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ちょっと雰囲気を変えてみました。

よろしくお願いします。

『レナウ・ディ・ルーナ』


 目の前の少年が発した言葉に少女は首を傾げた。

 長く伸ばした少年の前髪の隙間から、赤らんだ頬が見えた。琥珀色の清んだ瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。


『レナウ……なぁに? それ』

『知らないの? 君が知らないなんて珍しいね』


 少女がムッと口を尖らせ、眉間にシワを寄せた。

 少年は少女の様子に気づいた様子もなく、気恥ずかしいのかモジモジと庭の砂を弄っていた。


『わたくしにだって、知らないことくらいあるわ』


 少女が不機嫌さを隠さずにそう言えば、少年はやっと顔を上げて慌てたように否定した。


『え? あぁ、違うよ。ごめんね。馬鹿にしているわけじゃないんだよ。いや、うん。いいんだ』


 か細く喋ってから、また土を弄り出す。少女はそんなに砂を弄って爪の間に土が入らないのだろうか、とどうでも良いことを考えながら、少年を見つめていた。


『ねぇ、その、レナ……なんとか。教えてくれないの?』


 じっと琥珀色の瞳を見つめれば、少年は慌てたように目をそらした。そんなに言いにくいことなら、どうして呟いたりしたのだろう。

 少女は己の知的好奇心に正直だった。お転婆で、本が好きな少し変わった女の子。そんな彼女が聞いたこともない言語の羅列を聞いて気にならないわけがない。

 少年もその事はよく知っているはずだ。この琥珀色の少年とはまだ会って数日しか経っていなかったが、二人はよく気が合った。


『ねぇ、教えて。わたくし、その言葉の意味を理解出来ない限り、お屋敷には戻らないわ』


 少女がくるくると少年に纏わりつき、少年は楽しそうに身を捩った。


『いいよ。お屋敷になんて、戻らなくても。僕、あそこは嫌いなんだ』

『あら、貴方も感じるのね。すっごく、嫌な感じでしょう?』


 二人は手入れのされていない少し荒れた庭から、大きな屋敷を仰ぎ見た。屋敷は至って普通の、貴族が住む綺麗な建物だ。

 庭さえ除けば蔦の這った美しい屋敷に見えるかもしれないが、少年少女には薄汚れた館にしか見えなかった。


 少女はそんな己の屋敷をじっと見つめて、ため息を吐く。


『ねぇ、逃げてしまおうよ』


 なんともなく呟かれた少年の声に少女は弾かれたように顔を上げる。信じられないと目を見開き、少年を凝視した。


『逃げるって、どこへ?』

『僕の屋敷にでも?』

『……正気なの?』

『……正気では、ないかもね』


 長い前髪の下で少年はうっすらと微笑んだ。


『レナウ・ディ・ルーナ』


 また少年が呟いた。

 少女はぐっと眉間にシワを寄せる。


『だから、それ何?』

『僕と、結婚しようよ。フローラ』


 唐突に投げ掛けられた言葉に絶句し、再び瞠目した。少年は構わず続ける。


『君を、拐ってあげるよ』


 少女は、思わず笑った。

 なんて可愛らしい申し出だろうと、くすくす笑った。


『拐う……ね。物騒な響きだわ』

『そうだね』

『もしかして、"レナウ・ディ・ルーナ"は愛の言葉なの?』

『よく分かったね。そうだよ。"レナウ・ディ・ルーナ"。貴女はまるで花のようだって意味。求婚には花束を贈ることから転じて愛の言葉になったんだと言われているよ』


 愛の言葉。

 ――そんなもの、自分には無縁なものだと彼女は思う。


『レナウ・ディ・ルーナ』


 ぽつり、と今度は少女が呟いた。言葉を噛みしめ、味わうようにゆったりと小さな赤い唇が静かに愛の言葉を口にした。


『素敵な言葉ね。わたくしを拐ってくれる?』


 少女は穏やかに微笑を浮かべていた。

 少年は驚いたように息を詰め、ぱちぱちと琥珀色の瞳を隠したり覗かせたりする。

 暫くそうしていて、不意に彼女の言葉を理解したのか、きりっと真剣な顔付きになった。


『拐うよ。待っていて』

『うん。待ってる』


 色欲に塗り固められた箱庭で、少年少女は慎ましく接吻(キス)をした。

 荒れた庭には似つかわしくない、純白で無垢なものだった。


 *******


 この、意識がぼんやりと浮上する感覚には未だに慣れない。気だるげに長い睫毛を震わせれば、眩い朝日が飛び込んでくる。


 もぞりと体を起こし腰に腕を絡み付かせている茶髪の男を一瞥して、体に違和感が無いか意識を巡らせた。やがて、サイドテーブルに置かれてあった薬を口に放り込んで水も飲まずに嚥下する。


