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嬉々として開いた扉の前にいたのは信じられない人物だった。
アッシュブラウンの髪もアンバーの瞳も端整な顔立ちもフローラが妄想していたものとなんの変わりもない。相変わらず人形のような顔をして、飛び出してきたフローラに少し驚愕の色を浮かべていた。
フローラも状況についていけず、ポカンと口を開けてしまう。
ざーざーと大降りになった雨音がやけに大きく聞こえる。呆然と互いを見ていたが、相手から発せられた言葉でやっと我に返った。
「フローラ・ラーウス嬢で間違いないか」
声は先日よりも低く、公爵としての威厳があるような気がする。美しい顔に、その喋り方は似合わないと思った。
が、フローラにはそんなことは関係ない。ふつふつと沸いてくる怒りをもて余していた。
「えぇ、たしかにわたくしがフローラ・ラーウスですけれど。女を金で買わない公爵様がわざわざどうなさったのですか? まさか、この屋敷を知らないなどとはおっしゃいませんよね?」
挑発的な笑みを湛えてフローラは言い放った。
爵位の高い人にこんなことは無礼の極み。だが爵位など、ここでは関係ない。
この屋敷が"色欲の館"と呼ばれ、美しいラーウス家の令嬢が身体を売っていることを知らない者はいないだろう。
ここに来ると言うことは、すなわち男爵令嬢を買おうとした愚かな男として自ら醜聞を撒き散らすことに繋がる。故に、余程の馬鹿でない限り、フローラの無礼を口を大きくして咎めることはできないのだ。
ここに来ることはそれ相応のリスクが伴う。爵位が高ければ高いほどその危険性は大きくなり、とんでもない醜聞へ変貌することだってある。
あのハゲもいい例だ。心から死んでほしい。
ロイドは動揺を見せず、淡々と言葉を紡いだ。
「もちろん、この屋敷についてはよく知っている」
「あら、では何をしに? わたくしを買いますか? 値は張りますけれど悪くない買い物でしてよ」
フローラがチラチラと服をはだけさせると、ロイドの表情が揺らいだ。むっと顔をしかめたのだ。
フローラはズキリとした心には気付かないふりをしてじっとアンバーを見つめる。
「君は、こうやって自分を売るのか」
「えぇ。生きていくためですもの」
世の中、金さえあれば生きていける。
女ですら、金で買えるのだから。
「辛くはないのか」
不意にフローラの瞳が翳った。
ショールを肩まで上げて告げる。
「人生に、辛くないことなんてありますの?」
ロイドはその意味を一瞬で汲み取り、失言だ、と詫びた。
「それで、わたくしに何の用でしょうか? 買いにきたわけでは無さそうですけれど」
彼は自分を哀れに思っただろうか。
一瞬でも会いにきてくれたのかもしれないと感じた自分に嫌気が差す。
「そうだな。これを」
ロイドがおもむろに取り出したのは綺麗に折り畳まれたハンカチだった。
予想外の展開にフローラは目を白黒させる。
「あの、これ、は?」
「ハンカチだ。君が落としたもののはずだが」
フローラは思わずあんぐりと口を開けてしまった。開いた口が塞がらないとはこのような状況を言うのだろうか。
「ハンカチ? えぇ、確かにそれはわたくしが持っていたハンカチですけれど……。まさか、それだけのためにここへ?」
「そうだが?」
こてんと首を傾げた目の前の麗しい男性に、フローラは溢れる感情を止められない。
細やかな優しさが染み込んで溶けてしまいそうだった。
「なぜ、届けてくれたのですか?」
なんとか口から出た言葉は震えていて、静かな緊張を孕んでいる。
ロイドは首をすこし傾げて微笑を浮かべた。
「あなたが、淋しそうだったからだ」
思いもよらなかった回答にフローラは目を瞬かせた。
「私には分からないが、罪の意識があるように思えて。本当はこんなことしたくないのでは、と」
この人は尋常なく人の心に敏感だ、とフローラは確信した。
表情、仕草、声色、抑揚すべてが他人への人物像に繋がっている。他の人からはいい人に見えても、彼からは違う風にみえるのかも知れない。
「すまない。そんな顔をしないでくれ」
ロイドに言われてやっと自分が顔を歪めているのに気がついた。
図星だと言っているようなものではないか。
「だから、あのように言ったのだが……伝わってなかったみたいだな。傷付けてしまって申し訳ない」
あのように言った、とは、"私は金で女は買わない"と言ったことだろうか。
(金でわたくしを買う気は無い、と?
