラス男爵家と聞き、さらに怒った。
ウーラス家にはまだロイドが幼いころ世話になったらしいので、ロイド自身はあまり覚えてなかった。が、ウーラス家のことは知っている。色欲の館と呼ばれ、夫婦が互いに浮気をし続けているだとか。爛れた家だとか。
あそこに行けばもれなく性的な目で見られると姉妹は大騒ぎをした。最近、姉妹が成長して美しさが目立ってきたロイドに特別な恋心のようなものを抱き出していることに、ロイドは気が付いていた。
姉妹の我が儘を一蹴し、ロイドはウーラス家へ赴いた。
そしてそこで出会ったのだ。
飴色の髪と桃色の珍しい瞳を持つ少女。
花のように笑い、孤独の中にいる可愛らしい彼女。
ロイドの仕事は主に彼女の相手をすることだった。2歳も年下の彼女は幼子にしては頭がよく好奇心旺盛だった。
まだ夢のような物語を信じていて、疑わない。
母がお姫様で、父が王子様だと彼女は言う。それなら自分はなんなのかと問えば、分からないと言った。普通なら、自分もお姫様だと言うのではないのか。
寂しそうに屋敷を眺め、いつも庭で暇を潰す。なんとなく屋敷には居たくないと彼女は言ったが、行けばフローラの夢は呆気なく壊され、きっと立ち直れない。
ロイドはフローラを汚い現実から引き離すように庭へ連れ出した。
そして自分の知識を披露すれば彼女は楽しそうに続きを促す。時には二人で虹を作って。時には二人で月を掬って。水面に揺れる三日月を突っついてはけらけら笑った。
鏡はどうしてありのままを写すのだろう。
空はどうして青いのだろう。
世の中には、絵のような文字があるらしい。
そうだ、花はどうやって咲いているのか知ってる?
どうして物は落ちるのか。
どうして月は欠けるのか。
ねぇ、知りたくない?
そう言えば彼女は頷いた。
泥だらけでも、暗い中でも、雨の日でも風の日でも彼女は心底楽しそうに微笑んだ。
実験しようと言えば慌ててズボンに着替えてくる。女の子のズボン姿なんて見たことがなくて瞠目すれば、彼女はちょっと恥ずかしそうに頬をかき、お父様の部屋から借りてきたと笑った。
『ねぇ、逃げてしまおうよ』
あの日、ロイドはそういった。
少女の目が驚きに開かれ、そして優しげに細められた。自分だって帰る場所が無いのに。
『レナウ・ディ・ルーナ』
君に贈る、僕の愛の言葉。
『僕と、結婚しようよ。フローラ』
人生でプロポーズしたのはこれが最初で、彼女以外には言ったことがない。
彼女は待っている。きっとずっと、自分を待ち続ける。
『拐うよ。待っていて』
君の帰れる場所を、僕が用意してあげる。
ツォルドーネ公爵家に戻った頃から、さらに勉強に励んだ。
たくさんの反対を押しきって自分が当主にならなくてはいけない。
上に立つためには、冷静に、狡猾に、残虐に。
そのための努力は怠らず、人脈も広げる。
利用するものは利用し、捨てるものは切り捨てる。
気付けば姉妹はどこかへ嫁ぎ、当主も隠居した。母は流行りの病で呆気なく死んでしまった。当主の隠居は早く、噂によると自分の才能を恐れたとのことだった。
ロイドが自分に歯向かうと思ったのだろうか。地位が手にはいればそんなことどうでも良かったが好都合だった。
早ければ早いほどフローラを迎えられる。
そうして、21で当主になった。
人脈のお陰か宰相とも知り合いになり、彼とは中々気が合った。
いつ、フローラを迎えに行こうか。
彼女は覚えているだろうか。
フローラは今、一人だと聞いた。
母が出ていき、父は行方不明だと。
ならば早く自分が迎えに行かなければ。
そうして、フローラの近況を調べさせロイドは愕然とした。彼女は自分を売ってお金を稼いでいた。
自分のことを忘れたのかと絶望した。
努力はなんだったのだと恐怖した。
フローラを迎えに行くために頑張ってきたのに。
フローラが行く仮面舞踏会に出席し、すぐに彼女を見つけた。飴色の髪は長く、彼女の艶かしい腰まで伸びていた。目元を隠す仮面からは特徴的な桃色の瞳が覗いた。
顔を覆っても美しさの分かる彼女。
お転婆で庭を走り回る少女は、美しく成長し男を誘惑するような美女に変わっていた。
自分も、特徴的な琥珀色の瞳をしているはずなのに。彼女と目があっても気付かれない。媚びるような笑みを浮かべ、他の男にすり寄った。
我慢が出来なかった。悔しくて、今すぐ問い詰めたかった。
けれど、彼女が両親の真相を知り、傷付いてないとは言い切れない。彼女には彼女なりの理由があったはずだ。
彼女は茶髪男と腕を組んで退場していった。この後、二人が何をするかなんて想像に難くない。
ロイドは悩んだ。
このまま、フローラを諦めるべきなのかと。
悩んで、悩んで、悩んで。
結局答えはいつも一つの回答に収束した。
諦めるなんて、とんでもない。
何年も片想いを拗らせたロイドの行動は俊敏だった。フローラに接近し、彼女を手に入れることに全力を尽くした。
焦らず、ゆっくりと、確実に。
自覚のある美しい顔と、声と、表情と、彼女にしか向けられない優しさで。
篭絡してしまおうと。
しかし、彼の目論見は外れた。
いや、正確には外された。
あの、茶髪野郎のせいで。
いつも以上に冷気を吹かせている主をジオルドはじっと見つめる。
伏せられていた琥珀がちろりとこちらを向いた。その鋭い眼光に冷淡さと無慈悲な色が浮かんでいて思わずジオルドは姿勢を正す。
「ジオルド。私は、自分の後悔するようなことは決してしない」
「はい。当主様」
「それは、政治でも経済でも己の探求心でもだ。私に妥協など許さない、許されるはずがない。そうだろう?」
「仰る通りです」
ロイドは周りに厳しいが、自分にも厳しい。
「彼女は、僕を忘れてなどいなかった」
今度は瞳を甘さに溶けさせた顔でうっとりと呟いた。主人のこの切り替えようはどこから来るのだろうとジオルドは素直に不思議だった。
「僕は信じているよ。彼女はきっと戻ってきてくれる。……だから、そうだねぇ」
頬杖を付いたまま、ロイドはすぅと目を細める。彼が怒る前兆意外で目を怪しく光らせるのは初めてだった。
ジオルドは主のその行動に背筋を凍らせ、硬直した。
「想い出を一つ、壊してしまおう」
ロイドが手に持っていた万年筆を自分の首の前で掻き切るように横に振った。
ジオルドはその冷気に当てられて恭しく礼をすることしか出来なかった。