 嫌な夢を見た。

 昔の、遠い夢を。


 頭を振って思考を切り替えると、隣で寝ていた茶髪の男を蹴り上げる。男は腕を離してうっと苦しげに呻き、ベッドから転げ落ちた。


「起きなさい。呑気に寝ている場合では無くてよ」

「いった……。フローラ、もっと優しく起こしてくれない?」


 茶髪をかきむしり男がギロリとフローラを睨む。しかしすぐ驚いたように瞠目した。


「え、なんで服着てないの? いつもは?先に着てるのに」

「貴方がわたくしの腰を掴んで離さないから起きれなかったのよ」

「俺ナイスじゃん! 眼福、眼福」


 別に今さら裸を見られても何も思わないが、なんとなく腹が立ったので枕を投げつけてやった。

 後ろからふげっという情けない悲鳴を聞きながら黙々と服を着る。


「珍しく不機嫌だなぁ。いつもはもっとスッキリしてない?」

「夢見が悪かったのよ。というか、貴方も早く服を着なさい」

「あれぇー? 照れてる? 俺に欲情しちゃっ……うぶッ!」

「早く服を着てくれない?」


 簡素なドレスを着て男に服を投げれば、綺麗な顔面キャッチを披露してくれた。

 男は渋々服を羽織り、憮然とした表情でフローラを見つめた。


「あのさぁ、そろそろ俺と付き合ってもいいんじゃない?」


 その言葉を聞いてフローラはピクリと反応する。そして、歪な微笑を湛えて言った。


「何を言うかと思えば。貴方も、身体目当てでしょう?」


 侍女もいない部屋では、自分がベッドを整えるしかない。

 せっせと乱れたシーツを直しているフローラを見て男は苦虫を噛み潰したような顔をする。


「否定はしないけどさ。だって、俺ら相性いいし。俺、わりと金は持ってるよ」

「わたくしを金で買うのかしら。上等だけど、高いわよ」


 挑発するように男を見れば、男はますます不機嫌そうに顔を歪める。


 くるくるっとした茶髪に、甘い顔をしたこの男。オルディア・アルデンテ。

 アルデンテ家の次男で、騎士を目指しているイケメンの好青年だ。アルデンテ家の爵位は子爵で、男爵の我が家よりはお金持ちだし、かなりいいお相手であることは分かっている。