わたくしの罪悪感や後悔を募らせるような行動はしないというかしら。)
「わたくしを蔑んでおっしゃったものだとばかり思っておりました」
「本当に、申し訳ない」
口下手なんだ、と恥ずかしそうに男ははにかんだ。とても健気で優しい人なのだろう。真っ直ぐで、人の感情を過敏に感じられるからこそ、優しい。
「気にしていませんわ。ハンカチ、ありがとうございます」
にっこりと微笑んだのを見て、ロイドはほっとしたようだった。
それじゃあ、と踵を返すのを咄嗟に引き留めた。まだ、彼と話がしたい。
「まだ、雨が降っています。よければ、中に」
雨が降っていると言っても彼は馬車で来たのだろうし呼べば従者だって来るだろう。何度も使った誘い文句なのに馬鹿みたいに緊張して声が震えた。
振り返ったロイドはぱちくりと瞳を瞬かせた後、嬉しそうにふわっと笑った。
自分は、しがない男爵令嬢。
いつもは"客"にお茶など出さない。
「ごめんなさい。わたくし、人をもてなすのは苦手でして……」
「いいや、構わない」
安いソファーに座らせるのもなんだか忍びなくてソワソワしながら自分の煎れた紅茶が彼の口に運ばれていくのをぼんやり眺めていた。
「そんなに見つめられると照れてしまうよ」
さっきよりも幾分砕けた話し方でロイドは笑う。フローラは顔を真っ赤にして俯いた。
掃除の行き届いてない屋敷に来ても、ロイドはおおらかでバカにしたり嫌悪を浮かべる様子は無かった。それがまた、フローラを安心させ、彼への気持ちを募らせた。
「ごめんなさい……。その、そんなつもりはなくて」
「いや、いいんだ。紅茶はとても美味しいよ」
さっきの勢いは成りを潜め、フローラは別人かと思われるほど挙動不審だった。フローラ自身でさえ、これほど自分が取り繕えないとは思っていなかった。
(沈黙だけは避けたいわ。でも、一体何を話せばいいのかしら……)
もてなすのはどちらかというと自分だし、話を振るのは自分であるべきだろうかとフローラは悩む。しかし、それは杞憂だった。
「家事はいつも自分で?」
「え? えぇ。見ての通り、使用人も侍女も居ない身ですから」
「そうか……。それにしてはきちんと掃除ができている。もしかして、料理もするのか?」
「そうですね。料理と呼んでいいのかも分かりませんが」
そう言えばロイドは少年のように目を輝かせた。
「そりゃあ、すごい! 御令嬢で料理が出来る方なんてそうそういない。良ければ食べさせてくれないか?」
「え、今ですか?」
「無理?」
「材料とかも無いですし、難しいです」
「そっか。残念だな」
ロイドは本当に残念そうに目尻を下げた。
フローラは胸がきゅっとする感覚に襲われる。
チャンスだ、と頭の中で誰かの声が響いた。
「あの!」
思ったよりも大きな声が出て、顔がゆでダコみたいに赤くなる。唐突に立ち上がって挙手をするフローラにロイドは目を見開いて、それから瞬きを繰り返した。
「どうしたの……?」
「え、あ……」
フローラは思わず上げていた手をゆるゆると下ろし、力なくソファーに座った。ロイドはわけが分からないと不可解な顔をしている。
(有り得ない! 淑女として最悪だわ!)
