1-17 風邪
バスに揺られることに二十五分。
その間、僕はついさっき起こった出来事が脳裏に焼きついて離れないでいる。
帰り間際、綾に抱きつかれて、自分らしさや自由などと戦う宣言されたこと。
綾にはどういう意図があったのか。
僕にはわからない。
けど、物事は深刻に考えすぎないようにするのが大切で、そのことと自分との間に適切な関係を築けるかがポイントだ。
とにかくシンプルが一番。
僕が綾の手助けになるのならそれでいい。
そうに違いない。
「うん、やっぱりそうだ」
やがてバスはいつもの小学校前で止まり、僕はそこで降りる。
自分の影を見つめながら、東風荘までの短い道のりを歩く。
「三号室、と」
表札の坂本を確認し、ドアの鍵を開ける。
そして部屋に入ると、直が机に突っ伏していた。
しかも、なんだか様子がおかしい。
「直」
慌てて近くまで行き、直の様子を窺う。
額には、あまり良くない種類の汗をかいている。
直のおでこに手を当ててみると、やっぱり熱があった。
「あ、春」
直が僕に気がつく。
しゃべるのも億劫そうだ。
「直、大丈夫?」
「くしゅ」
小さなくしゃみ。
ティッシュを直の近くに持っていく。
「大丈夫じゃないね」
「ん」
さて、どうしたものか。
まずは直を布団に寝かせるべきか。
「直、布団敷くからちょっと待ってて」
「うん」
僕は押し入れから布団を取り出して、いつも二人で寝る場所に敷く。
とはいっても寝室ではないから、この部屋の生活空間を見事に浸食した。
「春」
布団に体を休めた直が、僕を呼ぶ。
「直、どうしたの? それと無理にしゃべらなくていいから」
「ううん。いいの」
「良くないよ」
「ううん」
直が喘ぎながらも、言葉を漏らす。
本当に辛そうだ。
「でも、これだけは言いたくて」
「え?」
「ありがと」
「ありがとう、だなんて」
直は僕にとって大事な妹。
この広い空の下、大切な繋がりを感じられる唯一の存在。
「当たり前のことだから」
「私、春がそう言ってくれて嬉しい」
そう言った後、直が咳をする。
「安静にしてないと」
「ん」
それにしても、直が風邪をひくことなどあったのだろうか。
最近ではとんと記憶にない。
特に、この東風荘に来た二年前からは一度もなかったと思う。
「直、これからおかゆを作るね」
けど、直は首を振る。
「台所は男子禁制」
「解禁しなさい」
「努力で私が」
「翻意しなさい」
「春」
「だめだよ」
涙目で見つめてくる直。
けど、だめなものはだめなのでしっかり言い聞かせる。
すると、直はようやく納得してくれた。