 シーツを整い終わって振り向けば、オルディアに抱き締められた。


「ねぇ、フローラ。俺は本気だよ。沢山稼いで、今みたいな不自由な生活はさせない」


 分かっている。

 オルディアが本気なのは、フローラもわかっていた。


 フローラ・ラーウス。

 ラーウス家に産まれた美しい飴色の髪と、薄桃色の珍しい瞳を持つ美少女。


 ラーウス家の爵位は男爵で、積極的に政治に関わるようなことはせず細々と昔ながらの爵位に甘えながら生きてきた。父はラーウス家の次男だった。

 次男だった故に、遊んで暮らすどうしようもない女タラシで、屋敷に女性を連れ込んでは朝まで元気に遊んでいたと言う。

 しかし、ある日兄が病に倒れ、呆気なく死んでしまった。フローラの祖父は悩んだ末に父に家長の席を譲り、渋々ながらも父は席を受け継いだ。


 ラーウス家の家長になったからには家庭がいる。遊んでいた父は、一人の女を連れてきた。それがフローラの母であった。

 女好きの父の連れてくる女は、どうしようもない男好きだった。男に媚びへつらって生きていく女。母はそういう人だった。

 父は母を娶っても、遊ぶのをやめたりしなかった。母も自分を産んですぐにまた遊びはじめた。父と母はどうしようもない馬鹿だったのだ。


 細々と生きていても俗世は噂が大好きで、ラーウス家から頻繁に卑猥な声が聞こえる、という下品な噂が瞬く間に広がった。

 その頃だったか。彼と出会ったのは。


「また、あの変な少年のことか」


 フローラの脳内を読んだかのような発言に思わず顔を上げると、きつく抱き締められる。


「……昔過ぎて覚えてないわ。何を話したのかさえも、思い出せないの」


 かつての記憶はひどく曖昧で当てにならない。夢に見るようなことがあっても、それはほんの一瞬ですぐに忘れる。

 同時期にあった事件の記憶が鮮明で、どうしても薄れてしまったのだ。


 あの頃、自分はまだ無垢だった。本の夢のような世界を信じて疑わなかった。

 世界には王子様とお姫様がいて、王子様はお姫様を白馬で迎えに行くのだ。二人には幸せが待っている。

 恋愛、というものはとても美しく、ふわふわキラキラしたものなんだと思っていた。こんな夢のような世界があるのなら大抵のことは我慢できる。


 しかし、ある日。母の部屋を開けてしまった。夜、変な声が聞こえたので自室を抜け出したのだ。なんとなく、その声の方へ惹かれるように行ってしまった。

 それが、間違いだった。


 母は父ではない男と楽しそうに遊んでいた。

 扉を開けると軋んだ音がして、二人が一斉にこちらを振り向く。肉食獣のような二人の眼光が怖かった。


 母はいつもの、儚い可憐な方では無かった。自分に話しかけもせず、無表情で淡々とされていたが、子どもながらに愛されていると思っていた。

 違ったと気づいたのは頬に熱を感じてからだった。

 母は萎えた、と言って自分の頬を打った。わけが分からなかった。母は、お姫様のように美しかった。だから父は、白馬の王子様だと思っていたのに。

 裸体の母と、後ろで葉巻を吹かす見知らぬ男を見て、何かが違うと理解した。

 自分が見てきた母は虚像だったのだと初めて知った。

 自分の世界を否定された気がした。


 暫くして、母は屋敷から出ていき父は屋敷に帰ってくることがなくなった。どこにいるかも分からない。フラッと帰って来ては部屋を使ってまたフラッとどこかへ行く。

 その時置いていく少量の金貨が、彼の娘へのほんの僅かな愛情だった。


「貴方は、まるで分かっていないわ。オルディア。わたくしを娶るという意味が」


 ちらりとオルディアを見上げれば、案の定彼は戸惑った色を浮かべていた。


「わたくしは、アバズレの母とろくでなしの父を持つ、卑しい売女」


 フローラは世間一般ではそういう人物になっている。ギリギリ男爵の地位を取られず、なんとかやっていけているのは不幸中の幸運だろう。

 もう、侍女すらいないのだから。


 この屋敷は別名、"色欲の館"。皆がお金を払って、フローラを買う。しかし娼婦と違って、フローラには拒絶する権利もあった。それが許されるのは一重に、フローラがアバズレであっても美しい母と、ろくでなしであっても麗しい父の血を贅沢に受け継いだ結果だと言える。