心の中では頭を抱えて喚き散らしているが、表ではなんとか取り繕う。
「その、手料理は、また後日来てくだされば用意できます」
なんとか喉から絞り出した声は驚くほど小さかった。ロイドから返事が返ってこず、恐る恐る顔を上げたら、しかめ面で考え込んでいるロイドがいた。
フローラは頭に冷や水を掛けられたような心地がした。
舞い上がって、馬鹿みたいね。
誰かに指を差されて笑い者にされているような言い様のない羞恥に襲われる。
頬が熱くなり、赤面するのを抑えられない。
そうだ。何を考えているんだ。
彼がここに来てくれたのだって、自分がハンカチを落としたという偶然。彼の意思でフローラに会いに来た訳でもないのに。
高貴な方になればなるほどここに来るのは難しいと、自分が一番知っているじゃないか。
変な望みなんて、持つものじゃない。
「申し訳ありません。失言でした。今の言葉は忘れてください」
さっきよりも丁寧に言葉を選ぶ。
住む世界が違うのだ。湯水のように金の沸いてくる公爵と、しがない男爵では天と地ほどの差がある。
身分不相応も甚だしい。
ロイドの顔が見れず俯いていると、困惑したような残念そうな声色の彼の声が聞こえた。
「そうか……。食べてみたかったんだがなぁ」
自分と年齢が近いはずなのに年寄りくさい話し方をする。
公爵家の当主だから自然とこうなってしまうのか。公爵とかってもっと偉そうなものじゃないのか。男爵令嬢の手料理を食べたいと思う公爵なんて、この人以外存在しないだろう。
なんで、この人はこんなに優しいのだろう。
優しくしたって腹の足しにもならないみすぼらしい子女を、どうして気にかけてくれるのだろう。
気にかけてくれるなんて、錯覚かもしれないけど、寂れた青年期を送ったフローラにとってこの思いがけない優しさはフローラ自身でさえ思わなかったほど心を溶かしてくれる。
(どうしても、好きになってしまうのね)
こんなの、好きにならないほうが可笑しい。
王子様みたいなこの人に、気にかけられて期待しないほうが可笑しい。
「フローラ嬢?」
ロイドの落ち着いた低めの声がしてはっと意識を取り戻した。
慌てて顔を上げると心配そうな琥珀色の瞳がこちらをみていた。
「大丈夫? 顔色が悪いようだけど」
「だ、大丈夫ですわ。ごめんなさい。最近ちょっと寝不足で」
咄嗟に吐いた出任せの嘘だったが、言ってしまってからマズイと思った。案の定、ロイドは顔をしかめている。
なぜ言い訳が寝不足にしかならないのか。あぁ、馬鹿すぎる。
「金を稼ぐのも大切だが、無理をしては元も子もないと思うが」
「えぇ、仰る通りですわ。余計なことを申し上げてしまいました」
「自分を大事にしなさい。……そろそろお暇するよ」
そう言ってスタスタと出口の方に歩いて行ってしまう。慌てて後を追う。不快にさせてしまっただろうか。
「それじゃあ。体を大切に」
それだけを言ってロイドは踵を返した。不機嫌な様子はなく、訪ねてきた時と同じように硬い、威厳のある低い声。
一気に縮めた距離が消え去った気がして悲しくなる。別れとは呆気ない。
あと少しで彼が敷地を出る。
もう、引き留められない。
もう、二度と喋れない。
もう、きっと会うことはない。
「ロイド様!」
初めて呼んだ名前はとても懐かしい味がした。
いきなり下の名前で呼んだにも関わらず、ロイドは振り返った。
その美しすぎる顔に嫌悪は浮かんでいなくて、それに安堵し、また歓喜した。
「りょ、料理、作ります!」
食べに来て下さいとは言えなかった。
が、ロイドは遠目からわかるほど微笑んでくれた。
片手を上げて、了解を示す。
そのまま手を振ってくれて、小さく振り返した。
作法も礼儀も無視した不思議な衝動。
幼い子供のように思ったことを口にした。
「ふ、ふふふふ」
玄関の扉に背中を預けてズルズルとしゃがみこむ。興奮で紅潮した頬を冷たい両手で冷して、喜びを噛み締めた。
━━━笑顔、とても素敵だったわ。
━━━手も振ってくれたわ。
━━━わたくしの料理を食べたいですって!
ベッドの上を転がって悶えたい。
でも、そんなの淑女がするなんてはしたない。でも、でも、この屋敷にはわたくししか居ないわ。
心がふわふわして、楽しい。
身分なんて、頭の中から消し飛んだ。
ただ、あの人が好きってことだけが頭を占めて凄く幸せ。
さんざん暴れて、笑って、不相応とかあれは社交辞令だとか全部全部考えないようにして。
ただ、暖かい幸せに漂いながら少しごわついたベッドに体を沈めた。