「"客"は、誰もわたくしの幸せなんか祈らなくてよ」

「俺が、幸せにしてやるさ」


 オルディアが告げると、フローラはくつくつ笑う。珍しい笑い方だった。


「わたくしが体を売ったのが15歳。今は20歳。恐ろしいほどの行き遅れ。しかも己の身体を使って金を稼ぐ女よ」

「そんなことは知ってる」

「もっと、自分の身を案じなさい。わたくしは、貴方にとって毒でしかないわ。貴方が本当にアルデンテ家のご子息なら、分かるはずよ」


 オルディアがぐっと歯を食い縛った。オルディアは子爵だが、権力で周囲を黙らし無限に金を持っているような公爵ではない。

 世間からの評価が地をゆくフローラは重荷以外の何者でもなかった。


「分かったのなら、お帰りになって。楽しかったわ」


 頬にキスを一つ落とせば、オルディアは引き締めていた顔をゆるゆると緩めた。


「あぁ、君には敵わないな。フローラ」

「そうかしら?」

「襲われそうになった時も一人で立ち向かって勝っちゃうし」

「あら、知ってたの? あのハゲ、鬱陶しかったのよ。しつこくて」


 軽口を叩けば、オルディアは少し回復したようでほんのり笑った。彼には、自分のような人間は似合わない。もっと良い人と出会えるはず。


「君は、ここから出ないんだね」

「屋敷から出たら、お金が稼げないわ」

「そんなはずはないだろう。五年も貯めていれば旅は十分に出来るし、爵位を返せば身軽に国を越えられる」


 オルディアの、言うとおりだった。


「やはり、なにか心残りがあるのだろう?」


 珍しくオルディアの声が厳しい。騎士らしいな、とフローラは笑った。

 俺には理由を聞く権利があるとでも言わんばかりにオルディアはフローラを見つめた。


「ここに、居なきゃいけないって思うのよ」

「なぜ?」


 フローラはおもむろに窓に近づき、何年か前よりも荒れた庭を見た。


「誰かが、来てくれる気がして」


 フローラの桃色の瞳の奥には、哀願と懺悔。罪悪感が見え隠れしていた。

 哀れだな、とオルディアは思う。そして、その愁いを浮かべる彼女に自分は惹かれたのだと。

 彼女に、迎えは来るのだろうか。彼女が恋しく思う誰かに、彼女は会えるのだろうか。彼女は待っていた。誰かが来るのを、ずっと。


「俺に抱かれる時、君は何を思う?」


 咄嗟に出た疑問は率直過ぎたけど、彼女はふわっと微笑んだ。瞳には、どうしようもない悔いの念が浮かんでいる。


「気持ちいいなって」

「いや、それは嬉しいんだけど。そうじゃないでしょ」


 フローラはじっとオルディアの顔を見た。


「楽だなって思うの。わたくし、貴方が思うような人じゃないのよ。腐っても母と父の血を引いているの。誰かの温もりに触れていると悩みも苦しみも全部消えて、楽なの。たとえ相手が誰であろうと、快楽に溺れればそれが全てだから」


 オルディアはズキンッと胸が痛んだ。

 想像していた回答ではあったが、それはフローラが自分に微塵も興味がないと言っているようなものだった。


「失望した?」

「いいや。君は、そういう人だし、なんとなく気付いていたよ」


 オルディアは失恋したようには見えないほど爽やかに笑っていた。フローラはきゅと唇を結ぶ。


 彼は、きっとフローラを許す。

 何人もの男と寝て、金を搾り取っても彼は許すだろう。

 だが、フローラはそれに甘えたくなかった。彼の弱味に漬け込むほど、墜ちてない。己を許してほしい訳でもない。


「フローラ。君に、これを」


 不意にオルディアが差し出したのは一枚の紙切れだったが、フローラはその正体を知っている。


「招待状? わたくしに?」

「あぁ、君に。少しは外の世界に行ってみないかい?」


 フローラは紙切れを受けとるわけでもなく、じっと見つめた。


「わたくし、舞踏会なんて何年も行ってませんわ。相応しいドレスも、持っているか……」

「大丈夫だよ。俺の家が開く舞踏会だし、そんな堅苦しくて高貴な感じじゃない」

「わたくしが行けば台無しにするのでは?」

「フローラ、受け取ってくれないか」


 オルディアの顔に憐憫と慈悲が浮かんでいた。

 あぁ、慰めてくれているのか、とフローラは理解した。少しでも、日の当たる場所に帰れるように。

 この男は、やはりどうしようもなく甘い。

 だからこそ、自分なんかのために会いに来ず、早く目を覚ましてもっと相応しい人と幸せになって欲しいのだ。


「分かりました。では、有り難く」


 フローラがそう言って笑えば、オルディアは安心したように笑い返した。


 最近は、歳も重ねたせいか客足が少ない。ここで数名に色目を使うことにしよう。

 まだ、幼い頃はそうやって男を引っ捕まえてはお金を貰っていた。舞踏会の夜の庭なんて格好の穴場である。まぁ、行く度に他の令嬢からアバズレだの娼婦だのと罵られてきたのだが。

 こちらは生きるために必死だ。そんなのに構っていられる余裕などない。


「……悪い顔をしているね、フローラ。何を考えているかなんて手に取るように分かるけれど」


 オルディアは苦笑を浮かべてフローラを見た。フローラの顔にはもう先程の憂いは浮かんでいない。ただただ好戦的な気の強い女に戻っていた。


「そうね。ハゲの相手なんか大金を積まれてもしたくはないし。いい機会だわ」


 フローラは人差し指と中指で招待状を軽く揺らすと意地悪く笑った。



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